第2話

 あらかた食事を終えた律。

「どうだ? ママの料理はおいしかっただろう」

 実に言われ、律は「うん」と返す。

「すみません! 遅くなりました!」

 と、ココットの店内に一人の青年が入ってくる。眼鏡をかけた若い青年だ。

「お帰りなさいひろし君。遅いから心配したよ」

 青年の声と入口のベルの音を受け、雪子が奥の扉から出てくる。雪子の言葉に青年は「すみません」と再度謝る。

「一吹先生とばったり会って、話をしてたら遅くなっちゃいました」

「いやぁ申し訳ない。話が弾んじゃって」

 青年の後ろから一人の男性が顔を出す。三十代ほどの優しい顔立ちをした男性だ。

一吹いぶき先生勘弁してよ。博君の仕事邪魔しちゃ駄目だって」

 男性の言葉に正志が笑う。

「一吹先生。こちら孫の律だ」

 と、実は男性に律のことを紹介する。

「ああ、律君! 実さんから話は聞いてるよ。僕は市川いちかわ一吹いぶき。折尾市の音楽教室でサックスの講師をしているんだ。よろしくね」

 男性、市川一吹は律に笑いかける。よく見ると一吹はサクソフォンのケースを背負っている。 

「確か、律君は部活でテナーサックスをやってるんですよね?」

 青年が実に聞く。

「ああ、訳あって今はもう部活から離れているんだがな、楽器を続ける場所としてジャズはどうかと提案しに連れてきたんだ」

 実の話に青年は「素敵じゃないですか」と笑顔で肯定する。

「律、彼は田原たはらひろし君。星影大学の学生さんでココットのアルバイトだ」

 実は青年、田原博のことを律に紹介する。

「まあ、俺達としてはこのままうちで働いて欲しいけどね。ベースの腕はいいし、仕事熱心だし、うちの従業員として満点合格だよ」

 正志は博の事を評価する。

「まだ迷ってますけどね。このままココットさんで働いてもいいけど、折角大学を出るなら会社員としての経験も積みたいかなって思いますし」

 そう言って博は微妙そうな顔をする。

「そうだママ、とりあえずアイスコーヒーお願いできますか?」

 一吹は適当なテーブルを確保し、テーブルの自身のケースを降ろして中のアルトサクソフォンを組み立て始めながら雪子に頼む。

「はいはい、すぐ用意するね」

 雪子は一吹にこう返し、カウンターの向こうにある冷蔵庫から氷を出し近くの食器棚にあったグラスに入れ、冷蔵庫の隣のダイニングテーブルに乗っているサイフォンの中のコーヒーをグラスに注ぎ、アイスコーヒーを用意する。

「はい先生。今日もよろしくね」

 雪子は一吹にアイスコーヒーを渡す。

 アルトサックスを組み立て終えた一吹は「ありがとうございます」言ってコーヒーを受け取る。そしてそれを一口飲んでから軽くアルトサクソフォンを吹いて、音出し作業を始める。

「爺ちゃん、市川さん何かやるの?」

 律は素朴な疑問を実にぶつける。実は一瞬ピンときてない様子だったが、すぐ「ああ、一吹先生の事か」と合点する。

「一吹先生は今日のホストバンドだからな。ジャムセッション前にちょっとしたライブも担当するんだよ」

 この実の説明に、律はますます疑問を募らせる。

「ホストバンドって何? 今日はジャムセッションをやるんじゃないの?」

「ホストバンドっていうのはジャムセッションの場を仕切るメンバーの事で、その名の通りバンド形式になっているんだ。大体セッション前にはホストバンドによるミニライブがあるね」

 律の疑問に、博が優しく答える。

「まあ、とりあえず一回聞いてみるのもいいかもな。ちょっと待ってくれ」

 正志はそう言って、ココット店内の入口付近にある本棚から本を一冊取り出し、律の元へ持ってくる。

「はい、これが日本のジャムセッションで広く使われている楽曲集だ」

 正志は律に持ってきた本を渡す。A4サイズの黒い本で、表紙に「B♭」と言う文字が大きく書かれ、それに重なるようにハット帽をかぶった男性の横顔のシルエットがうっすら描かれている。

 タイトルは『ジャズ・スタンダード・バイブル in B♭』だ。

「黒い表紙だからジャズ界隈では『黒本』って呼ばれているな。種類は三種類あってピアノやベール用の『C版』にアルトサックス用の『E♭版』、それから今持っているテナーサックスやトランペットなんか用の『B♭版』がある。テナーサックスやっていてジャムセッションやりたいなら『B♭』版を揃えるといい。まあ、今日は持っていないだろうから貸してやるよ」

 正志は説明する。これを受けて律はパラパラと少し中身を見てみる。

 中身は楽曲集なので九割九分楽譜だ。しかし吹奏楽のような細かい楽譜は少ない。これならできるかもしれない、と律は思った。

「じゃあ、一曲聴いてみるか。今回聞くのはこの曲だ。演奏は作曲者でもあるマイルス・デイビス率いるクインテットバンドだ」

 正志は律の手元にある黒本を開いて示す。『Four(フォー)』という楽曲だ。正志は示し終えるとステージ脇にあるコンポをいじる。

「一吹先生、少しの間だけ音を出さないでもらえるか? 律君に曲を聴かせたいんだ。お願いできるかね?」

 正志は一吹に頼む。

「ああ、いいですよ。他のメンバーが来るまで待機ですから」

 すでに音出しを終えてくつろいでいた一吹は正志の頼みに応じる。これに正志は「ありがとう」と礼を言った。

「じゃあ、今から流すぞ。楽譜を追いながら聞いてくれ」

 そう言って、正志はコンポをかけ始める。店内に音楽が流れる。キラキラしたイメージのある演奏で、メロディもおしゃれだ。そんなメロディを律は手元の楽譜で追う。やがて、演奏はトランペットのアドリブに入った。

 しばらくして律は気付く。

 トランペットの裏で鳴っている伴奏が、メロディの演奏の時と同じ和音で鳴っているのだ。その後サクソフォン、ピアノとアドリブが続くが、伴奏で使われる和音は変わらなかった。そして、トランペットとドラムの掛け合いがあり、再びメロディに戻って演奏は終了した。

「どうだ? いい曲だろう」

 正志に聞かれ、律はこくこくと頷く。

「あの、マスター。アドリブ中も和音、コードって変わらないんですか?」

 おずおずと律は聞く。

「おお! そこに気付くのはすごいな! 実、律君は将来有望だぞ」

 そう言って笑う正志に、実は「確かにそこに気付くのはすごいな」と同意する。

「律、楽譜の上にアルファベットが書いてあるだろ? これがコードを表している」

 実は律に説明する。確かに楽譜には「F△7」や「B♭7」などのアルファベットの混じった記号が書かれている。

「爺ちゃん、この『△』って何?」

 律は『F△7』の記号を指で示し、実に聞く。

「これは『Fメジャーセブン』という和音をさしている記号だ。まあ、詳しくはコード進行を学ぶときに知ればいいだろう」

 と、実は説明する。

「つまり、その曲のコード進行に合わせてアドリブをやるって事?」

 律の言葉に、実は「その通りだ」と頷く。

「正確にはそのコード進行に合わせて、それに合うスケールを用いたアドリブを行うんだ。なんとなく理解できたか?」

 実に言われ、律は「なんとなく」と曖昧に返す。

「まあ、まずは初心者用のコード進行の教本を買って、コード進行を勉強する所からだな。コード進行わかれば理屈もわかりやすくなる」

 正志のこの言葉に、実も「確かにそうだな」と肯定する。

「マスター、メンバー揃ったのでそろそろリハーサルしていいですか?」

 一吹が正志に聞く。どうやらホストバンドのメンバーが揃ったらしい。よく見ると店内のお客さんも少し増えており、博もいつの間にやら別の客の対応をしている。

「ああ、悪い悪い。やってくれ。済まない、こっちは少し音響をいじらないといけないから話はここで終わりにさせて貰うな。ジャムセッションまでまだあるが、ゆっくりしてくれ」

 そう言って、正志はその場から去ろうとする。

「あ、この本はどうすればいいですか?」

 正志を呼び止め、律は聞く。

「ああ、店を出るときに返してくれ。今日は黒本で楽譜を見ながら聞くといいよ」

 正志はそう言うと、コンプの隣に置かれているミキサーの元へ向かった。

「律、やってみたくなったか?」

 実は聞く。

「うーん、まだわからない」

 この律の返答に、実は「そりゃあ実感湧かないか」と笑い飛ばす。

「実際見てみないとわからないだろうなぁ。もう少ししたら一吹先生達のミニライブだから、それをみれば良いさ」

 そう実は言ってから手元にある水を飲んだ。

 やがて段々とココットの店内が混んできて、騒がしくなる。ある程度客が席に落ち着いたところで、ステージ上からピアノの音が聞こえ出す。

 そして、演奏が始まった。

 先程聞いた『Four』とは異なり、明るく軽快な感じの曲調だ。

 律は同じジャズなのに曲調が違う、と驚いていた。

 サクソフォン、ピアノ、ベースとアドリブが続き、その後ドラムとの掛け合いがあった。最後にメロディに戻り、曲は終わった。

「はい、皆さんこんにちは。先程演奏した曲はハロルド・アーレンの『It,s Only A Paper Moon(イッツ・オンリー・ア・ペーパー・ムーン)』でした。もう梅雨に入ったのかな? この時期は雨が降りやすいんですけど、今日は晴れましたね」

 と、一吹がMCを始める。

「さて、最近は五月下旬でも真夏のように暑い日が多いですよね。まあまだ夏と呼ぶには早い時期なんですが、こんな曲を選んでみました。では聞いてください。ジョージ・ガーシュインで『Summertime(サマータイム)』」

 一吹がそう言うと曲が始まる。

 律は慌てて手元の黒本で該当のページを探して開く。

 今度は暗く重い感じの曲だ。一言で「ジャズ」と言っても、様々な曲調があるんだと律は思った。そして前回と同じくサクソフォン、ピアノ、ベース、とアドリブを行い、最後にドラムとの掛け合いで演奏は進む。ジャムセッションの中ではこの進行がテンプレートらしい。

 その他二曲吹いて、一吹率いるホストメンバーのミニライブは終わった。

 初めての世界に律は放心していた。

 正直言って格好良かった。あのアドリブ演奏を、楽譜に書かれたコードを手がかりにその場で組み立ててるのも、律にとっては驚きだった。

「律、いよいよジャムセッションの時間だ。今日爺ちゃんはコール・ポーターの『I Love You(アイ・ラブ・ユー)』という曲だ。多分最初に呼ばれるから、黒本を開いておけ」

 と、実は言う。その手にはいつの間にやらトランペットがある。

 銀色に輝くトランペットを持つ実を見るのは初めてだった。律は祖父が趣味でトランペットを練習している事は知っていたが、実際に演奏を見るのは初めてだ。

「それではジャムセッションを始めましょう」

 と、ステージで一吹が仕切り出し、何人かの名前を呼ぶ。

 その中に実の名前があった。

 呼ばれた何人かと共に、実はトランペットを持ってステージへ向かった。ステージに立つと実は軽く挨拶して一緒にセッションするメンバーへ軽く指示をする。それを受け取ったメンバーは頷き、まずはピアノから演奏が始まる。

 やがて、曲が始まった。

 甘ったるくも、どこか憂いのある感じの曲だ。それを実は優しく奏でる。アドリブでは、さらに感情を込めて音を紡ぐ。その姿に律は釘付けだった。いつもと違う祖父の姿に驚いていたし、憧れも感じていた。素直に素敵だなと思っていた。

 そして、先程律が学んだテンプレート通りに演奏は進み。再びメロディへ。

 やはり、いい曲だ。律はそう思った。

 甘くも大人な苦みのある曲調は、聞いていて落ち着くし、優しい気分になれる。今日聞いてきた中で一番好きな曲だ。

 柔らかなムードの中、演奏が終わった。

 店内の客は拍手で演奏を称える。律も真似して、実に拍手を送った。

「どうだ、爺ちゃん格好良かっただろう」

 律のいる席へ戻ってきた実はこう問いかける。律はこくこく頷いて応じる。

「そうかそうか、良かった」

 そう言って実は笑う。

 この後もジャムセッションは続いた。

 実もこの後何度かセッションを行ったが、律としてはやはり『I Love you』が一番気に入っていた。

 やがてジャムセッションが終わり、律は実に連れられ、ココットを後にした。

「どうだった? 律。ジャムセッションやってみたくなったか?」

 家までの道中、実が尋ねる。

「うーん、格好いいし、やってみたいとは思う。でも、やっぱり難しそう」

 本音を語る律に、実は「大丈夫だ」と励ます。

「最初は誰でも不安だが、そのうちできるようになる。爺ちゃんは定年で仕事を辞めて毎日暇してるから毎週でもうちに来ればいい。うちには防音室があるから楽器を吹いても近所迷惑にならないし、爺ちゃんがジャムセッションのことを教えてやる」

 これに律は「大丈夫かな? じゃあ、やってみたい」と自身の意思を示す。実は「そうか、嬉しいぞ」と喜ぶ。

「じゃあ来週までに爺ちゃんがコード進行の入門書と黒本を用意してやろう。こちらからも話しておくが、律の方からも母さんに今日のことを話しておいてくれ」

 実の話に、律は「わかった」と返事をする。

 こうして実の家についた律は母親の美琴に用事が終わったことを伝え、迎えに来るのを待った。 そして、家のインターホンが鳴り、美琴がやってきた。

「お父さん、律のことありがとね」

 美琴は実に礼を言う。

「いやいや、こちらこそ。じゃあ律、お母さんによろしくな」

 そう言って実は律を送り出す。

 律は実に別れの挨拶をしてから、美琴の車に乗り込み実の家を後にした。

「律、今日どうだった?」

 出発して早々、美琴が尋ねる。

「うん、良かった。今日爺ちゃんとココットっていう店に行って、ジャズのジャムセッションを見学してきた」

 律は今日の出来事を美琴に話す。同時に自身がジャムセッションに興味があること、実がジャムセッションを教えてくれると言っていたことも一緒に話す。

「そうだったの。いいんじゃない? 楽器も続けられるし、やってみたいならチャレンジするのもアリだと思うわよ」

 そう述べる美琴に、律は「そっか」と返す。

 美琴の感想はまだ続く。

「楽曲集と一緒に教本来るんでしょ。まずは教本をよく読んで勉強しないとね。良かったじゃない。やりたいことができて」

 これに対して律は「まだやってないけどね」と言いつつも、少しだけ晴れた表情をしていた。

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