輝く世界

「…………私、旅行でここに来てるんだ。ここに居られるのは今日だけなの」

「えっ……!?」

 

 心臓が止まったかと思った。


 智歩お姉ちゃんの手を握っていた力が抜けた。両手をぶらんとおろして、愕然と立ち尽くした。静かな空き地に、ヒグラシの寂しげな声が響いた。


 なんとなくさっしはついていた。この田舎町にはいないはずの少女。珍しい2本の脚。普段着にしては上品なワンピース。蛇人の文化を貴重な体験として楽しむ様子。彼女が旅行で滞在していると推測するには十分な材料が揃っていた。


 それでも、認めたくなかった。

 智歩お姉ちゃんには、いつまでも私の隣にいてほしかった。もはや、彼女がいない人生を想像できなかった。


「そんな……智歩お姉ちゃん……?」

「ごめんね、騙したみたいになっちゃって……」

「智歩お姉ちゃん……やだ……っ!智歩お姉ちゃんがいないと…………」


 私はまたしても、泣きそうになってしまった。

 でも、我慢した。目を瞑って、涙が漏れ出すのをぐっとこらえた。だって、彼女は私を憧れだと言ってくれたから。私をかっこいいと言ってくれたから。だから、彼女にはもう涙を見せたくなかった。

 なのに、私の眼は言うことを聞かなかった。必死の抵抗にもかかわらず、閉じたまぶたは決壊してしまった。結局、私は立ったままわんわんと泣きだしてしまった。

 

 すると、智歩お姉ちゃんはぴょんと土管から飛び降りた。乾きつつあった地面に着地し、”とすん”と音が鳴った。

 びっくりして私は目を開く。すると、力なくぶらさがっていた私の右腕を、彼女の細い両腕が手繰り寄せた。彼女の手は、とっても暖かかった。

 

「大丈夫。モカちゃんは強いから」

「…………!?」

「夢に向かってまっすぐに頑張れるモカちゃんなら、何にも負けないから。私はそんなモカちゃんが大好きっ!私はモカちゃんを信じてるっ!」

「ちほ……お姉ちゃん…………っ!?」

「モカちゃんなら、絶対に夢を叶えられるよっ!」

 

 夕焼けの強い日差しが、智歩お姉ちゃんの姿を眩しく照らした。

 そして、彼女はそれに負けないくらいの、満面の笑みを私に向けた。ずっと暗闇の世界で生きていた私にとって、それは今までに見たことがないくらい眩しかった。

 

 気が付いたら、涙は引っ込んでいた。私はありったけの声で叫んだ。


「わかったっ!私、ぜったいに夢を叶えるっ!何があっても諦めないっ!」


 慣れない大声を出した私は息を切らしながら、智歩お姉ちゃんをじっと見つめた。すると彼女は静かに、私に抱きついた。私も彼女に身を埋めた。彼女の身体から湧き出る暖かさ、柔らかい感触、心臓の鼓動、その全てが頭に焼き付いた。


 智歩お姉ちゃんは私の身体から少し離れると、カバンから何かを取り出した。小さいひまわりの押し花だった。


「ひまわり好きなんだよね?これ、大切にしてね」


 私は押し花を受け取った。どんな言葉を返せば良いのか迷っていると、彼女は再びにこっと笑った。


「じゃあねっ」


 私が何も言えないうちに、彼女はたんたんと軽快な足音を立てて去っていった。夕焼けが眩しい中、私はその背中を見ていた。

 彼女の右脚が、空地の外へと飛び出した。背中がどんどん小さくなっていく。


「智歩お姉ちゃんっ!」


 私が叫ぶと、足音が止まった。

 私は身をかがめて、下半身にありったけの力を込めた。考える前に、身体が動いていた。

 体力はとっくに限界だった。普段ならその日の練習は畳む判断をしていただろう。でも、智歩お姉ちゃんの言葉を思い返せば、自然と力が湧いてきた。


 姿勢を引くして、両腕を地面に立てる。蛇体をバネのように折りたたむ。空気も音も遮断して、己の身体に意識を集中させる。約2mの蛇体を構成する筋肉、その繊維の1つ1つの構成を脳内で描く。

 

 ポンプを膨らませるように腕の筋肉を膨張させる。大地に突き立てる。同時、地盤を沈めるほどの気持ちで、蛇体で地面を押しつぶす。


 そして、大地を蹴った。腕を床から突き放した。


 私の身体は、宙高く浮いていた。


 夕日の光を身体の全体で浴び、視界が真っ白になった。私を包んだのは、優しい暖かさだった。智歩お姉ちゃんに抱きついた時と同じ、大好きな暖かさだった。宙に浮いているのは一瞬のはずなのに、その光はじっくりと染み込んでくるような感覚を覚えた。


 着地に備えて下を見ると、沈む夕日の代わりに、智歩お姉ちゃんの顔が見えた。彼女は息をのんだような様子で、私を見守っていた。

 

 黄色い光を纏いながら、着地の姿勢をとり、地面に飛び込んだ。砂煙が舞い、前が見えなくなった。

 ずしんと重力が身体にのしかかる。身体の接地面から、骨をゆさぶるような衝撃が響いた。


 ぜぇぜぇと息を乱れさせながら、砂煙が消えるのを待った。

 遠くに智歩お姉ちゃんの顔が見えた。


 私は硬くなった雑巾を絞るように、わずかに残った力を振り絞って叫んだ。


「私は凄いパフォーマーになるっ!そして、たっくさんの人の希望になるようなパフォーマンスをするっ!何があっても、絶対にぜったいに夢を諦めないっ!約束するっ!」


 喉が裂けるかと思った。私の体力は、今度こそ尽きそうになっていた。

 立っているのもつらくなり、その場で倒れそうになった時、智歩お姉ちゃんの元気な声が聞こえた。

 

「モカちゃんならできるよーっ!」

 

 彼女は笑顔で、高く上げた右腕を振った。

 そして、振り返ると駆け足で去っていった。


 私は空地から這い出て、彼女の背中が見えなくなるまで前を見続けた。

 声は出せなくなっていたが、彼女への感謝と夢への誓いを、いつまでも叫び続けた。


 その姿が視界から消えた後も、空の橙色が消えるまで私は立ち続けた。



      ◇

 


 空が藍色に染まり、周囲はしんと寝静まったような雰囲気となっていた。

 風が吹き、空地の隅からざわざわと音がした。その方向に目をやると、草木に混ざってひまわりが咲いていた。夜中でもその大輪の黄色は、月明りに照らされてくっきりと目に映った。昼と変わらないようだった。


 私は土管の上に這い上がり、智歩お姉ちゃんが座っていた位置の隣に腰かけた。

 黒い髪をゆらしながら風がふぅっと吹き抜けた。


 顔を上げると、藍色の夏空に月が煌々と光っていた。

 ふと、理科の授業で聞いた「月は太陽の光を反射して輝いている」という話を思い出した。


 そうだ。真っ暗だった私の世界に、太陽が昇ったんだ。

 智歩お姉ちゃんという太陽が。



    ◇



 その日から、私はひたすらにダンスを磨き続けた。

 夢を叶えるために。そして、大好きな智歩との約束を果たすために。


 友達なんてできなかったし、親からも見捨てられたが、構わなかった。中学卒業後は親との連絡手段もち、地元を離れた。黒い髪も青く染めて、本名も隠した。あの日に見た夏の月に自分を重ねて”なつき”と名乗った。


 誰とも交わらずに、夢のことだけを考えて生き続けた。寂しくなかったと言うと、嘘になるのかもしれない。でも、ひとりだとは感じなかった。私が夢を追い続けている限り、智歩だけは味方でいてくれると信じていたからだ。どんなにつらくても、ひまわりの押し花が元気を与えてくれた。


 不器用な私は、ダンスの技術以外のことを疎かにしてしまっていた。具体的な目標すら考えなかった。もしかしたら、夢そのものよりもの方が大切になっていたのかもしれない。あまりにも滑稽だ。

 幼少期に智歩と出会ったことで、私は一皮むけたと思い込んでいた。でも、私は抜け殻の方だった。空っぽだった。

 

 それでも私は踊り続けた。それしかできなかった。踊ること――智歩と繋がることは、私にとって息を吸うことと同じだったから。



 そんな私の前に、智歩は再び現れた。

 

 彼女は変わっていた。自身の夢について思い悩み、葛藤し、それでも空元気で振舞おうとしていた。

 私のことも忘れていた。10年前に1日会っただけの人のことなど、覚えていなくて当然だ。

 

 でも、私に向ける笑顔だけは、あの時と変わらなかった。

 抜け殻だった私にも、彼女は光を見出してくれた。


 私は欲を張った。あの時のように、もう一度私を導いてほしいと。はじめて会った時のように、はじめて会う相手として、再び私の太陽になってほしいと。


 とても身勝手な願いだったが、彼女は応えてくれた。


 それからすぐに、私は己の空虚さを自覚させられた。その滑稽さに、そして何より、目の前の智歩から向けられた憧れを裏切るような醜態に、10年間折れなかった私の心は砕かれそうになった。それでも智歩は、私を引っ張り上げてくれた。


 智歩はいつまでも、私の太陽でいてくれた。



    ◇

 

 

 意識が遠のいていく中で、智歩との思い出が浮かび上がった。

 これが走馬灯というものなのだろうか。

 


 こうして振り返ると、私は本当に恵まれていた。もう思い残すことはない。


 それに引き換え、智歩は私のせいで苦しみ、危険に晒された。であれば、私はこれ以上、彼女の隣にいるべきではない。

 

 もちろん、夢を叶えられなかったのは心残りだ。ダンスが大好きで、パフォーマンスで誰かの希望になりたいこと自体は本心だ。


 それでも、私は二度も奇跡に立ち会えた。それで十分だ。



――意識が混沌に飲まれていく。


 眼をつむったときの闇とは違う、どろどろとした黒い渦のような世界。

 その渦の流れに、私の意識が混ざっていく。ゆりかごのように揺られるように気持ちがいい。


 思考が重たくなってくる。意識の底から、言語化できない解放感が広がっていく。

 世界から色が消えていく。何もかもが黒く塗りつぶされていく。

 


――菜調さんっ!!!


 

 何かが聞こえた気がした。

 気のせいだろう。私の周りには、どこまでも闇が広がっているだけ……



――言ったじゃないですかっ!絶対に夢を諦めないって!



 どこかに暖かい存在を感じた。

 でも、熱源なんてどこにも視えない……


 

――私と一緒に、夢を叶えてくださいっ!!!



     ◇



 目を開けると、そこは黒い混沌の世界ではなかった。

 

 視界の中心にいたのは、智歩だった。

 銀色の髪も、私と近いクリーム色の肌も、潤んだ金色の瞳も、確かにそこにあった。

 

 私の右手は、智歩の手を握っていた。暖かくて柔らかい感触が、間違いなく存在した。


「なつ……き……さん……?」

「ちほ…………!」

 

 智歩の顔がくしゃくしゃになっていた。

 

 私は我慢できずに、寝ていた上半身を起こして、智歩に抱き着いた。

 智歩も、両腕を広げて私を受け入れた。


「菜調さぁぁんっ!良かったぁぁぁっ!!!」

「智歩ぉっ!!!!!」

「私……やっぱり菜調さんと一緒に夢を叶えたいですっ!!!」


 

――あぁ、私は本当に、幸せだ。



 第7章 希望の日差し 完

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