邂逅

 「わぁっ!すごいダンスだぁっ!」


 背後から声がした。

 透き通るように綺麗で、それでいて弾けるように元気だった。


「え、だ、だれ…………なに……」

 

 

 恐る恐る振り返ると、少女が2本の脚で立っていた。

 彼女はセミロングの銀髪を風に揺らしながら、明るい笑みを浮かべていた。


 暗闇で生きていた私には、その光はあまりにも眩しかった。

 

 少女と目線があった。まっすぐな視線を向ける金色に瞳は、きらきらと輝いていた。


 それが、私には恐怖として映った。そもそも、私は他人と関わるのが嫌いだ。喋るのは苦手だし、私に好意を向けてくれる人もこの世に存在しない。誰かと話して、良い思い出ができた試しがないのだ。ましてや、相手は2本脚の知らない少女だ。


 私がパニックを起こしていると、少女が口を動かそうとした。


「今の動き、すごいカッコよかっ」

「ひぇぇっ!」


 彼女が言葉を発した瞬間に、私は声を荒げて逃げ出した。もはや彼女の話の内容などは関係なかった。何か音が聞こえたら逃げるという、野生動物のような単純な反応だ。


 ワニが四足で歩くように、私は両手を地面につけて這いながら、蛇体をうねらせて土管の中に駆けこんだ。


 ごつん。


 慌てるあまり、土管の天井に頭をぶつけてしまった。鈍い音を伴った痛みが、混乱に拍車をかけた。私の息ははぁはぁと乱れていて、長い舌も出しっぱなしになっていた。


 そのまま私は、暗くてじめじめした空間の中でうずくまった。土管から蛇体がちょろりとはみ出していたが、それをしまうことさえ忘れていた。


 真っ暗な土管の中でじっとして、1分ほどの時間が経つのを待った。眼をぎゅっと瞑って、涙が出るのをせき止めた。

 気分も少しずつ落ち着いてきて、乱れた呼吸も安定してきた。

 人の声は聞こえず、セミの鳴き声だけが土管越しに響いてくるようになった。


 これだけ時間がたてば、あの少女も流石にいなくなっているだろう。

 そう期待しながら、おそるおそる土管から顔を出した。


 ダムの放水のように、太陽のまばゆい光が視界に溢れ出した。眩しくて、思わず眼を細くした。


 そして、視界の中心では、銀髪の少女がちょこんと座っていた。

 再び彼女と目が合う。それに気づいた彼女は、にこっと笑いかけてきた。


「ひゃぁっ!」


 私は何かを考える間もなく、慌てて頭をひっこめようとした。しかし、土管の口に後頭部をぶつけてしまう。


「いでっ」


 私は眼を回しながら、その場で倒れた。

 土管の目の前の地面には雨水が溜まっていたところに、私は頭から倒れこんだのだ。べちゃんと情けない音が小さく響いて、泥の水しぶきが跳ねた。


「えっ!?大丈夫っ!?」


 少女が白いワンピースを揺らしながら駆け寄ってくる。彼女が近づくたびに、その2本の脚がとんとんと音を立てる。足音と呼ばれるそれが、少しずつ大きくなっていく。


 彼女はドロドロの地面にクリーム色の膝をつけると、両手で私の肩を掴んで、ゆっくりと持ち上げた。その手のひらはふにふにと柔らかくて、ほのかに暖かかった。彼女が纏う白いワンピースのフリルが泥水につかっていたが、少女はそれを気にも留めていなかった。


「大丈夫!?ケガはないっ!?」

「……平気」

 

 私は拙い返事をしながら姿勢を安定させると、再び土管の中に頭をひっこめようとした。

 すると、少女の眉間からしわが消えた。彼女は泥に膝をつけたまま、深く息を吐いた。

 

「よかったぁ……。えっと、ごめんなさいっ!急に話しかけられても、びっくりするよね……」


 それを聞いた私は、不思議と土管に引っ込むのを止めた。土管から上半身だけが這い出た姿勢のまま、太陽に照らされた彼女の顔を見上げた。しかし、他人の顔を見ることに慣れなかった私は、すぐにぷいと横を向いてしまった。

 

「いや、私が悪い」

「ううん、怖かったよね。……あっ、お顔が泥だらけだよっ!」

 

 少女は右手でハンカチを取り出すと、膝立ちのまま身を乗り出して、私の顔を優しく拭った。私は目をつぶりながら、顔がふかふかの布地に撫でられるのを無抵抗に受け止めていた。くすぐったくて、でも、心地いい。


「よしっ!綺麗になったっ!」


 布の感触がなくなったのを感じて目をゆっくり開くと、少女が自分と同じ目線で笑っていた。


「……ありがとう」

「えへへ、どういたしましてっ」

「……服」


 茶色に染まった少女のフリルに目をやると、少女もそれに気づいて口をあんぐりと開けた。彼女はすっと立ち上がると、手でぱんぱんと服や膝の汚れを払い始めた。


「やっば。今日はショートパンツにすれば良かったな……」

「ごめんなさい……」

「へーきへーきっ!そんな謝らなくて大丈夫だよっ!別にキミの敵とかじゃないしさっ」


 少女は何も気にしていないように、からっとした態度をしていた。それを直視できずに、私はもじもじと下を向いていた。こういう時にどんな態度をとればいいのか、私は知らなかった。


 すると、少女が再び口を開いた。

 

「さっきのダンス、すごいカッコ良かったよっ!」

「えっ!?」

 

 私の思考が、一瞬固まった。

 彼女の言葉が信じられなかった。現実のものとして脳が受け入れなかった。


 思わず顔を上げると、少女が銀髪を風にたなびかせながら笑っていた。頭上に浮かぶ夏の太陽よりも眩しかった。見ているだけで、眼が焦げてしまいそうだ。それでも、私はその笑顔から目を離せなかった。


「あれってダンスだよね?迫力があって思わず見入っちゃったっ!あんなことできるなんて凄いよっ!」

「えっ、あ、あ……」


 脳の処理が追い付かなくて、セミの鳴き声が聞こえなくなった。心臓の鼓動がどんどん早くなっていた。顔を真っ赤にしながら、何も言えずに少女の顔を見つめてると、少女はにっと口角を上げた。ますます何をすれば良いのかわからなくなり、目が回ってきた。


 すると、代わりに”ぐぅぅ”と腹が鳴る音がした。少女の方からだった。

 彼女は赤面しながら、お腹を押さえた。


「ごめん、お腹すいちゃった……」

 

 空を見上げると、太陽はずいぶん高いところまで登っている。そろそろお昼時なのだろう。

 それを意識した途端、私の蛇体にある大きい胃袋もぎゅるぎゅると音を出した。そういえば、昨日の昼から何も口にしていない。


「もしかしてキミも?」

「……うん」

「もうお昼の時間だもんね。一緒に何か食べよっか」

「え、あ、うん……」


 私が中途半端な返事をしている間に、少女は私に背を向けて、空地の外に歩き出していた。

 私も慌ててそれに続くと、少女は足を止めて、こちらに振り向いた。


「そういえば自己紹介してなかったね。私は”智歩”!小学5年生だよっ。キミのお名前は?」

「…………もか」

「よろしくねっ、モカちゃん!じゃあ行こうかっ!」

「……うん、智歩お姉ちゃんっ」

 

 無意識の内に智歩お姉ちゃんの右手をぎゅっと握りながら、私は彼女の少し後ろに続いた。

 ふと顔を上げれば、真っ青に澄み渡った空の中心で、太陽が煌々と輝いていた。



    ◇



 智歩お姉ちゃんに連れられて近所のコンビニにやってきた私は、店の近くにあるベンチに、ちょこんと座っていた。


 自分の食べ物を選ぶのは智歩お姉ちゃんに任せて、自分は場所取りをすることを申し出たのだ。というのも、私には特に食べたいものがなかった……というより、食べものの味に興味がなかったのだ。自分にとって食事とは、家族やクラスメイトと顔を合わせることを強制される時間でしかなく、味に意識を向ける余裕などなかったのである。

 

 誰かに奪われないようにベンチにぎゅっと巻き付きながら、私は空を見上げていた。

 

 智歩お姉ちゃんという人物の存在が、私には未だに信じられなかった。今までにも、自分の味方のように振舞ってくれる人には出会ったことがあった。しかし、心を許そうとして自分の夢について語ると、彼らは決まって私から距離をとった。結局、私の味方なんてどこにも存在しないはずだ。

 

 びゅうと強い風が吹き、私の黒い髪がばたばたとはためいた。ふと、風が吹く方向を見やった。そこには人1人分のスペースが開いており、ベンチの隙間を風が抜けていった。

 

「モカちゃん、お待たせ~っ!」


 何もない空間を眺めていると、反対側から元気な声が聞こえてきた。

 間違いない、智歩お姉ちゃんだった。

 

「智歩お姉ちゃんっ!」

 

 私は勢いよく振り向いた。智歩お姉ちゃんが私の隣に座ると、私は思わず肩を彼女にぴったりと付けた。

 1学年上の彼女はにこにこと穏やかに笑いながら、レジ袋からパンを取り出した。2つの見慣れない菓子パンだった。1つは丸くて、もう1つはフランスパンのように細長い。


「私のイチオシのパンだよっ!……まぁ、食通の友達の受け売りなんだけどね。好きな方選んでいいよ!」

「お金は?」

「値段は気にしないでいいよ。私のおごり!すごいダンス見せてもらったもん、そのお代だよ!」

「……じゃあ、まるいの」

「クイニーサンドね!どうぞ!」

「く、くい……?」

「聞いたことないかもしれないけど美味しいよ!ほら食べて食べてっ」


 わけのわからないまま丸いパンにかじりつくと、濃厚な甘さが口の中で溢れだした。

 今まで食事の味に関心が向かなかった私にとっては、新鮮とすら言える体験だった。

 

「どう?外は軽くてサクサク、中はこってりした練乳クリーム!病みつきになるでしょ?」

「おいしい……」

「でしょでしょ!?……では、私も食べますか」


 彼女は小さい手で大根のようなパンを握りしめ、キラキラと目を輝かせていた。


「やっぱり大きいなぁ、蛇人さんの食べ物っ!」

「……そうなの?」

「私たちが普段食べるのは、これの半分以下のサイズなんだ。やっぱり身体のサイズが違うもんね」

「へぇ」

「だからこんなに大きいパンにかぶりつくのは、ずっと憧れだったんだ~。じゃあ、いただきますっ!」


 彼女は大口を開けてパンにかじりつくと、うっとりと目を細めた。


「ん~、幸せ~。朝ごはん抜いた甲斐があったよ。サイズが大きくても美味しさは変わらないんだね~」

 

 おいしそうにパンを食べる彼女の様子は、自分の食欲も刺激してきた。

 私も自分のパンにかじりつく。彼女が語るように、相反するような生地とクリームの合わせ技が絶妙だ。普段は出さないようにしている舌も伸ばして、味や香り、触感を存分に楽しんだ。


 食事って、こんなに素敵なものだったんだ。

 

 自分には、誰かと食事を楽しむ権利なんてないと思っていた。口から毒が出る私は、食事の時には特に周りから避けられていた。私の息が触れただけで食べ物が腐ると本気で思っている人もいた。給食当番をするだけで白い目を向けられるほどだった。

 

 そんな私の隣で、1人の少女がおいしそうに食事をしている。彼女の私の毒を知ったら、他の人と同じような態度をするのかもしれない。だとしても、今のこの時間は、私にとってかけがえのないものだった。私は夢中でパンを平らげた。


「……ごちそうさま。その、ありがとう、智歩お姉ちゃん」


 

    ◇

 

 

 智歩お姉ちゃんはパンを食べ終えると、私に話しかけてきた。

 

「モカちゃんってさ、どんな風にダンスの練習しているの?」

「えっと……に、人魚さんの……え……」

「え、人形?」

「…………これ」


 言葉をまとめられなかった私は、代わりに一冊のノートをカバンから出した。表紙には、”算数”と書かれている。


「算数ノート?」

「見て」

 

 そのノートの最初の数ページは、本来の用途通り算数の問題を解くのに使われている。でも、それは親に見つからないためのカモフラージュ。その正体は、私のダンスの勉強や練習成果を記録した大切なノートだ。もちろん、他人に見せるのはこれが初めてだ。

 

「凄い、ダンスのことがびっちり細かく書かれてる……。しかも毎日、ものすごい文量が……。待って、表紙に小さく”5”って書いてある!ってことは、これ5冊目なの!?」

「……うん」

「つまり、ずっと昔から、毎日練習を……? 凄いよっ!!!」

「そ、そうなの!?智歩お姉ちゃん……」

「そうだよっ!憧れるなぁ~、私は物事が長続きしないタイプだからさぁ。じゃあ、やっぱりプロのダンサー目指してるの!?」


 私は思わず頷き、肯定しそうになった。しかし、すんでのところで理性を取り戻し、口を閉じた。


「う、う……いや、なんでもない……」

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