鳥籠
羽を覆うカバー……。その存在は聞いたことはありましたが、自分用のものは持っていませんでした。現代では使用者も増えていますが、当時は『翼人は羽が舞ったら困るような事柄にはそもそも手を出さないべき』という考え方が根強く、カバーは普及していなかったのです。
私はどこか緊張しながら、智歩に促されてカバーの袖に腕を差しこみました。カバーは少し私の翼よりも大きかったものの、使いづらくはありませんでした。ファスナーをしめると、すっぽりと翼は覆われました。
「良かった、サイズも合ってる!」
「すごい……。いつ計ったの?」
「計らなくてもわかるよっ!いつもユリカちゃんの羽をぎゅっとしてるもん!」
「すごいよ智歩ちゃんっ!いつ用意したの?」
「前に幼稚園でユリカちゃんとお話しした後にね、お洋服で羽を隠せたらユリカちゃんがピアノ弾けるようになると思って、パパのパソコンを借りて調べたの。そしたらね、カバーの作り方が出てきたから、ママに裁縫教えてもらって作ったんだ!」
智歩はにこにこ笑いながら、もう片翼用のカバーをひらひらと広げました。
「まって。智歩ちゃん、”作った”って言った……?」
「うん!はじめてだったから2日もかかっちゃったけどね」
腕を持ち上げてカバーをよく見ると、たどたどしい波縫いで布地が縫い付けられていました。私は驚いて、智歩の顔を二度見しました。すると、彼女の指先が目に入りました。そこには、いくつもの絆創膏が巻かれていたのです。
「どうして!?そんなに私のために……?」
「だってユリカちゃんにピアノ弾いてほしいもん!ユリカちゃんは演奏上手だし、ピアノ弾いてるときのユリカちゃんってカッコいいから!」
智歩は純粋で無垢な笑みを浮かべていました。その眩しい輝きに、私の心は吸い寄せられました。
「智歩ちゃんっ!」
私は思わず、両翼を広げて智歩に抱き着きました。いつも彼女をやさしく暖めている時よりも、ずっと強い力で、彼女を抱きしめました。
自分はピアノを弾くべきではない――。そんな冷たい想いが降り積もっていたのを、智歩は吹き飛ばしてくれたのです。
翌日の朝、窓を開けると残雪が日に照らされながら溶けていました。その光景は、見たことがないほどに煌びやかでした。
◇
「貴女の言い回しを借りるならば、私からしても、智歩は太陽だったのです」
ユリカはピアノを弾く手を止めると、菜調の方を見やった。
菜調はやはり、どう返事をすればいいのかがわからない。彼女と話すときはずっとそんな調子だ。
だが、今回ばかりは仕方ないはずだ。プロによるピアノの弾き語りで、突然思い出話を聞かされる経験は後にも先にもないだろう。適切な対応があれば教えてほしいものだ。
だが、正直に言って得体が知れないと感じていた彼女に、シンパシーを感じられたのは少し嬉しかった。そして勿論、相棒の魅力を再確認できたこともだ。
「……良かった」
考えた末に出た言葉はこれだった。ユリカも返事として、一瞬だけ目を細めた。
「さて、息抜きにちょっとした余談をしましょうか。智歩は小学校にあがって何年か経つと、年下の子の面倒をよく見るようになったんです」
ユリカは話の途中で、どこかいじわるな目つきで菜調を見やった。
「そういえば、『旅行先で蛇人の妹ができた!将来はダンサーになるんだって!』と元気に報告してくれたこともありましたね~」
「妹っ!?」
「おや、何で貴女が赤くなっているんですか?誰も貴女の話だなんて言っていないのに」
「……黙れ。しかし、よくそんなこと覚えているな。10年前のことだぞ」
「黙ったら質問に答えられないので喋りますね。……智歩は記憶が少し苦手なんですよ。なので、私が智歩にまつわることを意識して記憶するようにしたのです。まぁ、その中でも今のエピソードは特に印象に残っていたので覚えていたというのもありますけどね」
「本当に智歩の姉みたいだな」
「ええ。智歩はいつでも私を頼ってくれました。本当は、私にとってこそ智歩が最大の心の支えになっていたのですが。……話を戻しますね」
ユリカは再び、鍵盤の上に翼を置いた。
◇
小学校にあがり、私は意を決して、ピアノへの熱意を親に訴えました。快諾はされませんでしたが私は何度も想いを伝え、ピアノを練習するための様々な環境を与えてもらうことができました。将来の夢としても堂々とピアニストを掲げ、日夜ピアノの練習に励みました。技術はめきめきと成長し、都会の大きいコンクールで入賞することもできました。
その道中、智歩はずっと隣にいてくれました。ピアノ教室の演奏会で発表する時には欠かさず来てくれましたし、練習にもよく付き添ってくれました。彼女がいたから、私も諦めずにピアノを続けられました。
中学生になった頃には、それまでは漠然としていた音楽ジャンルの好みもくっきりしました。ロックに夢中になったのです。ピアニストとは厳密には異なりますが、ロックバンドでキーボードを弾くことを望むようになりました。輪郭がはっきりした夢に向けて、私はますます音楽にのめり込みました。
その一歩として、私はバンドを組もうとしたのです。
それを献身的に支えてくれたのは、やはり智歩でした。
私がバンドを組みたいと相談した翌日には、学校中を回ってメンバーを集めてくれました。そして、彼女自身もベーシストとしてバンドに参加してくれました。もちろん、彼女は未経験です。
彼女がベースを選んだのは意外でしたね。メロディを担当するギターの方が、初心者にはキャッチ―な魅力があるはずですから。理由を尋ねると、彼女は”えへへ”とにやけながら「土台のリズムを作る方が性に合うんです」と返してくれました。音楽に強い情熱があるメンバーが集まる中でも、智歩は必死に喰らいついてくれました。
加えて、彼女は演奏だけでなくマネジメントやライブのセッティングにも熱を入れていました。――私には、演奏よりも裏方作業をしている時の彼女の方が輝いて見えたほどです。
ある時、私は智歩に聞きました。「私達のように特別音楽が好きでもないのに、何故そこまでしてくれるのか」と。すると、彼女はからっとした日差しのような笑顔を浮かべながら答えました。
「ん……、ユリカさんが輝いているからですっ!」
「……えっ!? ど、どういうことっ!?」
「昔からまっすぐに夢を目指しているところがかっこよくて、キラキラして見えるんですっ!だから、ユリカさんを隣で応援したいんですっ!」
「ありがとう、智歩。……でも、それなら裏方だけで良くない?」
「ユリカさんみたいになりたいんです。私と違ってはっきりとした夢を持っているユリカさんは、ずっと私の憧れで目標なんです。だから、自分も演奏すればユリカさんに近づけるかなって思ったんです。それに、ユリカさんのためにできることはやっておきたいですから」
「……”憧れ”かぁ。私は、今の智歩が好きだけどなぁ。私なんか目指そうとしなくて大丈夫だよ」
「私のなりたい姿は私が決めるんですっ!」
「そっか。智歩は偉いなぁ」
「ユリカさんの方が凄いですっ」
「あははっ、何だそれ」
◇
中学卒業後、私は本気で音楽の道を歩むために上京を決意しました。勿論、背中を押してくれたのは智歩でした。
地元を離れる日にイチョウ型の足跡だけが雪道に残ったことが、やけに印象的でした。それだけ、私と智歩はいつでも一緒でした。惜しい気持ちもありましたが、彼女が送り出してくれたのだからと、私も胸を張りました。
東京での音楽活動は、想像を絶するほどにシビアでした。厳しい世界だということは元から覚悟していましたが、現実は想像以上でした。同じ道を志す人が、努力だけでは越えられない壁に、次々と心を折られるのを目の当たりにしました。東京で知り合った人が、1人、また1人と音信不通になっていくのです。死神が家を一軒一軒訪ねては、住民に刃を向けているかのようでした。 そして『次はお前だ』という
そんな私の心の支えは、やはり智歩でした。
彼女とは毎日のように連絡を取り合っていました。おぞましい現実を知らない智歩は、いつでも純粋な眼を黄色く輝かせて、私の夢は叶うと言ってくれました。
暗がりの海で光る灯台のように、彼女の眩しさだけが私を導いてくれたのです。
自分にできることはないかと問われることもありましたが、”必要ない”と断りました。私としても何を頼めば良いかわかりませんでしたし、彼女には彼女の道を歩いてほしいと考えていましたから。
◇
こうして半年ほどが経った時、1人のシンガーが音楽を辞めたと風の噂で知りました。私と同時に上京した、中学時代のバンドメンバーです。
彼女はギターボーカルを担当しており、力強い歌声が特徴でした。そんな彼女は、バンド内の誰よりも音楽を愛していました。音楽のことしか話さず、放課後の時間はすべて音楽に費やしていました。私もピアノないしキーボードにのめりこんだ自負はありますが、彼女の域には達していなかったでしょう。彼女は技術も伴っており、高校生や社会人のバンドに助っ人として呼ばれていたほどです。
私はミュージシャンとして彼女を尊敬していました。彼女は自分よりも早く成功するだろうと当然のように考え、その背中を追う――あわよくば追い越すことを、1つの目標にしていました。
そんな彼女が音楽を辞めると知った私は、それを信じられないまま彼女に会いに行きました。するとそこには、豹変した彼女の姿がありました。死んだ魚のような目をして、薄暗い部屋で明かりもつけずにうなだれていました。彼女は弱った声で、「もう二度と音楽はやらない。聴きたくもない」と呟きました。
彼女に何があったか、聞く勇気はありませんでした。
◇
それから数か月後、智歩からビデオ通話で「ギタボの彼女は最近どうしているのか」と問われました。
彼女は音楽を辞めたことを誰にも伝えていないようでした。しかし、音信不通が続いたことで智歩も不振に思ったようです。
その智歩の顔には、わずかに影が落ちていました。
その時、かつてピアノを壊した時の大人たちの顔が、フラッシュバックしました。
苦い現実を知りつつも、心配させまいと青白い表情を隠して、取り繕った笑顔を浮かべる。あの顔です。
――智歩にはだけは、そんな顔をしてほしくない。
智歩の無垢な笑顔だけが、私の心の支えだった。
空元気も多い彼女だが、私の夢を応援するときだけは、一切の曇りを見せたことが無かった。
夢の実現を心から信じる、純粋で優しい光に導かれたから、私は暗闇でも羽ばたいて行けた。
それが失われたら――彼女が『夢は叶う』と信じられなくなったら、私は道を見失うだろう。
だから、智歩は何にも汚されず、濁らず、純白でいてほしい。
残酷な現実を知ることなく、いつまでも
何があっても、「ユリカさんは最高の音楽家になれます!」と笑いかけてほしい。
例え、その幻想が
私は口角をぐっと上げて、智歩に語りかけました。
「大丈夫、彼女は忙しくて連絡できてないだけだよ」
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