スコールと決断
~東京~
智歩は、車の後部座席に座っていた。隣に座っているのは、芸能界の大物であり師でもある、嶋田プロデューサーだ。
車内にはタクシーのようなにおいが充満していて、座席には丁寧にシーツがかけられている。
高級車だからか、あるいは道が舗装されているからか、車内に大きな揺れはない。
彼女から突然「仕事の話がある」と言われ、智歩は彼女の車に乗っていた。
今まで、嶋田から夜間に話したいと言われる度に、自分の人生は大きく動いてきた。
今日こうして呼び出されたのも、大きな仕事の話なのだろう。そう考えると、緊張で身体が震えだす。それに呼応するように、車が均一で規則的に揺れる。
だが、こんな所で根を上げるわけにはいかない。この先、もっと緊張する場面、より困難な状況がいくつも待ち受けるはずだ。それでも、私は喰らいつかなければならない。親友からの誘いを断ってでも、私は成長しなければならない。
一刻も早く、立派なプロデューサーにならなきゃいけないから。
「ごめんなさいね、マムシの子のプロデュースもあるのに、ずっと東京にいてもらって」
「……大丈夫です。辞めることにしました。菜調さんのプロデュース」
「あら、どうして?」
「私がやるべきじゃないんです」
そう、私には菜調さんを直接プロデュースする資格はない。
あんな酷いことを言ったんだ。きっと彼女も、私のことは許さないだろう。当然の報いだ。
だから、私は業界に強い影響力を持てるような、立派なプロデューサーになる。
そして、菜調さんのことを遠くからサポートするんだ。
それが、私にできる唯一のことなんだ。
智歩が黙って気持ちを整理している間、嶋田は静かに待っていた。
しばらく無言が続く中で、車が止まる。ネオンのまばゆい光が、窓から漏れだしてくる。
その中で、嶋田はゆっくりと口を開いた。
「良かった、高崎さんもやっと理解したようね」
仏のように穏やかな声。そこに、智歩は強烈な違和感を感じた。身体の細胞が、危険信号を出していた。
窓にぽつぽつと水の波紋がにじみだし、ネオンの光が歪み始めた。こんこんと雨粒が車体に触れる音が響いた。
「ど、どういうことですか……?」
「私にそれを言わせるの?意地が悪いわね、高崎さん」
「え……?」
「いいのよ高崎さん。この際、私の口からはっきりと言うべきだわ」
嶋田が何を言っているのかがわからない。でも、わかりたくないような気がする。
止まっていた車が動き出す。窓には粉をまぶしたように無数の雨粒が貼りついていて、外の景色は朧げにしか見えない。その向こう側で、ぼやけたネオンの光が次々と、前から後ろへと流れていく。
智歩は無意識に、シートベルトをぎゅっと握りしめた。
「あのマムシのパフォーマーは、成功しない」
へ?
頭の中が真っ白になった。
思考が、理解が、ぴたりと止まった。その瞬間は、息をすることさえ忘れた。
世界が止まった中で、赤や青や緑のネオンだけが、壊れた液晶のように背後でちらちら光っていた。
「パフォーマンスが危険な分、諸々のリスクがつきまとう。その上に新しいジャンルだから前例もない。成功の保証がどこにあるの。そんな博打に構うなんて、馬鹿馬鹿しいわ」
「そんなの、まだやってもないのに……」
「わかるわよ。私がどれだけの成功者と失敗者を見たと思っているの。マムシの子は失敗する。間違いないわ」
「何なんですか!菜調さんに謝ってくださいっ!」
「あら、彼女には感謝してるわよ。ああいう身をわきまえない有象無象が溢れているからこそ、一握りのスターの価値が高まるの」
嶋田は熱しても冷めてもない、それこそ雑談をするような態度で、つらつらと語っていく。だけども、赤い瞳は真剣な眼差しを送っていて、とても冗談を言っている雰囲気ではない。そんな彼女とは対照的に、智歩は蛇を前にしたネズミのように震えていた。目線はふらふらと安定せず、言葉は思うように出なかった。
「私の手でスターを送り出す、それが私の夢。だから私の事務所では、できるだけ私がタレントの面倒を見る。そうするとリソースが限られるでしょ?だから、有象無象に構っている暇はない。”確実に成功させられる人”を選ばなきゃいけないの」
「さっきから何を言ってるんですか!」
「タレントに一定の資質があれば、後は私たちの工作で成功へと導ける。残念ながら、マムシのあの子にはそれが無かったけど」
「工作……!?」
「ええ。貴女の想像しているとおりよ」
無意識に、智歩は嶋田から物理的に離れようとして、身体を横にずらそうとする。それと同時に、嶋田の蛇体が智歩の腰に巻き付いた。瞬きする間に、それは成し遂げられた。全身の体液が絞られそうな圧迫感を覚え、息が苦しくなる。
「勘違いしないでちょうだい。私の夢は”あらゆる分野のスターを送り出す”こと。そのためなら手段は問わない。――いや、手段を択んだら実現できないわ」
嶋田は拘束を解かない。それどころか、蛇体をぐるぐると螺旋状に伸ばし、さらにもう1周巻き付こうとする。
尻尾の先端に腹部を撫でられる感触に、寒気を覚える。
「それに、彼女は毒蛇よ」
「そ、それが何か関係……」
「大カリよ。大昔、毒を持つ蛇人は不浄の存在として差別されていたの。さすがに現代では表立った差別は消えたけれど、人々の認識にはいまだに偏見が根付いているのよ。――確かに、他所の種族の人からすれば、差別なんてないように見えるのかもしれないわね」
智歩は愕然とした。
全く知らなかった。菜調さんは、そんなこと一度も話さなかった。差別に苦しむような素振りを、彼女は一切見せなかった。
彼女は自分の知らないところで苦しんでいたのだろう。やはり自分はプロデューサー失格だ。
智歩は自分に怒りを向けるが、その感情は嶋田の言葉に上書きされた。
「あの子も間抜けね。自分が毒蛇だとわかっていながら危険なパフォーマンスをするなんて。けが人でも出した日には、この社会で生きていけなくなるわ。パフォーマーなんて止めろと言ってくれる人がいれば良かったのにね」
「そ、そんなの酷いです!菜調さんは優しくて……いや、菜調さんだけじゃないですっ!毒を持っている人が悪者なんてありえません!」
「私自身は毒蛇への恨みはないわ。でも、世間は想像以上に寛容じゃない。だから、わざわざ彼女を選ぶ選択肢はあり得ないわ。もちろん、毒蛇の芸能人だって存在する。けれど、無毒の蛇人よりも余計なリスクを抱えるのは確実なの。だから、ウチの事務所ではリスクは取りたくないの」
「それは結局、嶋田さんも差別してるじゃないですかっ!そんな人間が、誰かに夢を与えるなんておかしいですっ!」
智歩は怒りで頭に血が上っていた。興奮による熱と恐怖による寒気に同時に襲われて、風邪をひいた時のように混沌とした気分になっていた。一方の嶋田は一切の動揺を見せず、 真顔でこう言い放った。
「私は夢のためなら、なんだって捨てる。スターへの憧れも、人としての良識も」
嶋田の気迫と下腹部の圧迫感に対して、智歩は震えることしかできなかった。
車の振動すら感じなくなった。目の前の恐怖に、全ての感覚が掌握されそうになっていた。
その姿に見かねたからか、嶋田は智歩の拘束を解いた。智歩は物理的な圧迫感から解放され、気のせいか車内の空間も少し広くなったような気がした。
嶋田はそれまでも冷たい表情が嘘であるかのように、穏やかに口角を上げた。
「そこで、貴女の出番なの。私が諦めた、健全でピュアなプロデューサー・タレントとして振る舞い、沢山の人に夢を与えていくの。ただし、カメラの裏側ではシビアな判断もしてもらう必要がある。だから、敢えて厳しいことを言ったの。ね、高崎さん、わかるわよね?」
嶋田は”あまりにも”自然な笑みを浮かべたまま、智歩に右手を差し出した。
その振る舞いが、智歩の恐怖心をより一層かきたてた。
「なりたいんでしょ?沢山の人に元気を与える、輝くような存在に」
丁度、車が信号で停止した。
それに合図されたかのように、智歩は目線を車両のフロントガラスに向けた。ワイパーが動く隙間から、外の景色がうかがえた。
車は十字路に差し掛かっていた。左の様子はわからないが、右には蛍光灯で彩られたビル群。直進したすぐ先には、駅のロータリーがあった。その3つの方向の間を、ワイパーがいったりきたりしていた。
だが、智歩の決心は1本の硬い線で結ばれていた。智歩は拳をぎゅっと握りしめ、ふらついていた視線を嶋田に集中させた。
「ごめんなさい、貴女の夢には協力できません」
嶋田は表情を変えなかった。口角も上げたままだった。彼女の赤い視線だけが、ぐっと強くなったような気がした。
智歩は
「私は菜調さんが大好きです。そして、全力で夢を追っている人たちが大好きです。その人たちを蔑ろにするような真似は、私にはできません」
嶋田はぱちりと瞬きすると、笑顔を維持したまま、諭すような声で応えた。
「その考えは甘いわよ、高崎さん。この業界に、取捨選択は必ず発生するわ。オーディション、大会、演者の選定……それはすべて、一握りの夢を認めて、それ以外を否定する行為なの。誰かが夢に近づけば、他の誰かが夢から遠ざかる。それが現実よ」
「そのことは私もわかっています」
「じゃあ、何が問題なの?」
「オーディションも大会も、誰かの夢を侮辱するためのものじゃありませんっ!参加者全員にリスペクトを払った上で、苦渋の選択をするんですっ!でも、貴女は違うっ!貴女は自分の夢以外は、どうでも良いと思っているっ!そんな人の夢は、私には応援できないっ!」
嶋田は微動だにしなかった。2人の視線がぶつかり合ったまま、数秒が経過した。
車はいまだ止まったままで、大雨が絶えず降り注ぐ音だけが、車内に響き渡った。
「嶋田さん、今日の話は何も聞かなかったことにします。今後は私の力で、
智歩は震えを抑えながら嶋田に深々とお辞儀した後、自分の荷物に手をかけた。そして、扉を開けて、車を降りようとした。
が、脚を動かせなかった。
そこから瞬きしない間に、腰が締め付けられた。
ペンすら持てなくなりそうなほどに、全身が強く震えだした。振動で上下の歯がぶつかり、かちゃかちゃと音を立てた。
糸で引っ張られるように、無意識に首を右側に――嶋田の方向に向けた。
嶋田は真顔だった。
一切の感情が読み取れないような表情だった。
次の瞬間、額に細い金属筒が突きつけられた。
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