第2話 セラの思い出



 セラは昔から一人遊びの子だった。

 ピアノの音が好きだった。ピアニストの母が弾く、静かでどこか遠くへ連れていってくれるような旋律を背に、いつも画用紙に向かっていた。クレヨンや色鉛筆を散らかしながら、空想の生き物や知らない街を描いていた。


 その空想の世界に、現れたのが桂ちゃんだった。近所に引っ越してきたばかりの男の子で、まるで風のように明るく、ぐいぐいとセラの世界に入り込んできた。


「外で遊ぼ!」


 そう言って手を引かれた日から、セラの世界は少しずつ広がっていった。桂ちゃんは誰とでも仲良くなれる。笑うと白い歯が覗いて、目尻に少し皺が寄る。大きな声で笑い、喧嘩もして、でもすぐ仲直りして、そうやっていつの間にか輪の中心にいるような男の子だった。


 小学校では、セラ、桂一郎、紫乃の三人で登校していた。桂ちゃんはリーダー気質で、紫乃は姉御肌。前を歩く二人の背中を、セラは少し離れてぽてぽてと追いかける。小さな手に水筒をぶら下げながら、少しうつむきがちに。


 高学年になると、自然とグループ分けが進んだ。紫乃は女子グループの中心に。セラと桂ちゃんは男子グループにいた。けれど、どれだけクラスが離れても、桂ちゃんだけはずっと隣にいた。お昼を一緒に食べたり、放課後に寄り道したり、変わらない日々が続いていた。


 紫乃は、桂ちゃんのことが好きだった。分かりやすかった。バレンタインの日、セラに渡す手作りのクッキーはアルミホイルに包んだだけ。でも桂ちゃんには、きれいなラッピングと手書きのメッセージ付きだった。


 ただそれも、セラにとっては微笑ましいことだった。いつもケンカばかりなのに、ふたりの距離が時折ぐっと縮まる。そのたびにセラは少しだけ取り残された気分になって、それでもまたいつも通りに戻る三人の空気が心地よくて、それが──セラにとって一番の思い出だった。


 そんな中でも記憶に残っているのがあの日。セラが風邪をひいて学校を休んだ日のこと。


「セラ、熱引いたか……?」


 放課後の光が、白いレースのカーテン越しに柔らかく差し込む部屋。少し汗ばんだ額に前髪が張りついて、セラは布団の上から身を起こした。


「うん……朝より、だいぶ良くなったよ」


 部屋に入ってきた桂ちゃんは、制服のネクタイを少し緩めていた。肩にかけたスクールバッグを床に下ろしながら、ふとセラの本棚を見回した。


「いっぱい本あるな。全部読んでんの?」


 驚くほど素直な声だった。セラは枕元のコップを握りしめながら答える。


「お母さんがくれたのも多いから、全部じゃないけど……漫画とか絵本とか、好きなのはたくさんあるよ」


「へぇ、セラは本読むの好きだよなあ」


 ふと、桂ちゃんの指がある一冊の背表紙に触れたとき、セラの心臓がどきんと跳ねた。


「この漫画……」


 桂ちゃんの手にあるのは、あの本だった。


「そ、それは……」


 ページを開かれる前に止めたかったけれど、声は上ずって情けなくなる。


 そこに描かれているのは、美少年のセラというキャラクターだった。女の子のように可愛くて、男の子からも女の子からも好かれる。──そして、セラは男の子を好きになる……


 幼い頃、それを読んだセラは、自分もそうありたいと、無意識に重ねていた。だからこそ、桂ちゃんや紫乃にも「セラって呼んで」と頼んだ。でも、それを──知られるのは、すごく、恥ずかしかった。


「ち、小さい頃ね、セラってキャラが好きで……べ、別にそんな深い意味とかじゃ──」


 セラが言い訳を並べかけたとき、桂ちゃんが急に笑い出した。


「はははっ、セラにそっくりや」


「……え?」


「いやほんと、セラにそっくり。あっ、これ貸してよ。明日には返すからさ」


 セラの顔が一気に熱くなった。熱のせいじゃない。胸がきゅーっと締めつけられる。うまく呼吸ができないくらい、くすぐったくて、苦しくて、でもどこか嬉しかった。


「また熱出てきてる。ごめん、うるさくしすぎたな」


 桂ちゃんはセラの額に手を当て、少しだけ眉を寄せて笑った。その手のひらの温度は、セラの中でずっと消えなかった。


「お大事に。ちゃんと寝るんだよ」


 そう言って、桂ちゃんは部屋を出て行った。





 窓の外から遠くで犬の鳴き声が聞こえる。夕暮れの空は少し曇っていて、でもあの日と同じ匂いがした。


「ふふ……」


 あの漫画は、結局返ってこなかった。読んだのか、読んでないのか。今も分からないまま。


 でも、あの時の桂ちゃんの笑顔だけは、はっきり覚えてる。セラにとって、今でも一番──心が温かくなる、思い出。

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