灰色ランチタイム

 はじめて嶋田の事務所を訪れてから、3日が経過した。

 あっという間であった。


 5時に起床し、数時間かけて東京へ。午前はプロデューサーのノウハウを学び、午後はタレントとしての振る舞いを習得する。スマートフォンで菜調のプロデュース業を片付けながら帰宅して、泥のように眠る。そんな生活が、3日ほど続いていた。


 芸能事務所の活動は長時間にわたるが、給料が出る。だから菜調の地元でのアルバイトも休止して、一日の大半を東京での研鑽に当てることができた。あまりにも忙しくて、もはや悲鳴をあげるタイミングすら無いほどだ。それでも、智歩は必死に食らいついた。

 

 その中で唯一の息抜きと言えたのが、お昼休みの時間だ。


 智歩は事務所近くにある、広々とした屋外の飲食スペースに腰かけていた。

 

 そこで、智歩はPCの液晶画面を見つめていた。

 画面には、青髪の女性が映し出される。青い瞳に浮かぶ細い瞳孔、口元から時折見える鋭い牙。画面越しであっても、彼女と相対している時は自然と肩が降りる。


 イヤホンとマイクをセットアップ。マイクテストで環境音が入り込んでいないことを確認してから、智歩は端末に喋りかける。


「こんにちはっ!菜調さん」

「今日も元気そうだな、智歩」

「はいっ!ごめんなさいね、忙しくて直接会えない日が続いてしまって」

「私は構わない。智歩の顔が見られれば十分だ」


 最近は、プロデューサーとしての菜調さんとの話し合いをビデオ通話で行っている。いわゆるリモートワークというやつである。はじめてビデオ通話をした時には、画面越しでしか顔を合わせられないことに違和感を感じていた。なにしろ、8月中には一日も欠かすことなく菜調さんと会っていたのだ。しかし、それが3日も続けば、流石に慣れてくる。


「智歩、東京での”プロデューサーの勉強”は順調か?」

「はいっ、頑張ってます。大変ですけれど、菜調さんのためだと思えばへっちゃらですっ」

「そう言ってもらえるのは嬉しいな。ただ、無理はするなよ」

「は、はい……」

 

 菜調さんには、タレントとしての活動を計画していることを黙っていた。彼女に余計な心配をかけたくないからだ。


 私がタレントデビューするという異様な情報は、脳内のリソースを大きく食いつぶすだろう。菜調さんはそんなことに向き合わず、自分の活動だけに集中してほしい。それに、彼女は『私のプロデュースの時間を削って智歩自身の研鑽に時間を当ててくれ』だなんて言われるのも不本意だ。

 

 もちろん、タレント活動の準備が進むにつれて、菜調さんに伝えなければいけない時が来るだろう。菜調さん自身も、様々なメディアに出るべく準備することになるかもしれない。でも、今タレント活動について伝える必要はないだろう。


「では菜調さん、時間もないですしパフォーマー活動の話を始めましょうっ」

「そうだな」

「まず、再来週のイベントについてですが、今朝メールで送った資料は見ていただけましたか?」

「ああ。よくできていた」

「ありがとうございます。では、資料の通り、菜調さんには来週に……」

 

 智歩は、ぱきぱきとした段取りで、プロデューサーとしての連絡事項を菜調に伝える。

 菜調と会話ができるのは、昼休みの30分~1時間だけだ。レッスンが終わって家に帰る頃には深夜だから、昼休みしか適切なタイミングがないのだ。そのため、限られた時間を有効に使わなければという意識が強く働く。

 

 ただ、実際のプロデューサー活動に大きな支障は発生していなかった。


 そもそも、菜調の家に入り浸っていた時も、別に四六時中議論してたわけではないのだ。菜調さんは基本外でトレーニングしていたし、自分も基本は1人で作業に当たっていた。彼女が家にいる時も、一緒にお昼ご飯を作ったり、雑談しながら意味もなく菜調の蛇体を触ったりしていただけだった。だから、菜調と腰を据えて話せる時間が限られても、プロデューサーとしてできることが大きく減ったわけではなかった。

 むしろ、活動にメリハリがついて良いとすら言える。ぐだぐだとパフォーマーの家に居座り、思い付きで話しかけるなんて、本職の現場ではありえない光景のはずだ。私はプロになるんだ、意識を変えなければならない。


「……では、来週からこの方針で行きましょうっ。よろしくお願いしますっ」

 

 プロデューサーとパフォーマーとしての2人の会議は、トラブルなく終了した。

 満足げににこにこ笑う智歩に、菜調が何か言いたげな視線を向ける。


「どうしたんですか菜調さん、さっきの話で何か気になる点があったんですか?」

「いや、そうじゃないんだ。ただ……智歩、やっぱり無理してないか?――今日の資料、本当によくできていた。忙しいはずなのに、いつ作ったんだ」

 「全然平気ですよっ!菜調さんのプロデュースをしている時は夢中ですからっ!菜調さんの夢を叶えるためには何でもしますっ!」

 

 智歩は口角をぐにっと上げて、満面の笑顔を画面上の菜調に見せた。菜調もそれを見て、穏やかに口角を小さく上げる。

 

 いつまでも浸っていたい、幸せな時間だった。

 だが、智歩の脳裏に、1つの不安がよぎった。


 ――違う。菜調さんの夢は私の夢じゃないんだ。

 それなのに、私は未だに菜調さんに依存している。これじゃあダメなんだ。


 外気は快適な暖かさなのに、ぞくぞくとした寒気が背筋に這いよる。

 表情がずんずんと暗くなり、思わず顔を画面から反らす。

 

「智歩、大丈夫か?」

「ええと……大丈夫ですっ。その……菜調さん、頑張ってくださいねっ」


 智歩は菜月の返事を待たずに、乱暴にノートパソコンを閉じた。

 ばたん、という音とともに、イヤホン越しに聞こえていた菜調の声がシャットアウト。その代わりに、秋の風がびゅうびゅうと吹きすさぶ音が聞こえてきた。


 智歩はその音をかき消すかのように、大きくため息をつく。

 パソコンをカバンにしまい、顔を上げる。パラソルの隙間から空を仰げば、曇天。灰色の雲が何層にも重なって、太陽を覆い隠している。 どれだけ天上を見上げても、眼が全く眩しくならない。

 

 片手にサンドウィッチを握りながらも、それに口をつけるのも忘れて、ぼんやりと空を見ていた。

 別に、空に何かがあるわけではない。空一面が灰色に染まっていたから、面白い形の雲が見つかるようなこともない。


 そのまま、何分か経過した。


 そんな智歩の背後から、金髪の女性が忍び寄っていた。

 彼女は智歩よりも若干小柄な体をかがめながら、ちょこちょこと1歩ずつ、無音ながらも軽快に脚を出す。


 女性は智歩の背中に触れる寸前のところまで到達。彼女のくりくりした黄色い眼が、智歩の右手に握られた分厚いサンドウィッチを捉える。


 そして、女性はぐいっと顔を前に乗り出して、智歩の握ったパンにぱくりと食らいついた。


 

    ◇

 

 

 ”ばさばさっ”と鳥が羽ばたく音が、智歩の耳元で響いた。

 それも、数歩先でハトやカラスが飛んだ時のような小さい音ではない。翼の動きを脳内で描けるほどに、その音はくっきりと聞こえた。

 刹那、強い風が顔に直撃して、智歩は目をつぶる。

 

 風が止んで目を開けると、反射的に自らの右手を見た。

 ――ない。右手に持っていたサンドウィッチが。ふかふかしたパンの感触の代わりに、右手は涼しい空気をかすめていた。


 足元を見ると、灰色のふわふわとした羽毛が舞っていた。


 自分の身に何が起こったか、智歩は確信。

 同様で丸くなっていた眼が半開きとなり、はぁ、とため息をつく。


 智歩はきょろきょろと周囲を見渡し、犯人が潜伏してるであろう”大きな街路樹”を探す。そして、飲み物を片手で握りしめながら、すたすたと大木に向かって歩く。


 民家の3階まで届きそうなほど高く、縦だけでなく横にも枝を伸ばしている、大きな銀杏の木。

 近くまでたどり着くと、そこから伸びる太い枝に眼をやる。


 そこには、金色の長髪の女性が腰かけていた。顔や胴の見た目はいわゆる”人体”のそれだ。

 しかし、彼女の肩から伸びるのは腕ではなく、灰色の大きな翼。彼女は”翼人”だ。地域によっては”ハーピー”と呼ぶらしい。

 

 彼女は翼の先端、いわゆる手羽先の位置から伸びた黄色い爪で、サンドウィッチを鷲掴みにしていた。彼女は口の周りのソースをつけながらもぐもぐと咀嚼し、うっとりした表情を浮かべながら左の翼で頬をさすっている。


 一見ほほえましい光景だが、彼女が食べているのは他人から盗んだパンだ。智歩は再度ため息をつくと、顔を上げて翼人を見やった。

 

「……久しぶりですね、ユリカさん」

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