第6章 月

夜道、ネオンの輝き

2025年9月1日(月) 快晴


 大学卒業後の進路に迷っていた私は、田舎町の神社の後継者である青井将晴さんと出会った。

 彼は崖を登る儀式を観光資源にするべく、プロデュースを私に依頼した。最初は不安だったけど、取り組んでいる内にどんどん夢中に。結果的に、青井さんのプロデュースは大成功。そして、プロデューサーとしての活動に自信を持つことができた!

 そんな中、以前お世話になった有名プロデューサーの嶋田さんから連絡が――。

 

 

     ◇


 

 夜8時。智歩は1人で、東京のビル街を歩いていた。はじめて履いたハイヒールがアスファルトの床をつついて、”こつんこつん”と音を立てる度に、自然と背筋がまっすぐになる。

 星々に届かんとするような高層ビルたちが、無機質にこちらを見下ろしている。つい先日に見た大自然の岸壁とはまた違った、洗練された迫力だ。


 今日、智歩は嶋田プロデューサーから呼び出しを受けて、電車で数時間かけて東京に出向いていた。なお、要件は現地で話すとのことだ。

 業界の大物から直々に声がかかったという事実が、”来るとこまで来た”という実感を強める。ハイヒールでなければスキップしたくなるような気分だ。

 

 赤信号。漆器みたいな黒い車が横切る前で、智歩は足を止める。

 ポケットから端末を取り出し、SNSを眺めた。


――この前に見た路上パフォーマンス、ヤバかった!確か”菜調”って名前だったはず。

――今すごい注目されてるよね、”菜調”。『新蛇祭』の優勝候補かもよ!


――まさか蛇体であんな動きができるとは思いませんでした。学校で友達と真似してみます!

――夢を追う姿勢に元気をもらいました。自分も菜調さんみたいに頑張りたいです!


 菜調さんへの注目、そして応援のコメントだ。

 その1つ1つを読むたびに、身体がぽかぽかと暖かくなる。全部を声に出して読み上げたくなるほどだ。

 

 自分が彼女に関わり始めた時には殆ど存在しなかったものが、今では画面に収まりきらないほど溢れている。画面を指でスクロールするたび、感慨深さで指が震えそうだ。


 菜調さんの夢を叶えるべく全身全霊で活動して、夢に一歩ずつ近づけている。そして、菜調さんと自分の努力が、沢山の人の背中を押している。

 これが、私が見たかった景色。


 私は今、輝いているっ!。

 

 

 ぴぴぴ、と頭上から音が流れる。信号が、青に変わったようだ。

 

 端末をポケットにしまうと、力強く顔を前に向ける。

 目の前に広がる道の両脇には、どこまでも連なるビルの壁。そこから溢れる長方形の光が、曇り空で隠れた星々の代わりに、夜の道を照らしている。

 

 右足を大きく前に出す。かつんっ、とハイヒールが音を弾きだした。

 


    ◇



 智歩が向かったのは、ビル群の一角にあるバーだった。


 重たい木のドアノブを無駄に力みながら回すと、からんとカウベルが音を立ててドアが開く。それに引っ張られてバランスを崩しそうになったが、両足に力を込めてなんとか踏ん張った。

 

 周りの視線が気になって店内を見渡してみる。橙色の照明に怪しく照らされた店内では、スーツを着た大人達が酒に集中している。その誰もが、こちらには無関心といった様子だ。

 それはそれで少しの疎外感を覚えたが、とりあえずはひと安心。ほっと息を吐く。

 

 紳士的な雰囲気のホールスタッフに名前を伝えると、丁寧なしぐさで座席を案内された。

 

 店内の雰囲気は、非常に落ち着いていた。洒落たジャズのBGMに混ざって、時々グラスがかちゃんと上品な音を立てている。魚1匹のフンで大海が濁ることはないように、自分が慌ただしく入店したことを簡単にかき消してしまうような、”絶対的”な静寂を感じた。


 智歩は店の隅にあるテーブル席で、そわそわしながら嶋田の到着を待った。

 テーブルの向かい側で誰かが自分を見ているわけでもないのに、自ずと背筋が伸びてしまう。

 

 10分ほどが経過した頃、上等なポロシャツに身を包んだ白髪の女性――嶋田さんが現れた。彼女はサングラスで顔を隠しているが、それでもなお圧倒的なオーラが溢れている。もっとも、鱗の模様で正体は簡単にバレそうではあるのだが。

 

 智歩は周りに聞こえないよう小さく、それでいてはきはきした声を出しながら、彼女に小さく頭を下げた。


「嶋田さん、お疲れ様ですっ」


 嶋田は席に座り、テーブルの下に長い蛇体をしまい込む。彼女はサングラスを片手で外し、しわがかかった目を見せて笑った。


「高崎さん、久しぶりね。元気そうで良かったわ。先日は、神社でのプロデュースもしたんだってね。お疲れ様」

「ありがとうございますっ。……って、どうしてそれを!?」

「ふふ、この世界は意外と狭いのよ。……あぁ、高崎さんも何か頼むと良いわ。もちろん、値段は気にすることないわよ」


 嶋田の細い腕がメニュー表を開き、こちらに向けられた。

 そこにはユニークなフォントで書かれた、全く知らないカクテルの名前が並んでいた。詳しくない分野の学術書を開いた時のような気分だ。

 どうすれば良いのかわからず困り果ててると、向かい側から「大丈夫?険しい顔しちゃって」と優しい声が聞こえてくる。

 どうやら、困っているのが表情に出ていたらしい。眉間にしわでも寄っていたのだろうか。

 

 嶋田はメニューを見やると、「ごめんなさい、これじゃあわからないわよね」と優しく微笑んだ。しかし、それがなんだか子供扱いされているみたいで、少しの恥ずかしさを覚える。ここは大人びた振る舞いをしなければ。

 

「大丈夫です。これにします」


 メニューの一番上に書かれたカタカナの羅列を、びしっと指でさした。

 それが何の酒なのかはわからないが、比較的好き嫌いは少ないし、アルコールにも弱くはない。


 それを見て、嶋田は保護者のように優しく微笑みながら、ホールスタッフに注文を伝えた。

 嶋田には智歩が考えていることは概ねバレてはいたのだが、智歩はそこに気づかず、どこか自慢げに鼻を鳴らしていた。


「……しかし、憧れの嶋田さんにお呼びいただけるなんて光栄ですっ」

「憧れ?……ふふ、嬉しいこと言ってくれるじゃない、高崎さん」

「はいっ。私、嶋田さんみたいなプロデューサーを目指しているのでっ」

「あら、それはどうして?」

「私、全力で夢を追いかけている人が大好きなんですっ。夢を追う姿を見ていると、元気を貰えますから。……だから、”あらゆる分野でスターを輩出する”という夢のために尽力されている嶋田さんは、私にとって理想のプロデューサー像なんですっ。私もいつか、嶋田さんみたいに輝きたいんですっ」


 にこにこと微笑みながら、優しい目つきで嶋田は話を聞いていた。

 

「輝き……ね。確かに、夢を追う人ってキラキラしているもんね」

「わかりますか!?」

「ええ。素敵な志だと思うわ。……あら、お酒が来たみたいね」


 ことん、と音を立てて、ウエイターがテーブルに2つのグラスを置く。

 嶋田が頼んだのは、ルビーのような赤黒いカクテルだ。銀色の腕時計を纏った細い腕がグラスに伸び、ストローで中をかき混ぜる。グラスに詰められた小さな氷が、からからと音を立てながら旋回する。


 嶋田は右手でストローをつまんだまま、顔を前に向けて智歩を見つめた。

 

「それで、高崎さんは今、輝けているの?」

「はいっ。菜調さんと一緒に夢を全力で追いかけられていますっ。」

「……そう」


 嶋田の手が、カクテルをかき回すを止める。

 中の氷がふわっと少し沈むと、”かたん”と音を立てて浮上。そのまま氷は動きを止めた。

 

 朗らかだった彼女の顔が真剣になり、リップで彩られた口が小さく開いた。

 

「今の高崎さんは、輝いているとは言えないわ」

「!?」

 

 その瞬間、全身が固まった。

 骨を舌で舐められたかのような寒気が、つま先から頭頂部までを走り抜ける。

 

 指先もまぶたも、思うように動かない。全身に麻酔を撃ち込まれたかのようだ。

 心臓だけが、どくんどくんと波打っている。その鼓動が、焦燥感に拍車をかける。

 

「私が、輝いていない……?」

「だって、高崎さんがかなえようとしているのは”菜調さんの夢”でしょう?そうじゃなくて、高崎さんの夢はないの?」

「…………思いつかないです」

「そうでしょう?今の貴女は、他人の夢に乗っているだけ」


 菜調さんの夢で、自分の夢ではない――その言葉が、心臓にぐさりと刺さった。


 確かに、私は菜調さんのプロデュースに夢中になった。菜調さんのパフォーマンスを通して、沢山の人を光で照らすことができた。

 でも、それは菜調さんの輝きだ。菜調さんが泥水を啜りながら積み上げてきた努力に、私はちょっと手を添えただけだ。私は輝いていない。菜調さんから

 

 嶋田はテーブルの下で蛇体を滑らかに動かしながら、ストローに口づけ。カクテルグラスの上に浮かぶ紅い水平線が、ゆっくりと下降していく。グラスの中の氷が、からから音を立てながら、グラスの下部に詰まっていく。

 

 彼女はストローから口を離すと、鋭い視線でこちらを指しながら話を続ける。

 

「良い?高崎さん。私もプロデューサーとして、沢山の子の夢を支えてきた。心の底から応援したいと思える夢にも、数えきれないほどど出会った。……でも、それは結局、他人の夢。自分でコントロールできるものじゃない」

「他人の……夢……」

「夢の持ち主が突然あきらめたり、あるいは満足してしまうかもしれない。その時、他人の夢に依存しているだけの貴女はどうするの?新しい”依り代”を探して、また裏切られるのかしら。……それじゃあ、長くは続かないでしょうね。結局、本当に頼れるのは”自分の夢”だけよ。”自分の夢”という強い原動力に突き動かされている人こそ、”輝いている”と言えるんじゃないですか」


 何も反論できなかった。

 嶋田の指摘には、いずれも心当たりがあった。薄々気づいてはいたけど、見て見ぬふりをし続けていた、私の弱さ。


 嶋田の言葉の1つ1つは、狙撃手のようにそこを的確に打ち抜いてくる。

 その度に、ハリボテの”私”が、がしゃん、がしゃんと音を立てて崩れ落ちていく。


 前を見ると、嶋田が平然とした顔でストローに口をつけていた。

 コップの下部にできていたカクテルの水たまりが、静かに吸い上げられていく。

 

 智歩は最後の力を振り絞るようにして、震える口を小さく開いた。

 

「でも、菜調さんは夢をあきらめたりしません。菜調さんは必ず……」

「それも言い訳でしょう?自分自身の夢がなくても大丈夫と言い聞かせるための」


 自分の心をつなぎとめていた、最後のネジが外れる音がした。


 もはや、智歩はただただ震えることしかできなかった。

 何か言葉を返そうにも、自分の言葉に意味を見出せなかった。いや、それ以前に、口が動かなかった。


 いつの間にか、目元に涙がにじんでいた。


 涙で歪む視界の中では、赤いカクテルの最後の一滴が静かに吸い上げられていた。

 からん、と乾いた音が響く。グラスの中には、細かい氷が転がるだけになった。

 

 嶋田は真っ青になっている智歩を見やると、わざとらしく口を大きく開いて、何かに気づいたかのような素振り。

 表情を朗らかなものに戻してから、智歩に穏やかな声をかけた。

 

「ごめんなさい、言いすぎちゃったかしら。高崎さんのことを大切に思ったらつい……。大丈夫?」

「大丈夫です。気にしないでください」


 機械が定型文を出力するように、智歩は反射的な返事を返した。大丈夫なわけがない。


「ほら、飲み物を飲んで落ち着いて」

「はい、ありがとうございます」


 嶋田が差し出したグラスを、智歩は言われるがままに握りしめる。

 グラスの中には、グラデーションがかかったオレンジ色の液体が満ちている。グラスの底は焦げたように黒くて、そこからグラスの上部にかけて色が明るくなっている。

 智歩は虚ろな眼をしたままグラスを持ち上げると、ストローが刺さっているのも忘れて、グラスに直接口をつけた。


 舌に触れたのは、ピリッと辛い刺激だった。

 無意識の内にフルーツジュースのような甘い味を想定していたため、驚いてグラスから口を離してしまった。


 グラス内の液体はほとんど減らなかったが、刺激のお陰で少し頭が覚めた。


「申し訳ありません、嶋田さん。せっかくアドバイスをしていただいたのに……」

「そんな、高崎さんが謝ることないのよ」


 嶋田は優しく微笑みかけるが、依然として智歩の肩は引きつっている。

 お酒の刺激と時間の経過で多少は落ち着いたが、それでも身体は震えたままだ。カクテルに再び手を伸ばす気力もない。


 言葉を詰まらせる地歩を見つめながら、嶋田は再び真剣な表情をする。

 

「高崎さん。”ひたむきに夢を追いかける姿で、周りの人にも元気を与える”――それが、貴女の望みなのよね?」

「はい……おそらく。でも、私は輝けていない……」

「大丈夫よ、”高崎ちゃん”」


 テーブルの下で、冷たい感触が足を撫でた。


 突然おとずれた”それ”に驚いて、智歩は眼を見開く。その時には、脚に触れていたモノは離れていた。

 空気中に晒された智歩の脚には、触れられた感触の余韻だけが残る。


 何かに引っ張られるかのごとく、無意識に視界の焦点をゆっくりと前に合わせる。

 にじんだ視界の中では、嶋田の細い眼が――血のように赤い瞳が、こちらを見つめていた。優しくも、しっかりとした目線だった。


「私が高崎ちゃんを、輝かせてあげる」


 嶋田はじっと赤い瞳を向けながら、口角を上げた。

 それと同時に、テーブルの下から這い出た蛇体が、床に触れていない面で智歩の膝をやさしく撫でた。


 重くて無機質な感触が、”ぴとっ”と太ももに触れた。ズボンの布越しにも、その冷たさは伝わってきた。

 

「私を、輝かせる……?」

「ええ。高崎ちゃん、私の事務所でタレントにならない?」

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