第10話 逃走と報告

 俺は心臓をバクバクと鳴らしながら、事前に確認していた逃走ルートを辿った。


 中庭から建物の影を伝って非常口へ。そこから館内に滑り込んで、廊下を人目に気をつけながら部屋まで――。


 夕方の下見の際にしっかりと逃走経路を確認しておいて本当によかった。

 頭の中は葵との出来事でいっぱいで、とても冷静に考えられる状態じゃないからだ。


 ようやく辿り着いた部屋のドアに手をかけて、そっと開ける。


「お帰り」


 翔吾が本を読みながら、俺を迎えてくれた。


「翔吾……」


 その瞬間、俺はほっと安堵のため息をついた。やっと安全な場所に戻ってこれた。


「お疲れさま。それで、どうだった?」


 翔吾が本を閉じて、俺の方を向いた。


「小鳥遊さんの――」


 翔吾の言葉が途中で止まった。俺の表情を見て、何かを察したようだ。


「太一、何かあったの?」


「……まずいことになった」


 俺はドアに背中をもたれかからせながら答えた。


「まずいって、どういう?」


「翔吾、それも含めて相談がしたい……すごく、重要な話だ」


 俺の真剣な表情を見て、翔吾も立ち上がった。


「わかった。とりあえず落ち着いて。でも、ここだと他のルームメイトが戻ってくるかもしれない」


 翔吾が時計を見た。


「場所を移して、詳しく聞かせてもらおうか」


「どこに行く?」


「男湯の露天風呂エリアがいいかな。この時間ならもうほとんどの人が入浴を済ませて部屋に戻っているだろうし、パーテーションで仕切られてるから静かに話せる」


 さすが翔吾だ。こういう時の判断が的確すぎる。



     * * *



 男湯の露天風呂は、確かに翔吾の言った通りだった。


 月明かりが湯面を照らして幻想的な雰囲気を作っている。パーテーションで仕切られた一角は、誰にも邪魔されない完璧な密談空間だった。


「それで、何があったんだい?」


 翔吾が湯船の縁に腰掛けながら聞いてきた。


「まず、小鳥遊の裸は……見られなかった」


「……そうか。君の表情からなんとなくそんな気はしていたよ。それなりに成功の算段は立っていたつもりだったんだけどなぁ」


 俺は深呼吸してから続けた。


「せっかくの計画を無駄にしちまってすまねぇ……途中までは順調だったんだ。でも……もう直ぐ見えるって時に――見つかっちまったんだ」


「え?」


 翔吾の表情が変わった。


「先生に?」


「いや、違う。クラスメイトに、だ」


「クラスメイト? 誰に?」


「……鷹宮、葵」


「鷹宮さん?」


 翔吾が首を傾げた。


「鷹宮さんってあの……図書委員の、地味で大人しい……」


「そう、その鷹宮だ」


「本当に? 鷹宮さんが?」


 翔吾が信じられないという顔をした。


「いや、でも彼女って……」


「俺も最初は誰だかわからなかったし、今でもわけがわかんねぇんだよ」


 俺は頭を抱えた。


「眼鏡かけてなかったしよ、それに……」


「それに?」


「タオル一枚の姿だったんだ」


「え?」


 翔吾が目を見開いた。


「タオル一枚って、どういう状況?」


「風呂入ってる時に気づいてそのままこっちに来たとかじゃねぇか? とにかく湯上がりの格好でボイラー室に入ってきた」


「待って待って」


 翔吾が手を上げた。


「整理させて。鷹宮さんが、お風呂上がりのタオル姿で、ボイラー室に現れた?」


「そういうことだ」


「それで、君の覗き見を発見した?」


「ああ」


「それで?」


 俺は顔を赤くしながら続けた。


「……おもっくそ揶揄われた」


「揶揄われたって? 具体的には?」


「……む、胸を見ちまったことを言われたり、女子のどこを見たいかって質問責めにされたり……とにかく色々だよ!!」


 翔吾がくすくすと笑い始めた。


「笑うなよ!」


「ごめんごめん、でも想像すると面白くて」


「面白くねぇよ! すげぇ恥ずかしかったんだからよ!」


「それで、どうなったんだい?」


「見逃してもらう代わりに、ゲームをすることになった」


「ゲーム?」


 俺はゲームの内容を詳しく説明した。明日以降も覗きを続けること、葵がそれを妨害すること、勝敗の条件と結果について。


「なるほど……」


 翔吾が真剣な表情で聞いていた。


「面白い展開だね」


「面白いって、お前なぁ……」


「いや、本当に興味深いよ。あの鷹宮さんが、ねぇ……」


 翔吾が考え込むような表情を浮かべた。


「普段の彼女からは想像できない行動だね」


「そうなんだよ! あの子は一体なんなんだ?」


 俺は頭を掻きむしった。


「普通の女子なら、即座に先生に報告するだろうに、なんでゲームなんて提案してくるんだ?」


「きっと退屈だったんじゃないかな」


「退屈?」


「彼女、普段から一人でいることが多いだろう? もしかしたら修学旅行も楽しみにしてなかったかもしれない」


 翔吾の分析は的確だった。葵も似たようなことを言っていたし。


「それで、君の覗き見という刺激的な出来事に遭遇して、面白がっているんじゃないかな」


「面白がってるって……」


「太一の反応を見るのが楽しいんだよ、きっと」


 翔吾がにやりと笑った。


「それで、明日はどうするんだい?」


「……やるしかないだろ。鷹宮にも啖呵きっちまったし、負けたらバレておしまいなんだ」


「そうだよね。……となると、奈良での計画を詳細化する必要がある、か」


 翔吾が立ち上がった。


「鷹宮さんの妨害を前提とした、より巧妙な作戦を立てないといけないね」


「それはそうなんだけど、間に合うのか?」


「骨子程度なら僕がこれから作ってみせるよ」


 翔吾が自信満々に答えた。


「現地を実際に見てみないとダメなところはあるかもしれないけど、基本的な戦略は立てられる」


「恩にきるぜ、親友……」


 俺は心から感謝した。


「君は明日に備えて早く休んでおくといいよ。あとは任せて」


「ありがとう、翔吾」


「なに、親友でしょ?」


 翔吾がいつもの穏やかな笑顔を見せた。


 翔吾という頼もしい味方がいることを、心の底から実感した。一人では絶対に乗り越えられない状況だったが、翔吾がいれば何とかなる気がしてきた。

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