大きく一歩飛び込んで
何かがびっしり書かれた地図を片手に、菜調は山道をずんずんと進んでいく。彼女の背中を追う形で、うす暗い山の中をを一歩ずつ進んでいく。
登山をはじめた時には聞こえていた、ごうごうとした川の音が聞こえなくなった辺りから、木々がいっそう生い茂って、周囲が暗くなるのを感じる。
手すり代わりに掴もうとした岩や木の幹は、どれも全体的に湿っている。
”大自然”そのもののようなロケーションではあるものの、周囲には鹿やサルどころか、鳥の気配すら感じない。大地と木々、そして自分達。他の介入を許さず、正面から向き合っているような感覚だ。
先日説明された通り、本格的な登山を感じさせるような場面は少なかった。恐らく、歩きやすい道を選んでくれているのだろう。
彼女を追って、智歩は猫背になって足元を凝視しながら、一歩一歩慎重に地面を踏みしめていた。
地面はにわかにぬかるんでいる上に、菜調の蛇体が前方から伸びているため、一瞬でも油断したらつまづいてしまいそうなのだ。
「良いか?山を登る時は上半身をまっすぐ起こすんだ」
「は、はい……」
こちらを見透かすかのように前方から指摘が飛んでくる。この人は頭の後ろにも目がついているんだろうか。
登山ガイドを副業にしたらどうかと智歩が尋ねると、一瞬だけやったことがあると菜調が返す。智歩は彼女のガイドが続かなかったことになんとなく納得し、その話題を切り上げた。
菜調が意図したかは不明だが、幸運にも登山の環境は、じめじめ気分の智歩には良い気分転換になっていた。
日常生活と隔絶された大自然に身を置くことで、プロデュース業からも離れられる。それに、道や足元への注意を常に払わなければいけない分、絶望で頭をいっぱいにしている余裕もない。
おまけに互いの顔が見えない状態でやり取りをするからなのか、山道での会話は自然とすぐに途切れてしまう。
とにかく、自分の歩く道の先をひたすら注意して、足を進める。そんな時間が、智歩には良いリフレッシュになっていた。
◇
突然、 菜調がぴたりと立ち止まる。それを見て、智歩も足を止めて、顔を上げる。
2人の眼前には、約5mの岩の急斜面……その角度は60度を超えているようにみえる。ほとんど壁といって差し支えない。
菜調は崖の前に立つと、舐めるように崖を上から下まで見渡たすと、深呼吸をした。それを見た智歩は、何かを言われるでもなく2,3歩下がり、彼女から距離を取る。
菜調は斜面にうつ伏せになるように寄りかかると、下半身を縦に大きく伸ばした。そのまま両腕で崖をがっちりと掴むと、蛇体の上部を持ち上げ、岩の凹部に蛇腹を押し込んだ。
そして、蛇体の下部をS字状にくねらせながら上に引き上げつつ、その節々を同様に岩の隙間に押し込む。身体の下部が崖に吸いついた一瞬の隙に、バネが跳ねるように再び上半身を起こす。
人体が崖の上に乗りあげると、「ここを絶対離れない」と言わんばかりの力で上半身で崖上の地面にしがみつく。
そのまま息つく間もなく、菜調は腰から下の筋肉を引き締める。
次の瞬間、伸ばしたメジャーが巻き戻されるように、3m以上の蛇体が崖上の彼女の元に集った。
この間、およそ3秒である。
”鯉の滝のぼり”を想起させるような、壮絶な光景。彼女が這った跡には、ぱらぱらと細かい砂が舞っていた。
智歩は息を吸うのも忘れて、一瞬の出来事を見届けた。
崖を登り切った菜調は、背負っていた荷物を地面に降ろす。どしん、という音が下層の智歩にも聞こえる。彼女が重い荷物を背負っていたという事実が、第二波の衝撃として智歩を襲う。
智歩があっけにとられているのを他所に、菜調は自らの尻尾を手元に手繰り寄せる。慣れた手つきで身体に何かの器具を巻き付けてから、ぶらんと蛇体を崖から垂らした。
掴まれ、と崖上から声をかける菜調。彼女は自らの身体を使って、智歩を引き上げようとしているのだ。
智歩はとまどいつつ、崖から離れた位置から菜調の全身を俯瞰で見ていた。
上部と下部に1つずつ、小さな金属具がとりつけられた黄土色の蛇体がだらんとぶら下がり、尻尾の先がゆらゆらと小さく揺れている。
その上では菜調が静かに、智歩をじっと見つめているのがわかる。
ここでうじうじしても仕方ないと智歩は意を決して、崖に向かっていく。
智歩はまず、崖の1/3程まで自力で登った。菜調の身体は長いが、崖のふもとまで尻尾は届かなかったので、尻尾で智歩を引き上げるにしても一部は智歩が昇る必要があった。
だが、丁度尻尾の先が垂れている高さまでは凹凸が多かったため、簡単に登ることができた。
――菜調は最初に崖を見た一瞬のうちに、自分の引き上げまでが可能かを判断したのだろうか……。
菜調への尊敬を強めながら、智歩は菜調の尻尾の目前にたどり着いた。
いくら菜調が凄いといっても、”人”の尻尾に成人女性がぶらさがるというのはどうしても不安だった。それでも、他人の飼い犬に触ろうとするように、恐る恐る彼女の蛇体にしがみついた。
智歩の頬に鱗が触れると、泥で汚れているものの、ひんやりしていて少しだけ気持ちが良かった。蛇腹はつるつるで滑らかな感触が際立っており、特殊な金属を纏っているのかと錯覚するほどだった。しかし、蛇腹を抱える手に残ったのは金属の冷徹な硬さではなく、”むにっ”とした肉の弾力だった。
意外と知らなかった蛇体の感触に驚きつつも、尻尾の先についた金具に腰を置いて、コアラのように蛇体に抱き着く。2本の足が地面を離れると、ゆっくりと身体が浮き上がる。
智歩が必死に尻尾にしがみついていると、すぐに崖の上に打ち上げられた。尻尾から手を離し、地面にごろんと転がると、開けた青空が視界に映った。
尻尾を巻き取った菜調は、すまし顔で智歩を見やった。 彼女の呼吸は落ち着いていて、まさに何事もなかったというような様子だった。
「すまない。元々予定していたルートが、使えなくなっていたんだ。故に、多少無理をすることになってしまった」
「別に私は大丈夫ですが……。菜調さん、ありがとうございます」
そうか、と菜調は言うと、蛇体を丸めて身体に括りつけられた金具をぱちぱちと外し始めた。
「それにしても菜調さん、崖登りまで得意なんですね」
「いや、苦手だ」
きっぱりと言い切る菜調に、智歩は拍子抜けして口を開けた。
「意外です。菜調さんって運動なら何でもできるのかと」
「個体差はどうしてもあるからな。とはいえ、練習したから大体の山なら登れるようになった」
菜調はしっぽを小さく揺らしつつ、それを見つめながら答えた。
智歩は何かを考えながら、黙ってそれを聞いていた。
「それより、もうすぐ目的地だ」
◇
うっそうとした木々が頭上や左右を埋め尽くし、まるでトンネルを形成しているような空間を、歩き進めた。
時には草をかきわけ、時には枝を避けて身をかがめながら、葉と幹で形成された狭い洞窟のような道を、ゆっくりと進んでいった。
そして、崖の上から10分ほどが経過した後、薄暗かった視界に突然、めいっぱいの光が溢れ出した。
そこには、青い空が広がっていた。
切り立った崖。どこまでも広がる木々の海が、青空の下に広がっている。
足元には、学校のプールほどの大きな泉があった。穏やかな水面は何にも遮られない陽光を浴びて、鏡のようにきらめいていた。
山の頂上では無かったが、それに匹敵するような解放感がそこにはあった。
智歩は両手を広げて、爽やかに吹き抜ける風を全身で楽しんだ。
爽やかな風、身体中に張りついた汗が乾く爽快感、最高の景色、そして、ここまでの登山の過程。その全てが歯車のように噛み合い、極上の体験を生み出していた。この景色を写真に収めても、その魅力は半分も封じ込められないだろう。
智歩がリュックの紐をぎゅっと握りながら目を輝かせていると、遠くから「こっちだ」と声をかけられる。
崖を7mほど下った地点に広い岩場があり、そこで菜調が荷物を降ろしている姿が見えた。智歩もそこへ向かって、岩でできた点年の階段をゆっくり下る。
菜調は荷物を降ろすと徐に登山服を脱ぎだした。登山着の内側からは、黒とグレーのツートンカラーが印象的なスイムウェアが現れた。
「もしかして、ここで泳ぐんですか?」
「そうだ。この池は最高のロケーションなんだ。深さも広さもあって、流れも穏やかだ」
智歩も床に置いたリュックを漁って、持参するよう言われていた水着を取り出す。着る機会がなくて新品のまま放置していた水着を使う機会ができて良かった。
菜調、身体を伸ばして軽くストレッチ。蛇体を捻り、腕を伸ばす。崖の先端に移動する。クラウチングスタートのように姿勢を低くする。両腕を地面に付ける。
それに気づいた智歩は、思わずジャージを脱ぐのを止めて菜調を見やる。彼女のこの体勢、まさか……。
菜調は大きくジャンプ!水面から10mほどの高さに到達すると、空中で身体を曲げてアーチを作る。煌めく日差しを浴びながら、長髪がふわりと舞う。そして、頭から泉に向かって突っ込む!蛇体に浮かぶ鎖状の模様が、一直線に見える。
ぱしゃぁぁぁぁん!!!
轟音。火山が噴火するように水しぶきの大波が吹き上がる。それは、水面の3m上で見守っている智歩にも、弾のような雨が降り注ぐ。
智歩は四つん這いになりながら、崖から顔を出して下層の泉を見つめる。
水中からぶくぶくと泡が立つと、菜調が螺旋を描くように浮上してくる。
ぷはぁ、と菜調が水中から顔を出す。目をつぶり、口をめいっぱい開けながら。ポーカーフェイスな彼女が一瞬だけその表情を見せたことで、飛び込みが特別なものに見える。
――自分も飛び込みたい。
彼女を見て、そう思った。
自らの肌を皮膜のように覆う汗を気にかける。飛び込んでこれを振り払えば、どれだけ気持ちいいだろうか。足先から少しずつ、なんて悠長なことはしたくない。一気に全身を水中に委ねたい。
菜調が着水した際に響いた、水のエネルギーが凝縮されたような音を思い出す。自身がその中心になることを想像すると、胸が高ぶる。
「智歩もやってみないか?ライフジャケットが私のかばんにある。使うと良い」
智歩の脳内を覗いて気を利かせたかのように、菜調から声をかけられる。彼女はゆっくりとした平泳ぎで水面に浮かび、蛇体を水面付近でゆらゆらと動かしている。
ただ、彼女の問いに、すぐには答えられなかった。
やっぱり怖かった。だって、飛び込みなんてやったことがない。やるべき場面に遭遇したことが無い。池で泳ぐのを楽しむなら、普通に入水して泳げば十分なハズだ。
「おーい、大丈夫か?怖いなら無理しなくても良いぞ」
菜調さんの声。
そうだ。彼女だって無理しなくて良いと言ってるじゃないか。うん。ゆっくりと降りよう。それでいい。
智歩は岩の端に座り、ゆっくりと足を下に伸ばす。一段下の岩にかかとを置こうとする。
しかし、岩面すれすれのところで智歩は足を降ろすのを止めて、池がある方向を振り向く。
諦めきれなかった。本当は、飛びたいんだ。
――飛びこみたいから……。そうか、それで良いんだ!
何で、やりたいことを最初からやらずに諦めていたんだ!
智歩は岩段を降りるのを止めた。
学校ジャージを脱ぎ捨て、新品の水着を身に纏う。その上に、菜調が用意したライフジャケット。
ぐっと、拳を握りしめる。
大きく一歩踏み出す。素足で岩のひりひりする暑さを感じながら、一歩ずつ、進んでいく。
水上からそれを見上げていた菜調は、崖先に智歩の顔を確認すると、飛び込むように頭から潜水。池の端へと移動し、再び顔を出すと智歩にアイコンタクトを送る。
智歩、大きく深呼吸。
サファイアのように輝く水面が、自分を歓迎しているように見える。
「えぇいっ!」
岩を蹴りつけて、空へと飛び出す!
身体が宙に浮く。刹那、重力を感じなくなる。あらゆるしがらみから解き放たれる感覚。
次の瞬間、天と地が反転する。風圧に呑まれる。一面の青色が眼前に迫る。
轟音。衝撃が走る。寝静まったように穏やかだった水面が、2つに裂ける。
冷たくて優しい感覚が、智歩を包み込む。
「……かはぁ! けほっ、けほ……」
智歩は、水面から顔を出すと、シャワーを浴びた犬のようにぷるぷると身震いする。濡れた前髪が垂れ下がり、彼女の目を隠していた。
直立しながら水面をふわふわ漂っている智歩の元に、心配して菜調が近寄る。
「大丈夫か、智歩……」
「……ふ…………」
「……?」
「…………あははははは!!」
智歩は口をいっぱいに開けて笑い出した。
理由はわからないが、笑いが止まらなかった。ただ、とにかく気持ちが良かった。
気が付いたら、憂鬱も嫌悪感も、汗と一緒に洗い流されていたみたいだ。
「言っただろ?智歩がやりたいように、自由にやれば良いって」
「はいっ!菜調さ……ごはぁっ、かは………………」
すっかり元気を取り戻した智歩は、勢い余って池の水を飲んでしまう。
智歩は口から水を吐くと、えへへ、と小さく笑った。
その様子を見て、菜調が目を細めた。
煌々と輝く太陽が水面に映って、2人の側でゆらゆら揺れていた。
◇蛇足のコーナー◇
「マムシは実は木や壁を登るのが苦手だ。小さな段差や低木なら、身体を無理やり凹凸に引っかけて登れなくもないんだが、身の丈よりずっと高い場所に登ることはできないんだ」
「なるほど~っ!……そうだ!高い壁を建てれば、物騒なトラップなんて置かず平和的にマムシ対策ができるのでは!?」
「ああ。実際、塀に覆われた庭だとマムシを観ることは少ないだろうな」
「……実は地元の友達が、田んぼでマムシを見るのが嫌だって言ってたんですよ!さっそく田んぼを壁で覆うように提案しなきゃ!」
「……おいおい、その田んぼの広さはどれくらいなんだ?」
「まぁ、一般的なコメ農家の……あ……無理だ……全体を隙間なく壁で覆うなんて……というか農作業の邪魔ですよ……」
「なるほど、智歩の野望も高い壁に阻まれた、と」
「うるさいですっ!」
※実際に山地等で飛び込みをする際には、専門家の指導の下で行ってください。
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