ウミネコが舞う空の下で

「撮影を止めてくれ。1人で考える時間がほしい」


 菜調はぽつりと呟くと、智歩に背を向けてしゅるしゅると立ち去って行った。


 待ってください、と智歩は手を伸ばすが、波の音が彼女の声を握りつぶした。



 菜調は行く当てもなく、海岸線の道を駆けていった。


 目の前の床も、海も、そして空も、全てが灰色に染まっていた。

 まるで、そこには大地も道もなくて、ただただ混沌がどこまでも広がっているようだった。


――行き止まりか。


 公園の端にたどり着いた菜調は這うのを止めると、海沿いのフェンスに肘をかけて、もたれかかった。

 

 にわかに荒れた海には霧がかかり、海と空の境界線がぼんやりとしている。

 普段なら海の向こう側に遠くに見えるビル群も、霧に隠されて存在があやふやになっている。


 ぽちゃん、と小さな音が響く。

 そこに目をやると、小さな魚が水面を跳ねている。トビウオなどではない、普通の海水魚だ。それが、水切りで川に投げられた石のように、ぴょんぴょんと跳ねている。


 菜調は無意識のうちに、その動きを目で追い始める。


 魚のシルエットはとても小さいが、銀色の鱗を鈍い光を放っていたため、かろうじて視認できた。

 海はどろどろに濁っていて、水中の生き物の存在は感じられない。その中を、1匹の魚だけが己の存在を主張しながら、霧がかかった海の果てへと跳ねていく。

 

 魚とは別方向から、”ばさっ”と力強い音。


 次の瞬間、海鳥が一直線に飛来。荒れ狂う海の上を、何食わぬ顔で飛行する。

 そして、矢で標的を射貫くかのように、海上に顔を出した矮小な魚をかっさらった。恐らく、虎視眈々と魚を狙っていたのだろう。


 そのまま鳥はどこかへ行ってしまった。

 海からは再び、生物の気配がなくなった。

 

 魚の存在の”跡”をかき消すかのように白い波が押し寄せて、”ばしゃん”という音がこだました。


 菜調はその光景がどこか嫌になって、力なくその場を離れていった。


 

     ◇

 


 智歩は元の場所に座って、菜調の帰りを待っていた。


 雲で塞がった空の下方から、白い光がにわかに滲んでいた。

 

 それを見た彼女は片手で風に揺らされる髪を抑えながら、もう一方の腕を持ち上げて腕時計を見やった。時刻は17時を指していた。

 菜調と別れたのは15時。1人になってから、およそ2時間が経っていた。

 

 今日は18時半から近くで公演がある。元々は、公演の準備なども一気に撮影しようとしていたのだ。

 撮影に関しては諦めるにしても、公演はそうはいかない。どうしてもキャンセルするにしても、彼女から話を聞かなければならない。

 

 「1人で考えたい」と言われたとはいえ、菜調を探す選択肢を選ぶべき段階に達していた。


 智歩は荷物をまとめ、携帯でメッセージを送信すると、両足に力をこめて走り出した。


 智歩は、ひたすら走った。

 海が見えるコンクリートの道を。子供たちが帰る姿が見える広場を。芝生の広場の中に敷かれた一筋の道を。防潮林の中をうねる木陰の道を。道路沿いのガスの匂いがする道を。

 

 曲がり角にあたるたびに、周囲を見渡してから携帯を確認する。メッセージの未読と地図を把握してから、再び走り出す。


 公園の外周は5㎞、走ることに慣れている智歩でも、一周には30分ほどかかるだろう。それに、捜索範囲は外周だけではない。それでも、走らずにはいられなかった。


 時折、雲の隙間から日差しが突き刺した。

 夕方特有の、眼に突き刺さる強烈な光。視界が一気に真っ白になり、前を向くのもままならなくなった。でも、足は止めなかった。顔もできるだけ上げて、踊り子の姿を追った。


 沈む太陽は、タイムリミットを暗に示しているように見えた。それを視界にとらえる度、智歩は歯を食いしばり、脚にいっそう力をこめた。

 

 走り始めてから、1時間が経過した。

 敷地の大半を探したが、彼女の姿は見当たらなかった。メッセージへの既読も相変わらずだ。


 智歩はよろよろした足取りで、海岸沿いの道を歩いていた。

 今日のパフォーマンスに向かう道だった。もし菜調が最後まで現れなければ……そんな想定も智歩の中にはあった。

 

 夕日は水平線に沈みかけていて、水面を柔らかい暖色色に染めていた。


 穏やかな波の音が響く中に、時々南国風の木が潮風に揺らされる音が混じる。

 

 そこに、1つの人影があった。

 

 「菜調さんっ!!!」


 蛇人は海岸沿いのフェンスにもたれかかり、夕日を眺めていた。陸側に立つ智歩からは、やはり菜調の後ろ姿だけが見えて、その表情はわからなかった。

 そこに智歩は残りの力を使い果たすような勢いで駆け付けた。


「探したんですよ、菜調さんっ!その……公演はできそうですか……?」


 菜調は背後のプロデューサーには目を向けずに、海を見ながらつぶやいた。


「…………私は、智歩が憧れるような人間じゃないかもしれない」

「どういうことですか?菜調さんは夢の実現にはどこまでも真剣で、まっすぐで…………」

「違うんだ」

 

 菜調は普段通りの落ち着きがある…………しかし、いつもの覇気が見当たらない声で話した。


「私は智歩がいないと、プロデュースもブランディングもロクにできない。そもそも、その重要性すら見えていなかったんだろう。……そんな人間が、夢を本気で追い求めているなんて言えるのか?」

 

 智歩は菜調の横に移動して、彼女と同じように海を眺めながら、口を開いた。


 「……やっぱり夢に真剣じゃないですか、菜調さん」


 閉じかかっていた菜調の青い瞳が開き、顔が智歩に向いた。

 彼女は言葉を詰まらせた。黙り込んだ2人の間に、波の音が反響した。


 雲が少しずつ晴れつつある空を見ながら、智歩は言葉をつづけた。


「だって、菜調さんは自分ができないことを見つけたら、それを認めながら前に進めるじゃないですか。私が今、菜調さんにスカウトされてプロデューサーをしているのが、何よりの証です。……それができるのは、本気の人だけです。私なんか、壁があったらすぐ投げ出しちゃってましたから」

 

 智歩はフェンスから手を離すと、くるりと回って菜調の方に身体を向けた。

 

 水平線に沈みゆく夕日が、眩しくも優しい煌めきを放った。

 その光を背景に、智歩はにこやかに笑った。


「菜調さんは、誰よりもカッコいい、私の憧れです」

 

 金色の丸い瞳が、夕日に負けじと輝いていた。

 

「だから……その……2人で力を合わせて、夢を叶えましょうっ!」

「……」


 菜調は漏れ出そうな声を押しとどめながら、海の方を向いてうつむいた。


 彼女は返事をすることは無かった。

 ただ、蛇の身体を智歩の腰に優しく巻き付けると、自身の方に抱き寄せた。

 

 そのまま2人は、肩をくっつけ合いながら、夕日が見えなくなるのを静かに見届けた。

 


 太陽は沈み、空は妖しい紫色で滲んだ。

 ヤシのような南国風の木が黒い影になり、ひんやりした潮風に揺られてざわめく。


 頭上を埋めてくしていた雲はすっかり消えていて、夜空の中心では月が煌々と輝いていた。

 

「行こう、智歩」

「はいっ!」

 

 2人はパフォーマンス会場に向けて駆け出した。


 穏やかな波の調べの中に、元気いっぱいの足音が響いた。

 

 

     ◇


 

 2人は無事にパフォーマンスを終えた。

 そして、それから3日で菜調のPR動画も完成。


 爆発的ヒット……は流石にしなかったが、動画をきっかけにファンになったという声が、SNSなどで散見された。

 

 そして、それからさらに数日後。

 菜調宅で、智歩が弾むような声で電話に応じていた。

 

「……はい。ありがとうございます。よろしくお願いいたします」


 智歩は電話を切ると、菜調の元に駆け寄った。

 

「やった……やりましたよ、菜調さんっ!店舗からイベントの招待ですっ!」

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