EP3 勝手な周囲

 それから暫くして、徹が塾へ行くということで夕食を取ることになった。


 ダイニングテーブルには、いつものように真夏も同席している。これも、もはや日常と化していた。母も、今ここにいない父も真夏のことを家族の一員かのように受け入れているし、真夏自身もそのように振る舞っている。


 私たちが箸を取り、温かい味噌汁に口をつけた頃だった。


「あ、そういえばさ、修学旅行のことなんだけどね――」


 真夏が突然話を切り出した。


「この前、部屋割りの希望とか聞かれたでしょ?」


 そう言われて、私は箸を止めた。そんなこともあったな、と思い出す。

 

 ……あまりに嫌すぎて放置していたやつだ。


「あれさ、葵ちゃんとわたしが毎回一緒の部屋になるように希望して出しといたよ、葵ちゃんの分も」


 私の頭の中で、警報が鳴り響いた。


「……なんで、そんなことを?」


 私の声は、自分でも驚くほど低くなっていた。


 真夏とはこうして家を行き来するような仲だけれど、学校では極力接しないように約束していた。これは私からお願いしたもので、理由はシンプルだった。

 

 小学校高学年くらいから、真夏目当てで私に接触してくる人が増えてきた。

 

 やれ、紹介して欲しいだ――

 やれ、手紙を渡して欲しいだ――

 

 最初は仕方がないかと思っていた。でも、段々と嫌気がさしてきて、そういった類の頼みを断るようになった途端――村八分にされた。


 結局それが尾を引いたことで、学校では接しないように、仲が良いことを周囲に悟られないようにしたのに……


「……だ、だって、わたしの寝相や寝起きの悪さ、知ってるでしょ?」


 真夏が少し恥ずかしそうに頬を赤らめる。


「なんか清楚系みたいに崇められてるのに、他の人にそんな姿見せられないのよ」


 ……そうだった。


 この女の寝相の悪さは筋金入りで、かつて家でお泊まり会をした時なんか、何度蹴り起こされたかわからない。明け方には必ず私の布団に潜り込んできて、気がつくと顔面に真夏の足裏が押し当てられていたこともあった。


 朝起きると髪は寝癖でぐちゃぐちゃ、よだれは垂らし放題、パジャマははだけて下着丸見え――まさに清楚さの欠片もない惨状だった。


「だから、葵ちゃんみたいに昔からの付き合いで、ありのままを知ってくれてる人じゃないと……安心して眠れないの」


 そもそも修学旅行に行きたくないと思っていたのに、追い打ちをかけるようなこの仕打ち――


「お願いっ! 悪いとは思うけど、こんなこと頼めるの葵ちゃんしかいなくて」


 真夏が手を合わせてお願いポーズを取る。その無邪気な表情は、たしかに男子が『天使』だの『女神』だの称賛するのもわかる美しさだった。


 ……まぁ、私にはその裏にある甘えと、どうしようもない身勝手さが透けて見えるのだけれど。


「……取り巻きに頼めばいいじゃないですか」


 私は冷たく言い放った。


「こらっ! 取り巻きとか言わないの!」


 真夏が頬を膨らませる。でも、その怒り方すら可愛らしくて、男子だったらひとたまりもないだろう。


「あの子たちなんて絶対に頼めないに決まってるじゃん。みんな清楚で可愛い真夏ちゃんに憧れてるんだから――」


 そんなものなのか。たまに見る分には仲良くしているように見えるけれど、色々大変さもあるのかもしれない。


 どう返事をしたものかと思案している、そんな時だった。


 ダイニングに、ツカサがやってきた。髪は少し乱れていて、口紅も薄くなっている。微かに男性の整髪料の匂いが混じった香水の香りが、彼女の後に続いてくる。


 ……明らかに事後だった。


 私はわずかに顔を顰める。


「何の話してたの?」


 ツカサが椅子に座りながら、興味深そうに尋ねた。その時、さりげなく乱れたシャツの襟元を直すツカサの首筋に、薄っすらと赤い痕が見えた。


「修学旅行の話だよ、もうすぐなんだ!」


 屈託なく答えるのは真夏。

 変わった性癖同士で惹かれ合うものでもあるのか、この2人は非常に仲が良い。


「へぇ、もうそんな時期か――」


 ツカサがニヤリと笑う。その笑みは、過去に自身が修学旅行で行ったあれこれを想起しているように思えた。


 ……なんだか嫌な予感がする。


「いいじゃん、修学旅行。ヤリたい放題じゃん」


 案の定、下世話な方向に持っていく。


 またこれか……


 私は心の中でうんざりした。なぜ皆、修学旅行と聞くと頭がピンク色になるのだろうか。


「真夏は…………まあ、ショタ専だから置いといて――」


 ……そこは置いておいていいのかな?

 

 置いておかれたにも関わらず、うんうんと力強く頷く真夏。


「葵はヤれるでしょ!」


 ツカサが私を指差す。


「顔だってその野暮ったい眼鏡を外せば整ってるんだし――高校生男子なんて、ヤリたくて仕方ない猿みたいなもんなんだし」


「……そんな相手も、予定もありません」


 私は淡々と答えた。


「えー、もったいない」


 ツカサが手に持っていた箸で、私の胸を指す。その視線は値踏みするような、品のないものだった。


「その男受けしかしなさそうな体持ってるのに……宝の持ち腐れになるじゃん。胸なんて真夏やアタシの倍はあるじゃん」

 

 自身の胸が人より大きいことは自覚している。コンプレックスというわけではないが、明らかに下卑た視線を感じることもあるし、揺れたり蒸れたりするのでめんどくささの方が優っている。


 別に見せびらかしたいわけでもないのに、どうして周りはそんなことばかり気にするのだろう。


「ちょっと、ツカサ姉さん……」


 真夏が慌てたように口を挟む。


「そういう比較、やめてよ――葵ちゃんは……ともかく、わたしだって気にしてるんだから」


「あー、ごめんごめん」


 ツカサが軽く手を振る。でも、全然悪いと思っている様子はない。


「でもさ、せっかくなんだし、修学旅行で彼氏の1人や2人、ゲットしてきなよ? 葵も高校生なんだし、経験積んどかないと将来困るわよ?」


 その言葉に、私の中で何かがプツンと切れた。

 募っていたイライラが限界に達したのだ。


 私はバッと席から立ち上がると、真夏に向けて言った。


「……修学旅行の部屋割りの件はわかりました」


「あ、葵ちゃん――」


 真夏が慌てたような声を上げる。


「ちょっと待って、ツカサ姉さんも言い過ぎ」


 真夏が私を庇うように、ツカサに向かって言った。


「葵ちゃんは葵ちゃんのペースがあるんだから、そんなに無理強いしちゃダメでしょ」


「あー、そうかそうか」


 ツカサが軽く手を振る。でも、その表情には全然悪いと思っている様子はない。


「でも葵も、もうちょっと積極的になってもいいんじゃない? せっかく可愛く生まれてきたんだしさ」


 最後まで、自分の価値観を押し付けようとする。

 こういうところは姉の嫌いなところだ。


「ごちそうさまでした」


 私はそう告げて、ダイニングから去ろうとした。


「もういらないの?」


 母が心配そうに声をかけてくる。


「……ごめんなさい、食欲がなくなったので」


 私は振り返らずに、そのまま自室へと向かった。


 後ろから、真夏の「ごめんね、葵ちゃん……」という小さな謝罪の声が聞こえたが、振り返ることはしなかった。


 ベッドの上で膝を抱え込むようにして座り、私は考えに耽った。


 本当に気が滅入る。


 誰も私の気持ちなんて考えてくれない。私が修学旅行を心底嫌がっていることも、一人でいたいと思っていることも、全部無視して自分たちの都合を押し付けてくる。


 せめて何か1つでも、修学旅行の中に興味を惹かれるものがあれば……


 そう思いながらついたため息は、誰に届くこともなかった。

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