新しい領域

 ユリカが菜調に会いに行った日の夜。

 出先から帰宅した智歩はパソコンでメール処理をしていた。菜調は風呂に入っていたので、部屋には智歩1人だけだった。


 新しい大会の需要を示すための活動は少しずつ進んでいたが、最近はどこか”違和感”を感じていた。他にやるべきことがあるような気がしていたのだ。

 それを誰かに相談しようかなと考えていると、一通の電話がかかってきた。ユリカからだ。


「こんばんはっ。今時間ある?」

「大丈夫ですよ。何の用事ですか?」

「前に話してくれた『NEO蛇祭』計画、私も協力するよ」

「本当ですかっ!?やったぁ!」

「ごめんね、返事が遅れちゃって」

「良いですよ、ユリカさんが忙しいのは知ってますし」

「ありがと。それで確か、企画書を先方に見せた時に『あと少し需要が確認できればOK』って言われたんだよね?」

「はいっ!ただ、ような気がするんですよね……」

「そうだねぇ……。智歩はさ、ゼロから企画を考える時ってどういう手順をとる?」

「えっと、まずは企画のコンセプトを決めて、情報を集めながら目標や概要を決めて……そうだぁっ!後づけで需要を確かめるのがそもそもおかしいんだっ!」


 目から鱗だった。

 自分のやり方は完全に順序が逆転していた。先方の言葉は、『もっと人々の動向や需要をリサーチした上で企画案を書いてこい』という意味だったんだ!何でこんな当たり前のことに気づかなかったんだ!


「こんなことに気づかないなんて、やっぱり私って……」

「こら、落ち込まない。1人で進めたらそうなる時もあるでしょうよ。特に智歩は真っすぐすぎるからね。でも智歩は相談してくれて、今こうしてミスに気づけた。だから大丈夫。前にそんな感じのことを菜調さんに言ったんでしょ?」

「そうですね……。何でも1人でできたら、プロデューサーの仕事はいらないですもんねっ。……よし、こうしちゃいられないですっ!早速動かなきゃっ!」

「うんうん、良かった。それじゃ、ユリカお姉さんからプレゼント」


 その発言の直後、智歩のPCに1通のメールが届いた。送信元はユリカだ。文中には、1つのメールアドレスが書かれているだけだ。これだけでは全く意味が分からない。


「ユリカさん、これは……?」

「智歩の計画を事務所の仕事扱いで動かせるよう、仲の良い事務所スタッフさんに手配してもらったんだ。そうすれば、事務所のリソースも使えるようになる。智歩が欲しがりそうなデータもわかる範囲で集めてもらった。詳しいことは、そこの連絡先に聞いてくれればわかるから」

 

 ユリカは軽い口調で、さらっと智歩に告げてみせた。


「ユリカさん……私のために……っ?」

「まぁ私自身は大したことしてないけどねっ。感謝するならスタッフさんにしてよね。それに、環境をどう活かすかは智歩にかかってるから。そこから先は茨の道だろうけど、智歩なら大丈夫だって信じてるから。……叶えてみせてよ?菜調さんの夢も、智歩の夢も」

「勿論ですっ!ありがとうございます、ユリカさんっ!」

「どういたしまして。じゃ、また何かあったら頼ってよ?」

「はいっ!」

 

 智歩は元気よく通話画面を切った。

 その直後、更衣室の扉が開き、ほかほかになった菜調が顔を出した。黄褐色の鱗がつやつやに光っている。


「誰と電話してたんだ?」

「ユリカさんですっ!『NEO蛇祭』のことで的確なアドバイスもらっちゃって……。私、もう一度企画書書き直してみますっ!」


 それを聞いた菜調は窓を見やった。そこには澄んだ夜空が映っていた。

 彼女は何かを考えるかのように黙った。


「あれ、どうかしたんですか?」

「……いや、何でもない」

「そうですか。じゃあ私お風呂入ってきますねっ!」


 智歩が浴室に駆けていくのを見送ってから、菜調は窓際に向かった。草花のシルエットが風に揺らされるのを見て、菜調はぽつりとつぶやいた。


「……ユリカ、お前は智歩に必要な存在だ」



     ◇



 翌日から、智歩は企画案の練り直しに向けて動き出した。


 まずはユリカに伝えられた連絡先に要件を伝えた。すると、機密性の高いデータばかりなので事務所に来てくれと連絡がきたので、日を改めて智歩は現地に向かった。

 

 出迎えてくれたのは、メールで連絡した相手でもある事務の女性だった。赤い眼鏡をかけたスタイルの良い彼女は九里くりと名乗った。


 彼女に連れられて、智歩は事務所の隅にある一室に向かった。大量の紙ファイルが敷き詰められた本棚が並ぶ、薄暗い小部屋だった。


 そこに収められていたのは、事務所が過去に運営したイベントに関する企画案や運営のログ、それに市場の動向などをまとめたデータだ。その多くが、他の芸能事務所では手に入らないようなものばかりだった。

 

 通常、演者が特定の芸能事務所に結びつかないようなイベントでは、イベント運営会社が全体の舵取りを行うのが通例だ。この場合、芸能事務所は自社タレントの出番に関する調整に注力することになり、イベント全体の企画には深くかかわらない。そのため、智歩が興味を持っているようなイベントの運営ノウハウは、一般的には芸能事務所には存在しないはずだった。


 しかし、智歩やユリカの芸能事務所は、イベント運営会社としての活動もしていた。創立者である嶋田の「タレントの活動にできる限り手を出したい」という拘りから、所属タレントのライブを自社で行うべく、イベント運営会社を吸収したらしい。その結果、多種多様な形態のイベントを運営するようになったということだ。

 

 こうして智歩は、奇跡的にイベント運営の資料の山にあたることができた。その量も質も、智歩が今まで触れてきたものとはけた違いだ。まるで財宝の山にありついたかのような気分だ。


 智歩は目を輝かせながら、そこに案内してくれた事務の九里に顔を向けた。


「すごい資料ですねっ!でも良いんですか?私に見せて」

「高崎さんは外部の人間ではないですからね」


 彼女は赤い眼鏡を抑えながら、淡々とした口調で答えた。


 確かに自分は仕事こそしていないが、忙しくて退職のタイミングを逃し続けた結果、この事務所に名前を置き続けている。とはいえ、ほとんど実態が伴わない肩書だけで貴重な資料を開示してもらえるとは思えない。それも、不祥事で社内全体が張りつめているこのタイミングでだ。


「……本当にそうですか?」

「そうですね。……でしたら、三根さんにお礼を言ってください」


 ユリカと言ってることが真逆じゃないか、と智歩は驚く。すると、九里がぷいとそっぽを向いた。


「今から私は独り言を言います。……資料の管理自体は私の管轄ですが、私1人だけでは貴女に資料を開示する許可は出せません。そこで、三根さんが上層部に頭を下げて回ってくれたんです。高崎さんなら信頼できる、何かあったら自分が責任を取る、と」


 思わず資料を手から落としてしまった。いつも余裕のある振る舞いをしていた彼女が、「自分が責任を取る」なんて言うなど、想像つかなかった。想像できなかったことが悔しかった。


――やはりユリカは、私の頼れる大親友だ。



 動揺する智歩とは対照的に、九里は冷静に話を続ける。


「……とはいえ、いくら売れっ子といえど、1人の若手タレントが動かせる事柄には限界があります。ですが……おっと、この先は私にも権限がありませんね」


 彼女は智歩の方に顔を戻すと、機械のように頭を下げる。


「申し訳ございません、独り言がうるさかったですかね」


 智歩がきょとんとしていると、九里がにこっと笑う。

 

「ごめんなさいね。一度やってみたかったんです、こういうの」

「びっくりしましたよ。ところで、もう1人というのは?」

「それは本当に言えないんです。独り言だろうが口に出したら、その瞬間に呪われます」

「だったら、何でユリカ……三根さん以外にも協力者がいることを話題にしたんですか?」

「三根さんの努力は貴女に知ってほしい一方で、彼女1人の働きだと伝えても、彼女に過剰な期待をかけさせてしまう。だから、過不足なく彼女の働きを伝えました。私の私信のようなものです。……さて、高崎さん。私に声をかけていただければ、この部屋にはいつでも来ていただいて構いません」

「え!?良いんですか?」

「当然です。1日でできるような仕事ではないでしょう?」


 事務の九里は、再び目つきを真剣にする。


「……ただし、1つだけ確認させてください」


 彼女は眼鏡をくいっと抑えながら、冷静な視線を向けてくる。


「貴女は今、新しい領域に足を踏み入れています。プロジェクトの規模も必要なリソースも、今まで貴女が関わってきたであろうものとは比較になりません。もちろん、それに伴う責任も」


 智歩はごくりと唾を飲み、事務の女性をじっと見つめる。


「今ならまだ引き返せます。……それでも本当に、この先に進む覚悟がありますか?」

 

 その言葉の重さに、一瞬だけ智歩の背筋が冷たくなる。

 狭い部屋に備えられた本棚が、まるで迫りくるか壁のような圧迫感を放つ。

 

 だが、一度瞬きした後には、恐怖はなくなっていた。

 もう、この程度では動じない。


 私は夢のために、どこにだって行くつもりだ。

 

「当然です。覚悟ならとうにできています」


 九里は眼鏡の奥の細い眼をぱちりと開けて、智歩の黄色い瞳を見つめた。そして眼を閉じ、安堵したような表情を見せた。

 

「貴女には愚問でしたね。……わかりました。私もできる範囲で協力しましょう」

「ありがとうございますっ、九里さんっ!」



     ◇



 智歩は夢中になって、過去の事例を徹底的に調べ上げた。

 当然ながら資料だけでは把握できないこともあったので、そんな時は現場への取材を行った。事務所の関係者だけで情報が足りない時には、赤城の紹介のもと各地のパフォーマンスイベントの関係者に取材したり、情報提供を求めた。


 智歩のリサーチを何かと支えてくれたのが、九里だった。彼女は事務職でありつつも、イベントプロデューサーとしての経験も豊富に持っていたのだ。何故そんな人材が事務職をしているのか問うと、嶋田の一件で離職者が多く出たので、穴埋めとして社内の資料の事情に詳しく事務の経験がある彼女が、資料の管理担当になったのだとか。

 彼女の親身な助言を受けながら、智歩は資料や現場のデータを基に企画を何度も練り上げ、『NEO蛇祭』をブラッシュアップした。



     ◇

 

 

 『NEO蛇祭』計画始動から、およそ2か月が経った。今年も残りわずかとなっていた。

 蛇人の居住区では多くの住民が外出を控えるようになり、街は雪が降ったかのように静かになっていた。


 その中を、智歩は軽快な足音を響かせながら駆け抜ける。


 羽織ったこげ茶色のロングコートが、お尻の後ろでふわりと膨らむのを感じる。

 そのコートの重さも、ものともせずに駆けていく。

 稀にすれ違う住民が珍しそうに視線を向けてくるので、自分も笑顔を返しながら走り抜ける。


 自宅に到着すると、勢いのままに扉を解き放つ。部屋の空気の出迎えが暖かい。


「モカさーんっ!たっだいまーっ!」


 扉を片手で閉めるのと同時に、菜調が家の奥からやってくる。


「おかえり。何か良いことがあったみたいだな」


 その質問を待っていた。

 今日は最高に良いことがあったのだ。1分1秒でも早く菜調に報告したかったので、思わず革靴で走ってしまったほどだ。……正直かなり足の側面が痛むけれど、それでも後悔していない。

 深呼吸をしてから、お腹から声を出す。

 

「はいっ!『NEO蛇祭』――いや、『百花繚乱祭』プロジェクトが本格始動しましたっ!!!」


 菜調の青い瞳が大きく開いた。


 2人がしばらく見つめあった後、菜調が優しい笑顔を浮かべた。


「信じてた。智歩ならできると」


 その顔には、彼女の最大限の喜びと安堵が浮かんでいた。

 彼女からの祝福は嬉しかった。だが、ここで満足してはいけないと身を奮い立たせる。あくまで、これは始まりなんだ。


 その想いに呼応するように、自分が言葉を発する前に、菜調の表情も凛々しいものになる。


「……本番はここからです。私が『百花繚乱祭』を最高の舞台に仕上げますっ!そこで、モカさんの最高のパフォーマンスを見せてくださいっ!」

「勿論だ」


 お互いにじっと見つめあい、うなづいた。

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