EP24 降伏宣言

 私は月明かりの下で、ひとつずつ指を折って答え合わせを進める。

 

 覗きのターゲットが真夏であること。

 2階のテラスを経由した侵入経路を企てていたこと。

 そして、美島さんや二見くんという協力者がいるということ。

 

 私が説明を区切るたびに、彼の喉仏が小さく跳ねる。

 最初こそ肩を張り、反論を述べていた彼も、やがて言葉の勢いを失い、最後には肩の力が抜けて、大きく息を吐いた。視線が床板の木目へ落ちていく。

 

「……参った。完全に参ったよ」


 降伏宣言。

 舌の奥で、わずかな甘い味がした。

 勝利の前菜。そして、このあとに待つデザートのことを思うと、無意識に舌先が唇の内側をなぞりたがる。

 私はそれを抑えて、もう一歩、距離を詰めた。彼の体温が、夜気の薄皮をすり抜けて届く。

 

「――今回の勝負の結果ですが」


「……俺の、負けか」


「はい。佐山くんの2です」

 

 ただの敗北ではなく、連敗。その言い回しが、彼の眉根に浅い皺を刻む。ほんの一瞬、悔しさが顔をかすめ、すぐに何かに気づいたように表情が変わった。

 

「あ、あのぉ……今回も……見逃してもらいたいなぁ……なんて」


「もちろん。勝負はあと2日続きますから、見逃してあげます」


 こんな面白い状況を、わざわざ自分から手放すはずがない。

 ほっと安堵の息が彼の胸から漏れる。

 

 ――ふふ。ここからがメインだというのに、緩めていい場面じゃありませんよ。

 

 私は欄干に片手を置き、彼の正面に立ち止まった。月光が背中側から差し、私の影が彼の胸のあたりに落ちる。影の輪郭が彼の鼓動に合わせて、ごくわずかに揺れた。

 

「今回、私が勝利したは――いただいておこうかなと思います」


「ご褒美って……一体なんだよ」


 何かを察したのか、あるいは昨夜の熱を思い出したのか。目尻がかすかに揺れて、喉が鳴る。月明かりが彼の唇の縁を薄く照らす。

 

 そんな彼の表情を見ると、自然と溢れでる笑みを隠すことなどできなかった。



     * * *

 

 

 ご褒美はいくつか考えていた。

 彼の理性は程よく溶かし、本能の薄皮を一枚ずつ剥いでいけるようなものを。

 指先で一つずつ転がして、最も彼を絡め取れそうなものを選び取る。

 

「お風呂上がりなので、日課にしているストレッチを手伝ってもらいましょうかね」


「ストレッチって……」


 思ったより普通――そう考えているのが手に取るようにわかる。

 

 それでいいんですよ。こちらで、きちんと期待を裏切ってみせますから。

 

「それじゃあ、中に入りましょう」


「な、中!? そんなことしたらバレちま――」


「大丈夫です。他の皆さんは1階で……恋バナに夢中ですから」

 

 事情をわかっている約1名ひよりは、恋バナには混ざらず、隅っこで聖典を読んでいるでしょうけれど――それも栓なきこと。

 私はくるりと踵を返し、テラスと寝室を仕切る戸へと向かう。

 

  ……彼の気配がついてこない。

 

 横目で振り返ると、廊下の明かりに切り抜かれた私の腰――モコモコのショートパンツの裾、その下に収まる丸みへ、彼の視線が吸い寄せられたまま動かない。

 

 生地が歩幅に合わせてわずかに揺れ、縫い目の線が月明かりで細く際立つたび、喉仏が小さく上下している。

 

 男の人って、不思議ですね。たかがお尻に、そんな真剣な目を向けられるなんて。

 

 ……でも、その真剣さは嫌いじゃない。

 

 私は何も気づいていないフリをしながら、声を少しだけ落として振り向く。


「――あの、佐山くん? 早く来てください」


 その声に、彼がはっと目を上げる。

 

「あ、ああ!」


 慌てて踏み出した足音が近づいてくる。空気がわずかに乱れて、背中に彼の呼吸の温度がかかる。

 そのせいで、見られていただけの、触れていないはずの場所まで意識が走った。

 

 私は何事もなかった顔で前を向き直り、心の内側にだけ、彼の視線の熱の余韻をしまい込んだ。



     * * *



 ベッドの端に膝をつき、そのままゆっくりとマットに乗る。スプリングが静かに沈み、パジャマの毛足が肌に吸い付いた。

 

 彼が、躊躇いながらもベッドへ登り、隣へ腰掛けたのを合図に口を開く。

 

「それじゃあ、まずは軽いストレッチから。背中を押してもらえますか?」


「せ、背中!?」


「私が前屈しますので、背中を押してください」

 

 長座で脚をそろえ、つま先を遠くへ伸ばす。ゆっくりと上体を折りたたむと、腰のあたりで布がきゅっと張り、パーカーの裾がふわりと前に落ちた。マットが微かに鳴る。

 

 ほどなくして、ためらいがちな気配が背後に近づき――そっと、彼の手が置かれた。

 

 昼間つないだ大きな手。パジャマ越しでも輪郭がはっきりわかる、温かい掌。

 肩甲骨の内側に、指の節が迷いながら並ぶ。軽い。優しすぎる。

 

 ……これでは絡め取るにはまだ足りない。


「……もう少し強く押してください」


「え? でも……」


「大丈夫です。遠慮しないで」


 促すと、彼は息を詰め、体重をほんの少し預けてきた。ベッドがたわみ、押される圧が背筋の線に沿って深く沈む。胸郭の余白がゆっくり絞れ、吐息が勝手に漏れた。

 

「んっ……っ」


 自分の声に、私自身がわずかに驚く。けれどその反応が、彼の掌をもう一段、真面目にさせた。指がずれないように広がり、肩から腰へとなだめるように圧が移る。


「だ、大丈夫か?」


「はい……んっ……そのくらいで、丁度いいです。ふっ……さすが男の子、力が強いですね」

 

 視線だけで肩越しに彼の表情を盗み見る。喉仏が上下し、目の奥で理性と本能が綱引きをしている――さっきより強く。

 

 ……さぁ、佐山くん。もっと、あなたの素敵な表情を見せてくださいね。


 私は上体をゆっくり戻し、次の姿勢に移るため、ベッドの上で半身だけ彼のほうへ振り返った。

 月明かりに切り取られた彼の顔は、さっきよりもさらに揺れている。

 

 ……いい兆候。

 

 ここから、期待どおりに普通を裏切るべく、口を開くのだった。

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