第6話

 月曜日、学校にて。帰宅準備を終えて廊下を歩いていると、律は音楽教師で吹奏楽部の顧問であるさかき高行たかゆきに会った。

「おお、相川君。調子はどうだ? 最近元気にやっているか?」

 高行はフランクな様子で律に話しかける。

「あ、先生。こんにちは。調子はまあまあです。最近はジャズやってて、ジャムセッションの練習をしてます」

 律の報告に高行は「おお、いいじゃないか!」と素直に喜ぶ。

「ジャムセッションか。ジャズだとまずは枯葉辺りをやっているのか?」

「はい」

「いいね。楽器を続けているようで嬉しいよ。練習場所は大丈夫か? 練習場所が必要なら放課後に空いている教室探すし、楽器も音楽室の倉庫に置いていいぞ?」

 高行は提案する。

「いえ、気持ちはありがたいんですけど、あまり他の吹奏楽部員に会いたくなくて。練習場所は祖父の家に防音室あるから、困ってませんし」

 律は申し訳なさそうに言葉を濁しながら、高行の提案を断る。

「ああ、そうか。それならいいんだ。正直相川君が部活を抜けたのは残念だが、そのことについて責めるつもりはない。部活を続けるのも辞めるのも個人の自由だからね。だからあまり気に病まなくていい。楽器の事でも他の事でも、いつでも相談に乗るから遠慮無く頼ってくれ」

 高行はそこまで言うと「じゃあ、またね」と言ってその場を去って行った。

 残された律は何かを考えるように少しの間立ち止まっていたが、すぐに玄関へ向かうため廊下を歩き出した。


 次の日。まっすぐ家に帰り、律は美琴が運転する車で実の家へ向かう。

「そういえば、昨日榊先生に会った」

 ふと、律は美琴に昨日のことを報告する。

「榊先生って、吹奏楽部の顧問よね? 何か言ってたの?」

 美琴は車を運転しながら話を促す。これに、律は答える。

「最近どうだって聞かれたから、ジャズやってるって話した」

「どうだった?」

「いいねって言ってた。あと、楽器の事とかいつでも相談に乗るっていってたけど、やっぱり今でも気まずい」

 律の話に、美琴は「まあ、気まずいよね」と苦笑する。

「まあ、気にしなくていいんじゃない? 今はジャズが楽しいんでしょ? だったらそれを楽しめばいいじゃない。今のうちに楽しいことはした方がいいわよ」

 と、美琴は言う。律は「うん」と頷いた。

 そうこうしているうちに、律を乗せた車は実の家に到着した。

「おお、来たか律。美琴も、毎度毎度送り迎えありがとな」

 インターホンを鳴らすと、実が出迎える。

「いいのよ別に、私も自由時間できるし律も楽しそうだから」

 そう言って美琴は笑う。

「じゃあ、今回も時間になったら連絡するぞ」

 実の一言を受けて、美琴は「わかった。じゃあ、またね」と言って車に乗り込み、そのままその場を後にした。

「よし、早速準備するか」

 実は律に声をかける。これに律は「うん」と頷き、実と共にリビングへ向かう。そして、いつも通り楽器の準備をして、防音室へ向かった。

 防音室に到着した律は、まず現在練習している楽曲『枯葉』こと『Autumn Leaves』のテーマを復習する。続いて枯葉のコード進行とスケールをおさらいで演奏し、いよいよアドリブの練習だ。ここまでの練習はもはや律の中でルーティンとなっているが、それでも気を抜かずに練習した。

「よし、今日は前回の続きで8分音符でのアドリブ練習をしようか」

 実に言われ、律は「わかった」と返し、早速練習に取りかかった。

 8分音符で構成されたいくつかのリズムパターンで、律はアドリブを組み立てる。初めはリズムに流されてしまい、音を並べるだけで精一杯だったが、数をこなすうちに自身で音をしっかり選んで演奏できるようになってきた。

「大分できるようになってきたな。じゃあ、今度は本格的にアドリブをやってみよう。今から4テーマ分伴奏を流してくれ。1回目と4回目の伴奏はテーマを吹いて、2回目と3回目はアドリブを行うんだ。どうだ? できそうか?」

 実は聞く。

「うん、とりあえずやってみる」

 律はこう返す。これに実は満足そうに頷いた。

 こうして律は実に言われたとおり、スマートフォンアプリ『i Real Pro』を操作し、枯葉の伴奏を流してテナーサクソフォンで演奏する。

 最初は、やはりうまくいかない。いざ自由にやっていいとなると案外指が回らず、メロディがもたもたしてしまう。しかし全く何をしていいのかわからないということはなく、なんとか音を紡ぐ事はできている。

 結局メロディのもたつきは取れないまま、練習終了の時間となった。

「律、どうだ? 手応えはありそうか?」

 実は聞く。

「ありそうな気がする。多分もうちょっと練習できれば、慣れると思う」

 律が答えると、実はニヤリと笑いこう言った。

「この調子なら、来週の日曜のジャムセッションでセッションできそうだな」

「え?」

 律はぽかんと目を丸くする。実はさらに話を続ける。

「来週の日曜、ココットでジャムセッションデビューするか。このままちゃんと真面目に練習すれば大丈夫だろう」

「でも、枯葉しかできないよ? 大丈夫なの?」

 不安がる律に、実は「誰でも最初はそんなもんだ」と返す。

「まずは踏み出さないと始まらないだろう? 大丈夫。自分が初心者で枯葉で参加したい事を伝えれば問題ない、その辺りココットは融通が利く店だ。だから、とりあえずやってみろ」

 これに対して律は正直不安な気持ちもあったが、勇気を振り絞り「わかった、がんばってみる」と答えた。その姿を見て実は「よく言った」と律を褒めて、嬉しそうに目を細めた。


 来たる日曜日。

 律は実と共にココットへやってきた。

 しかも、今日はテナーサックソフォンを持ってやってきた。律はついにジャムセッションデビューをするのだ。

「お! 律君それ楽器?」

 ココットに入ると、カウンターにいた正志が反応する。

 律は緊張した面持ちで「はい」と答える。

「おお、ついに律君もジャムセッションやるのか。何の曲をやるの?」

 正志は聞いてくる。これについては実が代わりに答える。

「枯葉だ。律は初心者で今のレパートリーは枯葉しかないから、配慮してほしい」

「もちろん構わない。律君が本気でジャズに取り組んでいるようで嬉しいよ」

 そう言って、正志は嬉しそうに笑う。

「マスター、ママ。終わりましたよ」

 そこへ博がやってくる。食材の入ったエコバックを手に提げているので、どうやら買い出しから帰ってきた所のようだ。

「ああ博君! 丁度いいところに来たな。今日は律君がジャムセッションにチャレンジするそうだ。枯葉をやるらしいぞ」

 正志は博に状況を話す。

「え? そうなの律君? すごいね! 枯葉習得できたんだ。緊張するかもしれないけど、がんばって。応援してるよ」

 博の言葉に、律は「ありがとうございます」と返す。その表情はまだ固い。

「あ、そうだ博君。食材を厨房へ置いてくるついでに雪子を呼んで来てくれないか? 律君のこと報告したいんだ」

 この正志の言葉に、博は「わかりました」と言ってカウンターに入り、奥の扉に引っ込む。そしてすぐにその扉から雪子が出てきた。

「律君と実さん、いらっしゃい。博君から話は聞いたよ。律君、ジャムセッションデビューするんだって?」

 雪子は聞く。律は「はい、やります」と答える。まだまだ緊張しているようだ。

「すごいねぇ、楽しみにしてるよ」

 雪子は律に笑いかける。律はか細く「はい」と答える。

「マスター、ママ。律は初めてなんだ。あんまり圧をかけないであげてくれ」

 実は正志と雪子に注意する。正志と雪子はそれぞれ「ああ、悪い悪い」「そっか、ごめんねぇ」と律に謝る。

「それじゃあ話題を変えて、注文は決まってる?丁度出てきたから聞くよ」

 雪子はメモを取り出しつつ、実と律を促す。

 これに二人はそれぞれ注文をする。実はアイスカフェオレにチーズカレードック。律はウーロン茶にハムチーズ玉子サンドを頼んだ。

「はい、わかった。じゃあ、作ってくるからちょっと待っててね」

 雪子はそう言うと奥の扉に引っ込む。それと入れ替わりに博が出てきた。

「律、今のうちにジャムセッションの流れをおさらいするか」

 実は律の緊張を察しているのか、こう提案してきた。律も不安が残るのだろう、「うん、そうする」と言って実の提案に乗る。

「まず、最初はテーマの演奏だ。テーマが短い場合は二回繰り返して演奏するが、枯葉の場合は一回演奏すればいい」

 実の解説に、律はこくこくと頷く。手元にはB5ノートを開いている。

 このノートは律がジャムセッションを始めてから練習で知った知識や、ココットで得たジャズの情報をコツコツまとめたノートで、当然今回のジャムセッションの流れも書き記してある。

 律がしっかりと理解しているのを確認し、実は解説を続ける。

「続いて各楽器によるアドリブだ。基本的には管楽器、ピアノ、ベースの順番で行う。メロディパート、伴奏、ベースで進行すると憶えるといいな。アドリブはテーマ単位で行い、その長さに制限はないが、まあ大体2~3テーマ分が丁度いいだろう。テーマが終わったら次のパートの人に合図を送ると、相手がやりやすいぞ」

「サックスの場合はベルを相手に向けて促すとわかりやすいな」

 実の解説に、正志が追加情報を入れる。これに律はノート付近に置いていたボールペンでその追加情報を書き加える。

 さらに、実は解説を続ける。

「そして、ドラム以外の全てのパートがアドリブを終えたらフォー・バースだ。これはドラムの腕の見せ所で、4小節ごとにドラムとの掛け合いを行う。順番は管楽器、ドラム、ピアノ、ドラム、管楽器、ドラム、といった所だな。基本的にベースはフォー・バースに参加しないぞ」

「フォー・バース中も曲はテーマ通りに進行しているから、そのコード進行に合わせて演奏を進めるんだよね?」

 律の質問に、実は「そうだ」と頷く。

「フォー・バースは大体1~2テーマぐらいだな。フォー・バースに入るときは指で4を示して合図するんだ。フォー・バースに入るタイミングは大体ベースの人が示してくれるから、それを受けてフォー・バースの始まりを他の人に教えるんだ」

「まあ、大体テーマ終了の2小節ぐらい前にベースがアドリブから通常のベースラインに戻るから、聞けばわかると思うよ」

 と、博はアドバイスする。これも律は真面目にノートに書き込む。

「そして、フォー・バースが終わったらテーマに戻る。テーマに戻る際は頭を指さしてメンバーに合図するんだ。テーマが終わったらジャムセッション終了。最後に、ジャムセッションを始める前の話なんだが、今回演奏する曲と大雑把なテンポは必ずメンバーに伝えること。曲の始まり方と終わり方も共有できると上出来だ」

 実の解説に、律は「わかった」と返す。

 そこへ、注文した料理を持って雪子がやってきた。

「あら、律君ジャズのことちゃんと勉強してるんだ。勉強熱心だねぇ」

 料理を並べて、雪子は律の手元にあるノートに気付き、感心する。

「はい、結構ジャズ面白くて。学校の勉強よりはかどってるかも」

 律の言葉は苦笑いを浮かべる。

「いやいや、夢中になれることがあるのはいいことだよ。ねぇ正志さん」

 雪子に話を振られて、正志は「そうだな」と肯定する。

「おじちゃん達からしてみれば、律君のような若い子がジャズやってくれるのは嬉しいんだよな。こういう所はなかなか若い子が寄りつかなくて、おじちゃんおばちゃんばっかりになっちゃうから、若い子がいるだけで場が明るくなるんだよね」

「そうなんですか?」

 ピンときてないのか首を傾げる律に、正志は「そんなもんだよ」と返す。

「まあ、解説も終わったし、食事にしようか」

 そう言って、実はチーズカレードックにかぶりつく。律も雪子お手製のチーズハム玉子サンドを一つ手に取り、食べ始める。まろやかで素朴な味わいのサンドイッチに、律は少し緊張がほぐれたような気がした。


 その後ココットの店内に人が集まって来て頃合いで、ホストバンドによるミニライブが始まる。律はいつものように黒本を開いて曲を聴いていたが、今日はいつもより曲に集中できないと感じていた。

 まだセッションの時間ではないのに、緊張でドキドキしている。

 結局、ろくに曲を楽しめないまま、ミニライブは終了した。

「律、名簿を書くぞ。こっちへ来い」

 実はカウンター上にある参加者名簿の前に立ち、律を呼ぶ。

「わかった、今行くよ」

 律は返事をして、実の元へ向かう。

「いいか律、参加者は全員この名簿に名前と担当楽器を書くことになっているんだ」

 実は説明する。

「うん、知ってる。この前ココットへ来たときに忍君に教えてもらった」

 律がそう言うと実は「じゃあ、話は早いな」と言って、話を続ける。

「この名簿の『名前』という欄に名前を書いて、『パート』という欄に担当楽器を書く。律は初心者で枯葉しかレパートリーがないから、『特記事項』の欄に『初心者、枯葉で参加』と書いておこう。これでホストの人が融通を利かせてくれるはずだ」

 これに律は「わかった」と返事をして、言われた通りに参加者名簿へ記載した。

「よし、名簿を書いたなら後は出番を待つだけだ。律、多少の失敗は仕方ない。だから今日は思い切りやってこい」

 実は律にこう言葉をかける。律は「うん」と頷いた。

 どうやら覚悟は決まったらしい。

 そして、セッションの時間が来た。

 律は三組目に名前を呼ばれた。司会として仕切っていたホストバンドの一員である市川一吹が、律が初心者であること、枯葉しかレパートリーがないことを告げる。他のメンバーは納得している様子だった。

「えっと、今回はよろしくお願いします」

 まず、律はたどたどしくも挨拶をする。

 他のメンバーは律に対し、こやかに挨拶を返す。

「まずテンポはこのぐらいで、イントロは最後の4小節を伴奏に使ってください」

 律は手でポンポンと体を叩いてテンポを示しながら、他のメンバーに演奏方法を指示する。メンバーは皆相槌を打ちながら律の話を聞いていた。

 今からこの人達とセッションするんだ。

 改めて律は感じた。

 もうここまで来たら緊張感より高揚感の方が勝っていた。どのようなセッションになるのか、今からでもわくわくする。

 やがて、セッションの始まりを告げるピアノの前奏が始まった。この前奏を受け、律はテーマを演奏する。

 テーマは上出来。割と格好良くできたと自画自賛する。だが、テーマの次はすぐに律のアドリブがある。気は抜けない。

 そして律のアドリブ。テーマの伴奏に合わせてアドリブを紡ぐ。がんばって綺麗に音を並べようとするが、やはりステージになれていないのだろう、指がもたつく。それでも2テーマ分アドリブをこなし、ピアノへとバトンをつなぐ。

 続いてピアノのアドリブ。どうやらうまく合図を送ることができたらしく、スムーズに進行する事ができた。ピアノの繊細な音が、曲の雰囲気によく合う。ピアノの次はベースのアドリブだ。ベースのアドリブも重低音が渋くて格好いいのだが、律は気を抜かず、タイミングを伺い指で4を示してフォー・バースの合図を出す。

 こうして次はフォー・バースだ。これもスムーズに移行できた。ドラムのリズミカルなアドリブと掛け合いをするのは心地いい。そして1テーマ分フォー・バースを済ませたタイミングで律は頭を指し示し、テーマに戻ることを告げる。

 最後に曲は再びテーマに戻る。律は心の中で安堵しつつ、テーマを演奏する。

 だが、問題は最後に起きた。テーマを締めようとしたのだが、他のメンバーとの連携がうまくいかずにぐだぐだになってしまったのだ。

「すみません! うまくいかなくて」

 曲を終えて早々、律は他のメンバーに謝る。

 他のメンバーは口々に「大丈夫だよ」「初めてならそんなもんだよ」と言ってくれたが、律は申し訳なさでいっぱいだった。

 結局、後悔を残しつつ律はステージを降りた。

「律、お疲れ様。どうだった? 初めてのジャムセッションは」

 帰ってきた律に、実は聞く。

「アドリブがもたついちゃったし、最後うまくいかなかった」

 律は素直に自分のセッションを振り返る。

「いや、初めてにしては上出来だ。最初は誰でも満足いく出来にはならないさ」

 実は律にこう言葉をかける。それでも律はまだ納得いってない様子だ。

「お疲れ様、律君。セッション聞いたよ。とても良かった」

 そこへ博がやってきて、律に話しかける。

「ありがとうございます。でも、最後ぐだぐだになっちゃった」

 いまだに反省している律に博は「まだいい方だよ」と笑いかける。

「僕は最初サークル内でジャムセッションデビューしたんだけど、初めてのセッションでは譜面読むのに手間取って途中で演奏を止めちゃったからね。律君は止まることなかったから、僕のデビュー時よりうまいと思う」

「そうそう、止まらなかっただけ偉いぞ。それに反省しているなら、次はそうならないように練習をすれば良い」

 今日はいろいろ学べたな。と、実は言う。

「うん、次はうまく出来るようにがんばる」

 律はまっすぐな目でこう言った。

 その後、何組かセッションを行い、ジャムセッションの時間が終了した。

 律は使用したテナーサクソフォンを片付ける。

「律君、お疲れ様。今日はセッションに参加してくれてありがとね」

 と、律に一吹が声をかける。

「お疲れ様です一吹先生。最後の方失敗しちゃったけど、楽しかったです」

 律がこう述べると、一吹は「それは良かった」と笑う。

「実際上手だったよ。だからまた参加して。待ってるからさ」

 一吹の言葉に、律は「はい」と答えた。

 かくして、テナーサクソフォンを片付け終えた律は、実と共にココットを後にし、実の家へ戻ることにした。

「律、これで爺ちゃんがジャムセッションで教えられる事は一旦全て教えた。曲の練習方法はだいたいわかるな?」

 道中、実が話す。

「まあ、自信は無いけどわかる」

 若干不安げな律。

「よし、枯葉でやった練習方法を思い出して見よう。言ってみろ」

 実に言われ、律は「えっと」と考える。

「まず、テーマを練習する。そしてコードを頼りにスケールを導き出して、コードを四分音符で、スケールを八分音符で練習する」

「コード進行の基本は?」

「ツー・ファイブ・ワン。もしくは1625(いち・ろく・にー・ごー)」

「よし。続けて」

「うん。コードとスケールが出来るようになったら、最初は四分音符のリズムパターンで、慣れたら八分音符のリズムパターンでアドリブの練習。最終的に本格的に即興をやってみる」

「よしよし、完璧だ。ジャズの大体の曲はこの練習方法で身につけられる。これからは基本一人で練習してみようか」

 実の提案に、律は「できるかな?」と不安がる。

 これに実は「心配するな」と話す。

「一緒に防音室へ行かないというだけで、爺ちゃんはリビングで待機しているから、いつでも聞きに来れば良い。でも、どこから練習すればいいかわからないだろう? だからまずはここからという課題曲をいくつか用意しておいた。このメモの曲から練習してみると良い」

 そう言って、実はポケットから紙切れを取り出し、律に渡す。

「わかった、やってみる。メモについては後で確認するね」

 と、律は言う。実は「ああ、やってみてくれ」と言って、嬉しそうに微笑んだ。


 実の自宅に着き、美琴が迎えに来るまでの間、律はリビングでメモの内容を確認する。

 メモにはこう書いてあった。



【課題曲一覧】

※()内は黒本のページ数

バット・ノット・フォア・ミー(34)

バイ・バイ・ブラックバード(35)

キャンディー(37)

酒とバラの日々(54)



「ねぇ爺ちゃん。聞きたいことあるんだけど」

 実が冷えた麦茶を持ってきたタイミングで、律は口を開く。

「どうした? 律。何か質問でもあるのか?」

 実が促すと、律は「うん」と頷き話し始める。

「一応バイ・バイ・ブラックバードと酒とバラの日々については忍君から初心者向けって聞いてはいるんだけど、課題曲の四曲についてあまりよく知らなくて。何か参考になる奏者のCDとかある? あと可能であればオススメのジャズのCDとか聞きたいんだけど」

「ああ、そうか。じゃあ今からいくつかCDを貸してあげよう。母さんが来るまでに用意するから、ちょっと待っててくれ」

 そう言って実はリビングを出て行った。

 しばらくして、美琴が迎えに来た。

 それと同時に、実がビニール袋を持って戻ってきた。

「ちょっと父さん、何を持たせようとしてるの」

 ビニール袋に入った沢山のCDを見て、美琴は顔をしかめる。

 実は「いや」と訳を話す。

「律にオススメのジャズの音源を教えて欲しいと言われて、用意したんだが」

「多過ぎ。荷物積んでいる間に減らしてよ」

 美琴に言われ、実はすごすごと引き下がり袋の中のCDを厳選する。

 その間に律は美琴に手伝ってもらいながらテナーサクソフォンを車に乗せ、バックを後ろの車席に積む。

「父さん、CD選べた?」

 帰る準備が出来たところで、美琴が実に聞く。

「ああ、だいぶ減らしたぞ」

 実は先程のビニール袋を持って戻ってきた。

 袋の中のCDは半分ほどに減っていた。

「うーん、まあいいか。じゃあ、そろそろ帰るわね。律、お爺ちゃんに挨拶しな」

 と、美琴は律を促す。

「うん。爺ちゃん、今日はありがとう。また練習しに来るね」

 律がそう言うと、実は「ああ、ありがとな」と言って嬉しそうな表情で律を送り出した。かくして、律は美琴の車に乗り込み、帰宅することにした。

「今日どうだった? ジャムセッションに参加してみたんでしょ?」

 車中、運転しながら美琴は聞く。

「最後ぐだぐだになっちゃったけど、爺ちゃんとかいろんな人に褒めてもらえた。でも、やっぱりまだまだ実力不足だと思った。もっと練習して、出来る曲を増やしたりクオリティをあげたりしないといけないなって思う」

 律は感想を述べる。

「そう。楽しかった?」

 美琴がさらに聞く。

「楽しかったよ。だからこそ、もっと上手になりたい。これから沢山練習したい」

 律のこの返答に、美琴は「良いことじゃない」と応じる。

「楽しいと思えることが大事なのよ。律が楽しめることが見つかって安心したわ。そうだ、今日は律にいい報告があるのよ」

「良い報告?」

 美琴の話に、律は首を傾げる。

 美琴は「そう、良い報告」と前置きして、話し始める。

「お父さんに律がジャムセッションをがんばってるって話をしたら、新しいサックスのケースを買ってあげるって言ってくれたの。ほら、今のケースって移動するのには向いてないでしょ?」

 これに律はこくこく頷く。

 現在、律はテナーサクソフォンを買った時にそのまま付いてきた取っ手付きケースを用いているのだが、片手で持って使うタイプなので移動する時に手の負担が大きく、長時間持っていると腕が疲れてくるのだ。

 美琴の話は続く。

「だから、背負えるタイプのケースを買ってあげるってお父さんが提案してくれて、今週の土曜日に買いに行かないか? って話になってるの。どうする? 行く?」

「行く!」

 律は嬉しそうに答える。これに美琴は「そうだと思った」と笑う。

「じゃあ、お父さんに伝えておくわね」

 美琴に言われ、律は「うん!」と頷く。

 新しいケースを買ってもらえるとワクワクしつつ、律はもっと練習がんばらなきゃとますます気を引き締めていた。

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