ジャズと青春のココット

甘水 甘

第1話

「先生。僕、部活やめることにしました」

 月連つきづれ中学校ちゅうがっこう、放課後の職員室。

 相川あいかわりつは、クラス担任の有岡ありおか吉隆よしたかに報告した。

「そっか、悩んでいたもんな。よく決断したよ」

 吉隆は律に言葉をかける。

 それに律は俯いたまま「はい」と細い声で返事をする。

「まあ、いろいろ思うこともあるだろう。報告、ありがとな。お疲れ様、頑張ったな。今日は帰ってゆっくりしろ」

 と、吉隆は律に笑いかける。

「ありがとうございます。そうします」

 律はこう言ってから吉隆のいるデスクを去る。

 そして「失礼しました」と挨拶してから職員室を出た。

 職員室を出ると、律は一旦教室に戻って自身の席にあったカバンを背負い、そのまま帰るために下駄箱のある入口へ向かう。靴を履いたら駐輪場へ行き、そこにある自身の自転車の鍵を解いてそれにまたがると、家に帰るためにペダルを漕ぎ出した。

 その間、律はずっと考えていた。

 本当に部活をやめて良かったのだろうか?

 律は月連町立月連中学校の一年生で、つい最近の四月に入学したばかりだ。

 部活は自身が希望していた吹奏楽部に入部。担当楽器はテナーサクソフォンだ。

 最初はやる気に満ちあふれていた。

 しかし、段々と部活が苦しくなってきたのだ。

 理由は二つ。一つは単純に演奏技術的についていけなかった。吹奏楽の譜面は内容がとても細かく、楽器初心者の律には楽譜通りに吹くことが難しい。そのため苦手意識を持っていた。

 もう一つは、部活の空気感だ。

 部活の空気が良い意味でも悪い意味でも真剣なのだ。

 顧問の教師であるさかき高行たかゆきは悪い人ではないのだが、少々部活に対する熱量が度を超しているところがあり、それに他の部員が感化されているような状態だった。

 律はそんな部活の空気が嫌だった。

 高行の指導が絶対なところや、理由抜きでひたすら練習させられるところなど、とにかく部活に対してどんなことでも真剣な風潮が苦手だった。

 そして今日、ついに耐えきれずやめてしまった。

 まだまだ日が明るく照らす中、律は自転車を漕いで家に向かう。

 いつもより早い時間の帰宅。律の虚しさを、日光がただ残酷に照らしていた。

 自転車を漕ぎながら思う。

 もっと、サックスを吹きたかった。

 律は部活に対して辛さを感じていたが、楽器を吹くのは好きだった。テナーサックスの渋く色気のある音色がたまらなく好きだ。

 でも、これで二度と吹けなくなるのだろうか?

 そう思うと悲しかった。

 しかし、もう吹奏楽をする気は起きなかった。市民の吹奏楽団とか手はあるだろうとも思ったけど、乗り気がしない。

 ぐるぐると考えてる内に、律は家に着いた。

「ただいま」

 玄関で靴を脱いであがり、リビングにいた母の相川あいかわ美琴みことに声をかける。

「お帰りなさい。早かったわね、どうしたの?」

 美琴は聞く。

「部活、やめてきた」

 律は端的に美琴へ伝える。美琴は「そう」と返す。

「部活のこと、ずっと悩んでいたものね。お疲れ様、よく頑張ったわ」

 この言葉に、律は「ありがとう」と返す。

「爺ちゃん、悲しむかな?」

 不安げに律は聞く。

 そう、自身が希望していたこともあるが、律が吹奏楽部に入部したのは母方の祖父、林田はやしだみのるの影響もある。彼は音楽が好きで自身もトランペットを嗜んでいる。そのため孫が楽器を始めたと喜んでいたのだ。

「さあ? 電話で聞いてみる?」

 美琴の提案に、律は「うん」と頷く。

「爺ちゃんにごめんって伝えて欲しい」

 律からの頼みに、美琴は「わかった」と返して電話をかけ始めてみる。

「もしもし、お父さん? 美琴だけど。今日ね、律が部活をやめてきたの。お父さんには言ってなかったけど、前々から部活が辛かったみたい。お父さん、律が楽器始めたって大喜びしてたでしょう? だから申し訳なく思ってるみたいで、ごめんって伝えて欲しいって言ってるの。 え? 別に良いけど」

 ここで美琴は会話をやめ、受話器を律に渡そうとする。

「律、お爺ちゃんが伝えたいことがあるって。出てあげて」

 美琴に言われ、律は受話器を受け取り恐る恐る耳に当てる。

「律、母さんから聞いたぞ。部活をやめたことについて気に病んでいるようだな」

 受話器から実の声がする。

「そんなに落ち込まなくていい。部活、辛かったんだろう? 辛い中楽器をやっても楽器が嫌になるだけだ。むしろ今日までよく頑張った」

 実の励ましに律は「うん、ありがとう」と返しつつも、心の中で申し訳なさを募らせていた。

 話はまだ続く。

「ところで、吹奏楽を続ける気は無いのか? 確か折尾市に地域の吹奏楽団があったような気がするんだが。そこに所属して吹奏楽を続けることはできるだろう?」

「いや、もう吹奏楽はしたくない」

 律の返事に、実は「そうか、わかった」と言ってさらに話を展開する。

「律、来週の日曜日は空いているか?」

 これに対し、律は戸惑いつつも答える。

「いや? 特に予定はないけど」

「よし。それなら連れて行きたいところがある。母さんには俺から伝えておくから、爺ちゃんの家に来い。今まで部活を頑張ったご褒美に良いものを見せてやろう。それじゃあ、母さんに代わってくれ」

 強引に予定を取り付けてきた実に従い、律は美琴に受話器を返す。

受け取った美琴は実とある程度やりとりをしてから、電話を切った。

「爺ちゃん、どこへ連れて行く気なのかな」

 律の純粋な疑問に、美琴は「さあ?」と返す。

「でも悪いことにはならないと思う。お爺ちゃん、律に甘いしね。気楽に行けば良いと思う。お爺ちゃんの家まではお母さんが送ってあげるわね」

 美琴は言う。

 律はまだモヤモヤとしていたが、とりあえず「うん」と頷くことにした。


 そして日曜日。美琴の送迎のもと、律は実の家にやってきた。

 実の家は律が暮らす月連つきづれちょうの隣にある折尾おれおにある。折尾市の中心街は割と栄えているが、そこから一歩外れてしまえば閑静な住宅街が広がっている。実の家はそんな住宅街の中にある。

「律! 待っていたぞ! いやぁ今日は来てくれてありがとなぁ」

 玄関のインターフォンを鳴らすと実がやってきて、律を笑顔で出迎えてくれた。実はもうすぐ七十歳で頭髪は完全に白くなっているが、まだまだ元気で活力がある。

「父さん。律は一旦預けちゃって良いのよね?」

 美琴が実に尋ねる。

「ああ、構わない。律に是非見て貰いたいものがあるからな。終わったら連絡するから、俺に任せればいいよ」

 実の返答に美琴は「わかった」と頷く。

「律のこと頼んだわよ。じゃあ律、お母さんは行くけど大丈夫?」

「うん、大丈夫」

「了解。じゃあ、またね」

 そんなやりとりの後、美琴は去って行った。

「まあ、立ち話しても仕方ないだろう。そろそろ中に入ろうか」

 と、実に促されて律は「うん」と返し、家の中に入った。

 お邪魔します。と言って玄関で靴を脱ぎ上がると、律は迷わずリビングへ向かう。律の家と実の家はさほど離れておらず割と訪れる機会も多いため、家の中で迷うことはない。律の中ではまず実の家に上がったらまずリビングへ行き、祖母の仏壇に線香を上げるのがルーティンになっている。

「律、こっちにおいで」

 仏壇に線香を上げて拝み終えたタイミングで、実は自身がくつろいでいるちゃぶ台に律を呼ぶ。

 これに応じて律が実の向かいにある座布団に座ると、実は話を切り出す。

「律、今日は来てくれてありがとな。とりあえず、二つ聞きたいことがある。まず一つ目、お前は楽譜を読むことはできるか?」

 これに疑問を持ちつつも、律は質問に答える。

「できるよ。細かい譜面は読むの苦手だけど、理屈はわかってる」

「十分だ。じゃあ二つ目。コード進行とスケールはわかるか?」

「スケールはわかるけど、コードって和音のことだよね?」

「そうだ」

「うーん、多分コード進行はわからない」

「わかった。じゃあ、出かける準備をするからちょっと待ってくれ」

 そう言って実はリビングを出て行き、しばらくしてハードケースを一つ持って帰ってきた。独特な形をしたハードケース。青色でプラスチック独特の光沢があり、リュックのように背負うためのンドが付いている。

 律にはあの中身がわかる。

 中身はトランペットだ。

「じゃあ、行こうか」

 そう言って実はケースを背負い、近くにあったカバンを持って立ち上がる。

「待って。爺ちゃん、どこへ行くの?」

 律は実に尋ねる。

 実は「ああ、言ってなかったか」と呟いてから、律に行き先を告げる。

「ここから歩いて数分の所にある『ココット』という喫茶店に行く。今日はジャムセッションができる日なんだ。その様子を律に見せたくてな」

「ジャムセッション?」

 聞いたことのない単語に首を傾げる律。

その様子を見て実は軽く笑う。

「まあ、詳しい事はココットで話そうか。じゃあ、そろそろ行こう」

 そう言われ、律は一抹の不安を抱えつつ立ち上がり、実と共に玄関へ向かった。


 実の家から歩いて数分。

 折尾市の中心街、折尾おれおえきから割と近い位置にその店はあった。

 看板には『ジャズカフェ&バー ココット』と書いてある。実は『ココット』と呼んでいたが、これが正式名称らしい。

 実が店のドアを開ける。

 カランコロンとドア上部に取り付けてあるベルが鳴った。

「おお、実か。良く来たな。あれ? 一緒に居るのは律君かい?」

 店内に入ると、カウンターで作業していた男性が実に話しかけてくる。歳は実ぐらいで気さくな感じの男性だ。

「ああ、そうだよ。律、この人はココットのマスター、吉岡よしおか正志まさしさんだ」

 実は律に男性、吉岡正志の事を紹介する。これに律は「よろしくお願いします」と頭を下げる。

「おお律君! 大きくなったなぁ。確か三歳か四歳の時に数回ぐらい来たよな」

 正志が話を展開すると、実は「そうだっけ?」ときょとんとした顔をする。

「俺は全然覚えていないんだが」

 実のこの言葉に、正志は「そんな訳無いだろうが」と呆れる。

「初孫だって自慢してたじゃないか。一緒にジャズをやるのが夢だって言ってたぞ」

「そうなんですか?」

 律は思わず口を挟む。

 これに正志はニヤリと笑い「そうだよ」と返す。

「もうあの時はデレデレだったんだから。なあ、雪子ゆきこ。覚えているだろう?」

 正志が店の奥の扉に話しかけると、そこから女性が出てきた。実や正志と同世代ぐらいの、これまた快活そうな女性だ。

「はい? ごめん料理の仕込みをしてて聞いてなかったよ。あら、実さん来てたのね。で、隣の男の子はどちら様?」

 女性は律の存在に首を傾げている。これに正志が答える。

「ほら、十年ぐらい前に来た実の孫の律君だよ」

「あぁ! はいはい思い出した! 随分大きくなったねぇ。ワタシの事憶えてる?」

 女性の問いかけに、律は「ごめんなさい、憶えてない」と返すと、彼女は特に落ち込む様子もなく「そりゃそうよねぇ」と笑い飛ばす。

「もう大分経つし、まだ幼かったしね。憶えていなくても仕方ない。ワタシは雪子。マスターとは夫婦だよ。みんなからは『雪子ママ』って呼ばれているね。よろしく」

 そう言って笑う女性、吉岡よしおか雪子ゆきこに、律は「よろしくお願いします」と頭を下げる。

「丁度良かったよ、ママ。注文頼みたいんだけど、いいかな?」

 実から声をかけられ、雪子は「はいはい、何を頼む?」とメモを取り出し注文を聞こうと実に耳を傾ける。

「えっと、アイスカフェオレとチーズカレードックをお願いして良いかな」

 実が注文すると、雪子はそれをメモし「了解」と返す。

「律、お前は何食べるか決まってるか?」

 と、実に言われ、律は慌てて近くにあるメニュー表を手に取り開く。この様子を見て雪子は「アハハ」と笑う。

「そんなに急がなくていいよ。ゆっくり決めな」

 雪子に言われ、律は恥ずかしいのか「はい」と弱々しく返事をする。

 しばらくメニュー表とにらめっこして、律は顔をあげ「あの」と雪子に質問する。

「ここのオススメのメニューって何ですか? 少し迷っちゃって」

 これに雪子は「そうだねぇ」と軽く思案し話す。

「人気なのはチーズトーストかね? サンドイッチセットやカレーライスもオススメだね。実さんはチーズカレードックが好きみたいだね」

「はい。じゃあ、チーズトーストとウーロン茶をお願いします」

 律の注文をメモして、雪子は「わかったよ、じゃあ準備するね」と言い、再び店奥の扉の中へ戻ってしまった。どうやら扉の奥はキッチンになっているらしい。

 ふと、律は店内を見渡してみる。律と実は、店内入って左側にあるカウンター席に座っており、その他にテーブル席がいくつかある。そして店内の一番奥にピアノやドラムセットなどがごちゃごちゃと乗ったステージがある。

「ところで、博君はまだ来てないの?」

 実は正志に聞く。

「博君なら雪子に頼まれてお使いに行ってるよ。そもそも、まだ十一時前だから比較的空いているんだ。それより、こんなに早く来て一体どうしたんだ? いつもなら十二時ぐらいに来るじゃないか。律君も連れてるし、何かあるのか?」

 今度は正志の方が聞く。

 これに実は答える。

「ああ、じつは律にジャムセッションを教えようと思っているんだ。近いうちにジャムセッションデビューさせたくてな」

「え?」

 実の話にきょとんとする律。

「おいおい実、律君に話してなかったな? ぽかんとしてるじゃないか」

 ケタケタ笑う正志。これに実は「少し驚かせたかったんだよ」と笑って応じる。

「律は昨日吹奏楽部をやめてしまって落ち込んでてな。楽器ができる場所としてどうかと提案しに来たんだ」

「そうかそうか、楽器は何をやっているんだ?」

「テナーサックスだ」

「おお! いいじゃないか」

 実と正志で勝手に話が展開され、困惑する律。たまらず口を挟む。

「待って爺ちゃん。『ジャムセッション』って何なの?」

 この律からの質問に、正志の方から話を切り出す。

「律君は、ジャズって知ってるかい?」

「いや、あまり知らないです」

 律がそう答えると、正志が説明を始める。

「ジャズにはビックバンドっていう吹奏楽に似た形態もあるが、花形と言えばジャムセッション形式の演奏だろうな。ジャムセッションはブルースやジャズに取り入れられている演奏形態で、その場で集まった演奏者達が与えられたテーマを元にして即興でセッションをする演奏法法だ。うちの店では毎週金曜の夜と日曜の昼、そして第二土曜の昼にジャズ・ジャムセッションをやっているよ」

「へぇ、なんか難しそう」

 考え込む律。これに実は「そんなに難しく考えなくていい」と声をかける。

「ジャムセッションは何もないところから即興で演奏する訳ではない。きちんとテーマに沿ってある程度のルールの中でセッションしているんだ。俺も正志も大学のジャズ研究会で初めて楽器に触れたが、そんな俺等でもできたんだから大丈夫」

 実がここまで話したところで、雪子が注文した料理と飲み物を持って戻ってきた。

「はい、お待たせ。実さんがアイスカフェオレとチーズカレードック。律君がウーロン茶とチーズトーストね」

 そう言って雪子は律と実、それぞれの前に料理と飲み物を置くと「じゃあ、ごゆっくり」とまた扉の奥に引っ込んだ。

「とりあえず、腹ごしらえしようか。ママの料理は絶品だぞ?」

 実が言う。

 確かに律の目の前に置かれているチーズトーストはおいしそうだ。少し大き目のサイズで厚めにカットされた食パンを四等分したものに、チーズがとろりと乗っかっている。律は一口食べてみる。

「おいしい」

 思わず声が漏れる。どうやら複数のチーズを使っているようで、とろりと濃厚でありながら複雑な味がする。それがサクサクのトーストとマッチしていた。

「お? おいしいか? それなら良かった」

 そう言って正志は満足そうな顔をする。どうやら律の呟きは聞かれていたらしい。律は照れを隠すためにガツガツとチーズトーストに頬張る。

 チラリと横目で実を見る。

 良く焼かれた太めのソーセージをパンで挟み、それにキーマカレーと焼いたチーズを乗せたホットドック。それを実は黙々と頬張っている。ボリュームがありおいしそうだ。今後この店でお世話になるかわからないけど、次はチーズカレードックも食べてみたいな、と律は思った。

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