第32話『飛蹴・下』

「んだよ、これ……」


 気づけなかった。

 周囲の気温が急激に下がっていることに。

 スーツの高い耐久性が、かえって裏目に出たのだ。


 パキ゛ャ゛


 身を動かすと、ガラスが擦れ合い、割れるような不快音がスーツから響く。


「あの魔法、これが狙いか」


 強化外骨格パワードスーツの内部にも………浸食が始まっている。


 女が力なく顔を横に向ける。

 唇は紫色に変色し、肌も青白くなっていた。


 これはただの低体温症ではない。

 頬には、キューブ状の氷がいくつも……。


「カハァッ、カヒュッ゛」


 冷気のせいで呼吸がままならないのだろう。

 苦しそうにしている。

 このままでは、肺が凍りつき、いずれ壊死する。


 羽織らせていたコートから余ったポーションを取り出すが、瓶ごと中身が凍りついていて使い物にならない。


 空間か物体を凍結させる魔法。

 なるほどな、効率的だ。


 これなら視覚的な情報共有が封じられ、物理的な接触なしに俺の動きを鈍らせることもできる。

 自然に凍死を待つか、生き残ったとしても、衰弱したところを仕留めればいい。


「……ちまちまと、舐めた戦い方しやがって」


 こんなんで俺が死ぬわけねぇだろ。

 氷壁ごと蹴り飛ばして、離脱するだけで済む話だ。


 すぐさま女を抱き起こそうとする。

 が………手が止まった。


 懸念すべきは、俺がこの場を引いたことで魔物がどう動くか。


 ここを離れたら、そうしたらコイツの標的は…………。

 視認できない以上、もう追うことはできない。


 とどめを刺すなら、こっちに意識を向けている今しかない。


「………クソっつ!!」


 頭では理解しているのに、踏み出せないでいる。

 この女の向こうに、あの日の幻影が重なって見えてしまって、余計に……。


 ボロボロのアパートで知らない家族が怪人に襲われていた、あの日。

 瀕死のガキがいて、両親は食い殺されていた。

 怪人を殺し、すぐに駆け寄ったが、その時にはもう…………。


 助けられたかもしれない命をまた見殺しにした。


「………もう二度と、あんな思いはゴメンだ」


 そう誓おうとした矢先、腕を強く払いのけられた。


「おい、なにやってッ———」


「すぐに…おわるんでしょ…」


「………お前……」


「おねがい……わたしのじんせい……まけてばっかなの……」


 途切れ途切れにそう口ずさむ。

 この女の目は、まだ死んでいなかった。




「…みせてよ………かってるとこ……」






 言いたいことを言い終えると、眠るように意識を手放した。


「………………」


 視界がぼやけてきた。

 今も一帯が急速に凍結が進んでいる。 

 マスクに張り付いた氷晶のせいで、前がほとんど見えない。


 時間がない。

 長居は無用だ。


 さっさと………。


「しばらく洗ってねえから汗臭ぇけど、我慢しろよ」


 自分のそれを、凍える顔にそっと被せた。

 荒かった肩の呼吸が、徐々に落ち着いていく。


 自分の顔が反射して映った。


 左の眼球はとうの昔に潰して、奥まで空っぽだ。

 スーツの力も加わって無理やり穿ほじったから、市販の眼帯では隠せないほどでっかい穴になっちまった。


 注目を浴びるのは昔から苦手だ。

 それなのに、この顔になってからやたらと視線を感じるようになった。

 あと、あのマスクをつけていないと空になったところから風が突き抜けて、酷く痛む。


 シルバに言えなかったのは、気を遣わせまいという気持ちが半分。


 もう半分は…………この世界の奴らが美男美女ばかりで、なんか腹立つ。


 シルバを除いてだが、イケメンは正直、助けたくない。

 なんなら、ちょっとばかし数を減らした方が、この世界の酸素濃度が上がって、その分空気が美味くなるんじゃないかとすら思っている。


 …………けどよ。


「ここでやらなきゃ、カッコつかねぇよな」


 そう決意し、立ち上がる。


 『透化』による物理無効は、たしかに反則チートだ。

 だが、対処方法がないわけじゃない。


 あの能力には隙がある。


 俺がヤツなら、戦闘中も顔面や胴体は常に隠しておく。

 不意にでも攻撃を食らえば、致命傷に繋がりかねないからだ。

 だが、血肉をぶっかけたとき、それらがはっきりと視えた。


 おそらく、『透化』ができない。


 次も、自発的な接触、もしくは何らかの攻撃動作アクションに移行する時、ヤツは全身を実体化させるだろう。


 虚を突き、そこを叩く。

 より早く。



 一撃で。





 ………どうやって、探す?


 辺りは氷窟ひょうくつと化している。


 冷気で……ダメだ、気流が不安定すぎる。


 散乱した死体も凍結し、位置を特定する道具としてはつかえそうにない。


 一度反撃されたことで、警戒している。

 安易に引き寄せられるような真似は、もうしないだろう。


「ハア」


 ………寒い。


 口から白い息が漏れる。


 息。

 熱。


 これだ。


 血の氷床に片膝をつき、両手を押し当てた。

 足場は十分に固い。


 突破口は、今、できた。


「ただ光ってるだけじゃねえってこと、思い知らせてやるよ」


 その言葉と共に、ベルト中央部にある円形のコアが、これまでとは比較にならないほどの輝きを放ち始める。


 鳴動。

 金色に脈動する光は激しさを増し、駆動音とともに周囲の空気を振動させていく。


 スーツを覆うラインが全身にエネルギーを行き渡らせるように煌めき、血管のように太く、力強く輝いた。


 光量が増す度、装甲の周囲から白い蒸気が噴き出す。

 強大な攻撃には、それに相応する膨大な時間とエネルギーがいる。

 スーツは、そのエネルギーを高速で全身へと循環させ、表面を焼き焦がしそうなほどの高熱を生み出していた。


 周囲の冷気をねじ伏せるほどの熱量に、顔の皮膚が焼けるように痛む。


 これでいい。

 むしろ、この熱が俺の感覚を研ぎ澄ませてくれる。


 氷塊と熱が衝突し、空間内が白いミストに包まれる。


 視界が真っ白に染まるその瞬間。

 右目でとらえた。


 蒸気の中から浮かび上がる、迫りくる無数の蛇腹の尾。

 その尾の根本には………。


「そこか」


 低く身をかがめ、クラウチングスタートの構えから一気に加速する。


 脳にアドレナリンが流れ込み、思考を加速する。



 俺の戦術に気づき、ヤツは攻撃を仕掛けてきた。

 次はない。

 尾は回避する。

 ヤツはすぐに『透化』を発動する。

 その前に間合いを潰して、頭を直接…………。




 いや。




 加速から3歩、助走をつける。







 ヤツは、を見たことがあるだろうか?


 俺は……間近で見た。


 不本意だが、この瞬間だけ。

 あのじいさんに、猛烈に感謝している。



「歯ぁ、食いしばれ」



 勢いを殺すことなく、左脚を軸に。

 全身の関節を連動させ、すべての力を右脚へと収束。


 鞭のようにしなる脚が、音もなく、そこで消える。



 刹那。

 衝撃波を生んだ。


 ォォォォォォォオオオオォォォオ゛オ゛オ゛オ゛ッ゛!!!


 それは、飛ぶ斬撃ならぬ。

 飛蹴。


 凝縮されたエネルギーから放たれる無音の蹴撃が、触れることなく、空気の圧力のみで無数の尾をことごとちりへと変えていく。


 そして、その先にいる魔物は、雄叫びをあげる間もなく————。













——————



〖グズの視点〗



 …………なに、コレ?



 目が覚めると、ひんやりとした感触が顔を覆っていた。


 少々酸っぱくて、血生臭い。

 息苦しさはないが、皮膚と一体化しているかのような感触に、戸惑いを覚える。


 恐る恐る手を伸ばし、引き剥がす。

 そうして初めて、それが私の知ってるマスクだと気づいた。


「………よぉ、見えるか?」


 声の主は、背を向けてあぐらをかいたまま、私のそばにいた。

 話しかけてくるわりに、こちらに顔を向けようとはしてこない。


 そのとき。

 大きく風が吹いて、髪が後ろへとなびいた。



「………!」



 漆喰しっくいが剥がれ落ちた壁、木目が歪んだ天井、家財道具、何もかもが跡形もなく消え失せていて、目の前には———。




 遥か彼方まで見渡せる、夕焼けに燃える街の景色が広がっていた。




 すごい。


 知らずに生きてきた。

 この世界って、こんなにも綺麗だったんだ。




「はあ……やっちまった………盗まれた金もどっかに吹っ飛んじまったみてぇだし……またすっからかんだ」


「……………」


 ぼそりと呟くその背中は。

 やっぱりあの人のものだった。


「なぁ、報酬は払えないんだけどよ。また危ない目に遭ったら俺が守るから………リヴェア語、みっちり教えてくんねぇか?」



  グスッ



「え、ちょ、そんな嫌゛ッ———」



 濡れた頬を。

 声もなく、目の前の背中に押しつけた。


 しばらく彼は戸惑っていたが、やがて何も言わなくなった。



 …………………ずっと、光を求めていた。



 この気持ちに取り憑かれたのは、きっと、私が死んだあの日から。


 まるで、悪夢から覚めたように。

 ここを覆っていた氷も、私の不安も溶けていく。


 誰にも甘えられなかった分、今だけはこの優しさに甘えたい。


 だから、もう少しだけ。


 時と共に、茜色から藍色へと染まりゆく空の下、私に光を差してくれたこの人は———。


 ただひたすらに、まぶしかった。

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