私達のビジョン


 帰りの電車で、智歩はすやすやと寝息を立てていた。その隣――窓際の席に座る菜調は、景色をながめながら物思いにふけっていた。赤く染まった空には、輪郭がはっきりとしない、霞のような白い雲が浮かんでいた。


 『世界中の人の希望になりたい』という自分の夢は、空に浮かぶ雲みたいだ。――何年か前に、空を見上げながら、そんなことを考えたことがあった。顔を上げればいつでも見えるが、いくら身体を伸ばしても触れられない。


 今までは、単純に夢が手が届かないほど高い場所にあるからだと思っていた。夢を追いながら研鑽を重ねていけば、いつかは高みにたどり着けると信じていた。


 でも、それは間違いだった。私の夢には、最初から形なんてなかったんだ。手が届くとか届かない以前に、そもそも触るべき実態が無いんだ。


 赤城の話を聞いて、身に染みた。彼女は大会優勝という夢を見据えて、パフォーマンスの内容から活動方針までを、しっかりと組み立てていた。だから、あれだけの熱狂を巻き起こせたのだ。


 私には、それが無かった。

 私は、何を目指すべきなのだろうか――。


「むにゃ……ん……菜調さん、どうしたんですかぁ」

「智歩!?」


 床を見ると、鎖模様の蛇体が智歩の足に巻き付いていた。無意識だった。

 少し遅れて、蛇体がもちもちした肌の感触を感じる。


「すまない。何でもな」

「っうわぁ~、綺麗な夕焼け~っ!……もしかして、このために私を起こしてくれたんですか!?」

「違う」

「素直じゃないですねぇ~っ」


 どこかいじわるに笑う智歩から顔を背けるように、菜調は再び景色を見やる。窓の左端から雲が現れては、右側にすっと消えていく。太陽の色で滲む空だけが、変わらずに映えている。


「…………智歩、私はどうやって夢を叶えたら良いんだろうか」

「菜調さんもですか!?私も帰り道の間、ずっとそれを考えてたんですっ!」

「……?さっきまで寝ていただろう」

「電車に乗るまでは考えてたんですよっ!」

「そうか」


 菜調は智歩にやさしい眼差しをかけてから、改めて自分がやりたいことを考えてみる。


 赤城が語るような、大会の順位への特別な興味はない。勿論、パフォーマーとして大成するまでの”過程”として、それが必要になることはあるだろう。現に今は、『新蛇祭』への出場、優勝を目指している。しかし、それが目的になることはない。


 ただ、世界各国のパフォーマーから刺激を受けることには興味がある。今までにも、映像越しに沢山の海外パフォーマーから学びを得てきた。そして今日、赤城のダンスに心を揺さぶられた。それを糧にして、自身のパフォーマンスを洗練させれば、より沢山の人の希望になるパフォーマンスができるはずだ。


 そして、種族や国籍の垣根を超えて、沢山の人を心を動かす――その言葉には強くそそられた。私の背中を押すのはいつも、私とは違う文化の人だ。私がダンスを知ったのは人魚がきっかけだ。そして、私を導いたのは――。


 磁石に鉄が吸われるように、気が付いた時には再び、智歩の顔をじっと見つめていた。

 彼女の顔を見つめていると、考えがどんどん纏まってくる。


「智歩、私は――世界に挑戦したい」

「世界っ……!?」

「世界各国の、色んな種族の文化圏を巡って、各地で踊るんだ。イベントで踊ったり、ストリートパフォーマンスをしたりな。そして、様々な種族の人に希望を与えたい」


 智歩は口を小さく開いて、眼を真ん丸にしながら聞き入っている。菜調は話を続ける。


「赤城みたいに、大会を舞台に活躍する道もあるかもしれない。でも私は、素晴らしいパフォーマンスにふと足を止める……そんな瞬間を大切にしたいんだ。その一瞬が、誰かの人生を照らすかもしれないからな」

「……菜調さん」


 智歩はこちらに顔を向けながら、小さくうつむいていた。前髪で顔に影がかかっている。両手をぎゅっと握りながら、身体は小さく揺れている。


「どうした、ちh」

「素敵ですっっ!菜調さんのビジョンっ!」


 智歩は椅子から立ち上がり、両手を広げながら飛びついてきた。それと同時に列車が大きく揺れる。2本の脚がバランスを崩し、ふらふらとよろける。


「うぎゃっ!……」

「……っ!」

 

 菜調は黄土色の蛇体で瞬時に彼女の脚を掴み、自らの胸元に抱き寄せる。

 静かな社内に、がたんがたんと電車の音が一定周期で響き渡る。どうやら鉄橋に差し掛かったみたいだ。

 それに負けない存在感で、優しくて力強い智歩の鼓動が、柔らかい彼女の身体を伝って全身に響いてくる。



 霞のようだった、私の夢。今は大橋となって大空にかかっている。今ならそれを踏みしめて、どこまでも駆けていけそうな気がした。


 ふと思った。もしかしたら、赤城千尋はきっかけの1つでしかないかもしれない。

 今までにも具体的な未来ビジョンを考えるチャンスはあったはずだ。何年も前から、何回も。でも、その度に目を逸らしていたんだろう。

 

 自分の夢が空虚だと認識するのが、怖かったんだ。

 でも、今の私なら、私達なら、大丈夫。


 がたんがたん、と列車は揺れる。言葉を交わさず、智歩をぎゅっと抱きしめる。窓から滲む、オレンジ色の優しい光に照らされながら。



     ◇



 後日の夕方、2人は商業施設の付近で路上パフォーマンスを実施していた。


 以前よりどこかキレを増した菜調の舞が終わり、30人ほどの観客が歓声を送る。

 そして、普段と同じように菜調がスピーチを始める。


「皆さん、ありがとうございました。私は、このパフォーマンスで世界を魅了し、人々の希望になることを目指しています」

 

 ざわめく観客。菜調は言葉をつづける。

 

「そのための最初の一歩として、まずは『新蛇祭』に参加して……優勝することを目指しています。そして、ゆくゆくは色々な国や種族の居住区を巡り、そこで公演や大会でのパフォーマンスを重ねて、世界中の人々にパフォーマンスを届けます!だから、皆様、応援よろしくお願いいたします!」


 頭を下げる菜調に、観客からの盛大な拍手が降り注いだ。


 

 その後、投げ銭の回収の時間が始まった。


 1人の観客が「応援しています」と声をかけると、菜調は観客に目線を合わせながら口角を小さく上げ、「ありがとうございます」と返した。


 それを遠巻きに眺めていた智歩は、以前よりも彼女の観客対応が丁寧になっていることを感じ、しみじみとしていた。もしかすると、これも千尋の影響なのだろうか。――流石に、菜調は千尋のようにトークを弾ませることはできないし、したがらないだろうけど。

 

 智歩が考えていると、背後から何者かが、とんとんと手をかける。


 振り返ると、そこには女性の蛇人。

 帽子を深く被り、マスクをつけていて顔はわからない。


 智歩は一瞬困惑。しかし、足元を見てすぐに分かった。金色に見える鱗。4本の黒い縞模様。……この前の商業施設で声をかけてくれた、嶋田プロデューサーだ!


 智歩は小声を意識しつつも、元気に挨拶する。


「嶋田さん、お疲れ様です!」

「お疲れ様。”偶然”そこを通りかかってね。少し演技を拝見させてもらったわよ」


 嶋田は金の蛇体をうねうね動かしながら通行人に背を向けると、マスクを外して小さく笑う。

 

「ありがとうございます。……正直、全然気が付きませんでした」

「ふふ、気づかれないようにしていたからね。誉め言葉として受け取っておくわよ」


 女は冗談交じりに笑った後、智歩をじっと見つめた。声のトーンを落とし、しっとりした口調で語り始めた。

 

「どうやら、見つけられたみたいね。パフォーマンスで、何を目指すのか」

「え!?」


 嶋田は首を横に向け、赤い空を背景に、遠くで観客対応をしている菜調を見やる。

 

「今日のパフォーマンスは、前に見せてもらったものとは別物だったわ。まだ粗削りで洗練されていないけれど、だけど、”迷い”が無かった。しかし、まさか数日で気が付くとはね……。やはり、私の見込んだ通り」


 その言葉の1つ1つが、チホの頭の中にスタンプを押すようにして存在感を残していく。

 その間に、チホの身体を囲うように、女の蛇体がぐるぐると展開される。

 

 嶋田は智歩の目の前で蛇体の先端を突き上げ、少女の顎を撫でる。

 そして、智歩に額を近づけながら、やさしく呟いた。


「期待しているわよ。


 何か相談があったら伝えてくれ、と女は名刺をチホの右手に握らせる。

 そして、智歩が若干混乱したままお礼を言おうとするのを待たず、嶋田は瞬間移動したかのように立ち去った。


 目の前で起きたことを理解しきれないまま、智歩は手の中に残った名刺を眺めた。

 

 

「智歩っ」

「あ……菜調さん!」


 ふわふわした智歩の意識を呼び覚ましたのは、菜調の一声だった。彼女は少し焦っているかのように智歩のもとに駆け付けると、両手でがしっと智歩の肩を掴む。

 

「大丈夫か?何かされなかったか?」

「へ、平気ですっ……。この前のプロデューサーとお会いして、お話ししていたんです。それよりっ!菜調さんのパフォーマンス、『何を目指すか』が伝わったみたいですよ!」


 飼い主に飛びつく子犬のような勢いで、智歩は嶋田からの評価を報告した。それを聞いて、菜調も小さく口角を上げた。

 

「そうか。実際、私も踊っていて、身体が自然と動くような感覚を覚えた。まるで、表現したいものへと、ひとりでに向かうかのように」

「流石です菜調さんっ!……菜調さんなら、必ず『新蛇祭』に出られますっ!」

「ああ。いけない場所なんてない、私達2人なら」


 旅行の帰りに見つめたオレンジ色の光が、じかに2人を照らしていた。



    ◇



 とあるパーティ会場。その奥には、重厚感のあるグランドピアノ。

 金髪のピアニストが、指を躍らせるように鍵盤を弾いている。奏者は落ち着いた様子で、一糸乱れぬ旋律を刻んでいく。


 真っ赤な絨毯が広がる空間に、上品なピアノのメロディが響き、スーツやドレスを装った大人達が、目を細めながら美しい音色に耳を傾けている。

 

 ピアニストの指が鍵盤を撫で、白黒の板が波を打つ。

 そこから一呼吸置き、会場全体の空気がぎゅっと引き締められる。そして、貯めこんだエネルギーを解き放つかのように、両手の指で鍵盤を鳴らした。


 スーツの観客達が、静かに座ったまま顔を綻ばせる。


 奏者は二本足で立ち上がると、両手を足の上に揃えて、丁寧にお辞儀。伸ばした金髪が、ふわりと動く。

 ぱちぱちぱちと、調律されたような拍手が会場を包み込む。


 そんなパーティ会場の雑踏。その隙間を縫うように、赤い絨毯の上を金色の蛇体が這っていく。

 金色に輝く鱗のグラデーションが上品な網目模様を背中に浮かべる様はブランドの装飾品のようで、シックな空間にすっかり溶け込んでいる。蛇体の背中に引かれた4本の黒線がくねくねと美しい曲線を描き、蛇の身体のラインを強調する。

 蛇人は人混みを器用に躱して、悠々と進んでいく。まるで、蛇体の行く道が自ずと開けていくかのよう。


 その蛇体が止まったのは、グランドピアノが置かれたステージの前。

 

 蛇体の持ち主――嶋田はピアノ奏者に目を合わせ、目を細める。目元のアイシャドウが、ぐにっと傾く。

 

「お疲れ様。良い演奏だったわよ」

「ありがとうございます。このような演奏の機会をいただけて。……しかし、いつもに増してご機嫌ですね」

「あら、わかる?」


 嶋田は口角を、ゆったりと持ち上げた。

 

「私の”夢”の実現に、また少し近づいたのよ」


 嶋田は片手に持っていたワイングラスを持ち上げると、リップで彩られた唇で、グラスに口づけ。

 赤紫色にゆらめくワインをゆっくりと喉に流しこむと、にっと笑った。


 

 

     ◇蛇足のコーナー◇


「蛇は種類によって、身体の光沢の具合が変わる。例えば、シマヘビやアオダイショウは全身に光沢が見られる。アオダイショウは特に顕著だな。見方によっては虹色に光っているように見えるぞ。一方、マムシの光沢はこれらの種と比べると地味だ」

「じゃあ、光沢に注目すれば蛇の種類を見分けられる、と……」

「ああ。アオダイショウやシマヘビの幼体はマムシと間違えられることもしばしばあるが、光沢を見れば一目瞭然だ」

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