EP56 最後の賭け

 メリケンパークを後にして、中華街へ向かう道すがら、海風に混じって甘い八角の香りが流れ込んでくる。

 

 屋台の蒸籠からは白い湯気が息をするように上がり、鉄板の上では油が小気味よく弾ける音。売り子の威勢のいい声と、観光客の笑い声が波のように往復していた。


「揚げチーズか。なんか流行ってるみたいだな」


 佐山くんが足を止め、屋台の小さな黒板を指さす。『揚げチーズ』とチョークで書かれ、写真にはこんがりと狐色の衣からチーズが糸を引いていた。

 

 ふたりで一舟を買うと、紙トレイの底に油が薄く透けて、手のひらがじんわり温かい。


 ひと口——衣はサク、と軽い音を立てて崩れ、中から熱の塊みたいなチーズがとろりと溶けだした。

 

 塩の加減は控えめで、粉砂糖がほんのり甘さの輪郭を足す。口の中で甘・塩・脂が短い三重奏を鳴らし、最後に胡椒がぴりっと締める。


 美味しさから思わず目を細める私に、彼が満足げに頷く。テッシュを持参して、差し出してくれるところも自然で、胸の中の今日の好感度のメモに、またひとつ丸が増えた。


 角を曲がったところで、強面の男たちと目が合った。目つきは鋭く、声もでかい。ひとりがこちらに歩み寄り、半歩、進路を塞ぐように立つ。身体の奥で警戒心がぴくりと跳ね、私は無意識に佐山くんの袖をつまんだ。


「なんや、兄ちゃんら楽しそうやな」


 挑むでもなく、絡むでもなく、境目の曖昧な響き。私は言葉が出ず、視線を落とす。すると佐山くんが、ごく自然な調子で笑った。


「兄さんたち、ほんまに勘弁してください――この子は俺が先に声かけて、オッケーもろたんですよ?」


 軽い関西訛り——。男たちが一瞬目を丸くし、次の瞬間、肩の力がゆるむのが見て取れた。


「なんや、お前も修学旅行生狙いやったんかいな! そういうことははよ言わな」


「ほな、にいちゃんも頑張りや――」


 会釈ひとつで空気をやんわり流し替え、そのまま私の背に手を添えて動線を作る。私は何も言えず、ただ足並みを合わせた。背中にあてられた掌は軽く、でも確かで、その安心だけで胸の奥がふっと温かくなる。


 ……本当に、今日一日で彼の株は上がりっぱなしだ。まっすぐで、優しくて、起点が利いて。時に真っすぐすぎるところが玉に瑕かもしれないけれど、その裏には魅力がべったり張り付いて、むしろこぼれ落ちそうなくらいだ。



     * * *



 夕方色がじわじわ街に差してきた頃、今日の締めに彼おすすめのカフェへ。ドアを押せば、バターとバニラの香りが胸いっぱいに広がる。

 

 テーブルにはガラスの小瓶に生花、窓辺には真鍮のスタンドライト、壁には神戸港の古い写真が額装されていた。スピーカーからは柔らかいピアノのスタンダード。時間が少し、角を丸くして流れている。


 目玉だというフレンチトーストを注文すると、厚切りのパンが金色の縁をまとって現れた。ナイフを入れると、中心からカスタードが緩やかに、じわりと染み出す。表面はキャラメリゼされてパリ、と音を立て、粉糖が雪のように散る。


「これは……すごく美味しいです」


 頬に熱が集まるのが自分でわかるくらい感嘆して、思わず彼を見た。彼は子どもみたいに「だよな!」と笑って、少し前のめりになった。ああ、今日は何度この表情を私に見せてくれただろう――そう考えると、胸の奥がじんわりと甘くなる。


 けれど、その甘さの端に、冷たい棘が刺さったままだった。


 真夏の顔。彼の矢印が私に向いていない可能性。

 

 考えるだけで胸が軋む。逃げ続ければ、いつかこの気持ちは風化するのだろう。けど、そのにすがるのは、私の悪い癖だ。


 テーブルの下で、自分の手をぎゅっと握った。掌の汗が冷たい。切り出すなら今だ。


「今日は、ありがとうございました」


 声のトーンが、ひとつ落ちてしまったのがわかる。彼が眉をひそめる。


「……なんだよ急に改まって、どうしたんだ?」


「いえ、なんとなく言っておきたくなっただけです。今日に限らず、この修学旅行全体を……佐山くんのおかげで楽しく過ごすことができましたので」


「べ、別に俺は何もしてないぞ? むしろ馬鹿やってるだけで――」


「そんなことありません」


 遮って、ゆっくり首を横に振る。目を合わせると、彼の黒目が少し揺れた。


「佐山くんには……感謝してもしきれないくらいです」


 前置きはここまで。心臓が早鐘を打ち、喉がきゅっと細くなる。私は、もう一段階、手に力を込めた。


「ですので……お礼をできればと思っています」


「お、お礼? そんなの別に求めて――」


「いいんです、これは……私が勝手にやるだけですので」


 自己満足。エゴ。けれど、そうでもしないと、私の足は前に出ない。


「確認ですが――佐山くんは、この修学旅行で……小鳥遊さんのお風呂を覗くことを目標にしていましたよね?」


 箸先のように細く尖った沈黙がテーブルの上に落ちる。彼は逡巡のあと、うなずく。


「あ、ああ……まぁ、元々は……そうだな」


 否定の言葉を、どこかで待っていたのかもしれない。期待して、裏切られて、自分で自分を痛めつける滑稽さに、胸の内側が焼けるように痛む。それでも、最後まで。


「それで、お礼というのはですね――本日の夜、小鳥遊さんのお風呂が覗ける場所まで、案内させていただきます」


「え……?」


 決意が揺らがないように、言葉を連ねる速度を少し上げた。


「……もし、その気があるのでしたら――本日二十時に共同キッチンに来てください。案内しますので」


 紙ナプキンを指で折る音がやけに大きい。彼の喉仏が上下し、息が詰まる音がした。


「鷹宮……あのさ――」


 何かを言おうとする。そのを聞く勇気が、まだ私の中に育っていない。

 

 うまくいくかもしれない言葉も、壊れてしまうかもしれない言葉も、どちらも怖い。


 私は椅子を引いた。


「……そろそろ集合時間なので、新神戸駅へ向かいましょうか」


 彼の返事を待たず、伝票をつかんでレジへ向かう。背後で椅子が鳴る音。歩き出してから、互いの影がガラス窓に並んで揺れるのが見えた。さっきまで何度も絡めていた手は、今はそれぞれのポケットの中にある。



     * * *



 カフェを出て、新神戸駅へ向かうバスへと乗り込む。隣の彼は一歩ぶん距離を保ち、靴音だけが一定に並んだ。


 頭の中では、何度も同じ自問自答がループする。

 

 ――今、聞けばよかったんじゃないか。否定してくれたかもしれないのに。

 いや、肯定されたらどうするつもりだったの。どちらにしても怖いなら、なぜ口を開いた。二十時まで逃げただけじゃないか。

 

 勇気なんて言葉に、私は釣り合っているのか。


「……それでは、改めて今日はありがとうございました」


 集合場所の少し手前、人の波が合流する前に、私は立ち止まって言った。素っ気なく、慎重に選んだ言い回し。自分の弱さを隠す形だけの鎧。


 彼は一瞬だけ目を丸くし、そして静かにうなずいた。何か言いかけて、飲み込んだのが、唇の動きでわかった。


 私は深呼吸をひとつして、女子の集団の方へ歩き出す。視界の端で、彼が反対側へ向かうのが見えた。喉の奥で波のようなものが持ち上がる。

 

 泣くわけにはいかない。こんなところで。

 

 私は唇を噛み、上を向く。見上げた天井のパネルライトが少し滲んで、星みたいに増えた。


 二十時。タイムリミット。

 

 そこまでに、せめて、まっすぐ立てる自分でいよう。そう言い聞かせながら、足を前へ押し出した。

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