第8章 夢

リスタート

 嶋田の事件から、時間はめまぐるしく過ぎていった。


 彼女は無事に病院を退院した。それでも自宅での療養は必要で、彼女は自宅の布団で1日を過ごしていた。そんな菜調を、智歩は時間が許す限り隣で見守っていた。


 ふと部屋の窓を視れば、広葉樹の葉に柔らかい黄色がにじみ出ていた。気づけばもう10月だ。風が吹けば、枝から木の葉がふわりと揺れる。そんなのどかな光景が広がっていた。


 それに反して、智歩の手はせわしなかった。パソコンを叩き、菜調のプロデュースに関する様々なタスクに向き合っていた。さながら冬眠に備えて木の実を集めるリスのようだ。

 ここ数日間、智歩は嶋田の一件に関する警察の事情聴取や、芸能事務所関連のやり取りに忙殺されていた。そのため、菜調のプロデュース関連の仕事にはしばらく手を出せていなかったのだ。


 大量に溜まったメールを見て、智歩は菜調や関係各所への申し訳なさを覚え、気が重くなった。しかし、それらの1つ1つへの対応を始めた途端、智歩は自分の指が踊るように動くように感じた。

 軽傷とはいえ、骨折により智歩の身体は少し不自由だった。しかし、嶋田の元でタレントをしていた時よりも、ずっとずっと彼女の身体は快適に動いた。気づけば鼻唄をうたっていた。まさに、ここが自分の居るべき場所、自分のあるべき姿だと智歩は感じた。

 そんな智歩の様子を、菜調は布団の上から目を細めて眺めていた。

 

 智歩はメール処理を進める中で、一件のメールを見て目を輝かせた。


「えっ……、本当に……!?」


 吐息の中に抑えきれない歓喜が混じったような声。それを聞いて、菜調も身を乗り出す。

 

「やっ……やりましたよっ!菜調さんっ!」

「智歩っ!?」

「”新蛇祭”の選考、通りましたぁっ!」

「本当にかっ!」

「はいっ!少し前に応募していて、その結果が数日前に発表されていたんですっ!」


 智歩は右手の手のひらを出して、菜調とハイタッチ。ぱんっ、と軽快な音が響いた。


 「菜調さんのパフォーマンスが、千人以上の観客に届くんですよっ!楽しみですっ!さん、身体の方も大丈夫なんですよねっ!」

「ああ。本番の時期までには以前と変わらずに踊れるようになると、お医者さんも言っていた。必ず最高のパフォーマンスに仕上げてみせる」

さんなら優勝できますっ!」


 智歩は嬉しそうにくるくると回りだす。彼女は骨折していると思えないほどに、無邪気に振舞っていた。菜調もそれを楽しそうに見つめていたが、ある違和感に気づく。


「智歩、さっきって言わなかったか」


 その一言でを聞いて、智歩の回転が菜調に背を向けた状態で止まった。

 

「智歩、もしかして……」

 

 おそるおそる尋ねる菜調。忙しい時に智歩を余計に混乱させたくはなかったので、智歩に過去のことを話すとしても、それは遠い先になるだろうと菜調は考えていた。その中で突然モカと呼ばれたら、どうしても驚いてしまう。

 

 菜調に背を向けた智歩は、ゆっくりと振り返る。

 その顔は、真っ赤に染まっていた。


「ごめんなさい、病院や警察との対応だと菜調さんの本名を出す必要があって、『菜調さんはモカさん』って意識してたら、こんがらがっちゃたんです……。嫌でしたか……?」

 

 智歩がもじもじしながら釈明するのを聞いて、菜調はこわばった肩を下ろした。菜調が「構わない」とぼそっと呟くと、 智歩は菜調から目線を逸らし、照れくさそうに尋ねた。



「じゃあ、2人だけの時は、さんって呼んでも良いですか?」

「!?」

「その……理由は特になくて……なんとなくです」

「……大丈夫だ」


 菜調は眼を閉じて静かに笑ったが、心の底ではと呼ばれたことが意外なほどに嬉しかった。単に懐かしいというだけではない。智歩は、自分の本心も未熟なところも、全部ひっくるめて受け入れてくれた。そんな彼女には、本当の名前で呼んでほしいと思った。


「改めてよろしくお願いしますね。モカさんっ!」



     ◇



 それからしばらくして、家のインターホンが鳴った。

 智歩が玄関前に確認しに行くと、そこには金髪の翼人が立っていた。


「ユリカさんっ」

「こんにちは。元気そうだね、智歩」


 扉を開けてユリカを招き入れると、彼女は羽をばさばさ震わせながら入室した。

 彼女がここを訪れたのは、嶋田の一件に関する報告をするためだ。……実際はそれだけならオンラインで済む話なのだが、智歩のお見舞いとして出向いてきたのだが。


「良かった、2人とも大事にはなってなくて」


 フルーツかごを握ったユリカは智歩と菜調を一瞥いちべつすると、安心したように息を吐いた。


「ごめんね智歩、仕事が長引いちゃって遅くなっちゃった」

「いえいえ、ありがとうございます。ユリカさんは関係ないはずなのに、嶋田さんが逮捕された後の事務所のゴタゴタに率先して対応してくれて」

「別に良いよ、私にも2人を巻き込んだ責任みたいなものはあるしさ」


 何事もなかったかのように、ユリカはからっとした態度で返事をすると、智歩から視線を外し、窓の外を見やった。


 彼女は「自分に責任がある」と言っているが、彼女もこの事件の被害者だ。彼女自身も相当傷ついているのだろうと智歩は察した。


 彼女は自身の音楽の技術に相当な誇りを持っていた。タレントとしての手腕にも自信があるようだった。それなのに、彼女の活躍の裏に嶋田の暗躍が存在していた可能性を突き付けられたことは、彼女にとって耐えがたいダメージのはずだ。


 そして、彼女はそれを絶対に口にしない。それがユリカという人間だ。だから私も、そこには触れないことした。それが優しさだと思った。


「それより、智歩こそパソコンなんて広げて平気なの?智歩も怪我人なんだよ?もっと安静にしてた方が良いよ」

「大丈夫ですっ、右腕はピンピン動きますしっ!」


 智歩は元気に右腕をぐるぐる回して見せるが、その拍子に別の骨が痛んでしまう。


「うっ」

「ほら、言わんこっちゃない」

「いや、これくらい大したことないですよっ!それに……」


 智歩は、布団から身を起こして話を聞いていた菜調に目をやった。ユリカも釣られて菜調に目を向け、口を閉じた。


 智歩やユリカが使う倍の横幅がある布団の上には、蛇人ラミアの長い蛇体が縦長のとぐろを巻いて詰まっていた。その表皮は、全体が包帯でぐるぐる巻きになっていた。その姿は、もはや何の蛇なのか一目ではわからないほどで、誰が見ても痛々しさを覚えさせるものだった。


 ユリカが言葉選びに迷っていると、智歩の視線に気づいた菜調が「心配するな」と呟いた。


「しかし、智歩が危険だからって一目散に飛び出して、こんなにボロボロになるなんて……」

「えっ、もしかしてユリカさんが菜調さんを連れてきたんですか!?」


 智歩が眼を真ん丸にしてユリカの方を向くと、ユリカはきょとんとした顔をする。


「そういえば言ってなかったね。……うん、私が会わせようとした。っていうか、私じゃなかったらあの蛇はどうして東京にいると思ったのよ」

「それは……菜調さんなら、来てくれてもおかしくないなって……」


 智歩は顔をにわかに赤らめて目を逸らすと、熱が伝導したように菜調も顔を赤くする。そんな2人の様子に、ユリカはため息をついた。

 ユリカは綺麗に生えそろった自分の翼に目をやる。こんな思考は不謹慎かもしれないが、やっぱり菜調にはなと彼女は考えた。そこで元の話から意識が逸れそうになったことに気づいたユリカは、翼を畳んで少し身震いし、話を戻す。

 

「とにかく、私が東京に菜調を連れてきた。到着した時にはもう”嶋田と仕事の話がある”って智歩に言われてたけど、その蛇は智歩の仕事が終わるまで、深夜まで待つってさ」

「私は夜の方が得意だからな。何てことない」


 無表情の菜調に、ユリカはちょっとイラついたような半目を菜調に向ける。それでも菜調の顔つきは全く変わらないので、ユリカは菜調の傍に近づいて、ひそひそと話す。

 

「……せっかく貴女を立てようとしてるのですから、余計なことは言わないでください。菜調さん」

「そうなのか?……智歩、私は何かまずいことを言っていたか?」

「えっ私!?何のことですか!?」

「なんでもない。忘れてくれ」


 菜調は智歩の返事を聞くと、首を回してユリカを見やり『だから問題ないだろう』とでも言いたげな目線を向ける。ユリカもため息をついて、「そうですね、大丈夫です」と菜調に囁く。

 

「あの……2人は何の話を?」

「なんでもないよ智歩っ!……話を戻すね。菜調さんと一緒に東京で待とうとした時に、彼女に言われたんだ。『智歩が危ない。今から10分経っても私から連絡がなかったら、この場所に警察を向かわせろ』って」

「菜調さんに渡された発信機が何かの拍子で動いたんですね」

「私はすぐ状況を理解できなかったけど、菜調さんが凄い権幕の顔だったから、言われるがままに座標をスマホで記録した。そうしているうちに、菜調さんは凄いスピードでその場所に向かっていった。それからは……説明しなくても良いか」

 

 そういえば、あの時の菜調さんの蛇腹はぼろぼろだったな、と智歩は思い出した。智歩は右手で優しく菜調の腹を撫でた。



    ◇


 

 話がひと段落付いたところで、そういえば嶋田が逮捕された後の事務所はどうなったのかと智歩は尋ねた。ユリカは2人の顔から少し離れた椅子に腰かけると、両うでを組んで再び口を開いた。


「彼女が失脚した後も事務所は残せないかって話になってる。もちろん、事務所の名前とか体制は変わるけどね」

「……良かったです。でも、ほとんど嶋田のワンマン体制だったのを変えるとなると、大変そうですよね」

「私も正直どこまで上手くいくかはわかんない。それでも、関係者はみんな必死に頑張ってる」

「皆さん強いんですね。少なからずダメージはあったはずだろうに、それでも大切な夢や想いを貫きたいんですね」

「それを言ったら、智歩だってそうだよ」

 

 ユリカは右翼みぎうでを前に出して、智歩のひざ元にあるノートパソコンを手羽先の爪でつんつんと指した。智歩はびっくりしてパソコンの画面を畳みそうになりながら、前を向いてユリカの顔を見る。


「嶋田の件で、智歩たちの名前は表に出ないようにしてくれるってさ。それに、嶋田たちは菜調さんを罪に問うつもりはないみたい。彼女たちは軽傷だったみたいだしね」

「つまり、菜調さんは事件のしがらみに縛られずに活動を再開できるってことですか!?」

「そういうことだね。もちろん影響がゼロとは言えないけれどね。あとはプロデューサーの腕次第、ってことかな」


 身を乗り出してユリカの話を聞いていた智歩は、胸をなでおろして「良かったぁ……」と息を吐く。隣で菜調も静かにその話を聞きながら、布団の中でもぞもぞと尻尾を揺らしていた。

 智歩は菜調と目を合わせて、にこっと笑った。


「まずは新蛇祭ですっ!菜調さんっ!」

「ああ。絶対に勝つぞ」

「私達なら向かうところ敵なしですっ!目指せ優勝ですよぉっ!」


 元気な声を出して盛り上がる智歩と、静かに熱い意気込みをみせる菜調。

 そんな2人を前に、ユリカは気まずそうに目を逸らした。


「えっと、智歩……」

「あっ!言ってませんでしたね。なんと私達、新蛇祭に参加できるんですっ!」

「そ、そうか……それは……」

「ユリカさんも応援してくれますよねっ!?」

「ううん、智歩……。その、すごい言いにくいんだけど……」

「……?」


 智歩と菜調は不思議そうな顔でユリカを見やった。

 2人の視線を浴びたユリカは、うつむきながら椅子に深く腰掛けて、「はぁ」と大きくため息をついた。


 そして、ゆっくりと顔を持ち上げた。


「新蛇祭は……中止になった」

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