『伝播する祝詞』
「あなたも、お友達になりにきたの?」
「とおこ」と名乗る少女の無邪気な問いが、三上義之の鼓膜を震わせた。それは音波による振動ではなかった。脳の言語野に直接、意味が流れ込んでくるような、異質な感覚だった。彼のすぐ目の前で、公民館の暗闇に明滅する無数の青白い光が、歓喜するようにその輝きを増していく。
甘い香りが、霧のように彼の肺を満たした。化合物P-12。三上は、自らの血中を駆け巡るであろうその分子構造を思い浮かべながら、必死に思考の冷静さを保とうとした。これは幻覚だ。セロトニン受容体が過剰に刺激され、脳が偽りの信号を氾濫させているに過ぎない。
だが、彼の脳裏に広がり始めた光景は、単なる幻覚ではなかった。
埃っぽい大学の書庫。バスに揺られる山道。窓にびっしりと張り付く蛾の群れ。奥ノ宮の巨大な桑の木。それは、桜庭燈子の記憶。
膨らんだ腹を抱き、アパートの暗がりで恍惚と揺れる女。高柳健司の絶望。
そして、何世代にもわたる名もなき巫女たちの、苦痛と諦観。
HBLV――灯盗蛾が運ぶウイルスは、単に遺伝情報を伝達するだけではない。宿主とした人間の記憶や感情の断片すら、取り込み、蓄積し、次の世代へと受け渡していくのだ。この信仰は、おぞましい生態系であると同時に、巨大な一つの記憶貯蔵庫でもあった。
「桜庭君……君も、これを見たのか……」
意識が薄れゆく中、三上は最後の科学的推論を組み立てていた。灯盗蛾の雄が散布する鱗粉は、獲物を無力化するだけ。真の脅威は、雌、あるいは別の個体による物理的な遺伝子注入。いや、違う。このシステムはもっと効率的だ。雌雄の区別すら曖昧で、環境に応じてその役割を変えるのかもしれない。この「とおこ」と名乗る少女自身が、新たな
その思考は、首筋を走る、鋭い痛みによって中断された。
見ると、「ふゆこ」と呼ばれた、目の虚ろな少女が、いつの間にか彼の真横に立っていた。彼女の指先から、虫の口器のような、細く硬い針が伸び、三上の皮膚を易々と貫いていた。
「……新しい、お宿……」
ふゆこの口から、意味のない音が漏れる。
三上は、自分の体内に、冷たい液体が注ぎ込まれるのを感じた。
これが、終わりか。
だが、科学者としての彼の本能が、最後の抵抗を命じた。
三上は最後の力を振り絞り、白衣の胸ポケットに忍ばせていた小型のデバイス――常時録音機能と緊急GPS信号を発信するセキュリティキーホルダーの、SOSボタンを強く押し込んだ。データが衛星に届く保証はない。だが、この地獄の記録を、1バイトでも多く外の世界へ。
彼の網膜に最後に焼き付いたのは、公民館の暗闇の奥、巨大な繭のようなものの上で、数えきれないほどの「神の子」たちに囲まれながら、慈母のように微笑む、巨大な女王の姿だった。
【断章 I:データログ】
[ LOG FILE: TUMB-SLS-03.dat ]
[ TIMESTAMP: 2025/09/12 18:08:34 JST ]
[ LOCATION: 35.4812, 138.3997 ]
[ STATUS: EMERGENCY SIGNAL ]
(音声ログ開始)
(激しい呼吸音) 化合物P-12……セロトニン受容体……幻覚ではない、これは遺伝情報の奔流だ……桜庭君、君もこれを見たのか……
(少女の歌声が混入)
「……あたらしいおふとん、あかいおふとん……」
(三上博士と思われる声)……違う、男性も苗床になるのか? いや、繁殖ではない、これは...これは、ただの……増殖……
(肉が裂けるような、甲高い音)
「ぐっ……あ……」
(音声ログ断絶)
【断章 II:政府内部文書(CLASSIFIED)】
文書番号: 統合幕僚監部 特殊作戦群 指令 第25-09号
件名: 山梨県S郡における未確認生物災害(コードネーム:エンプレス・アント)への対処について
東都大学・三上義之博士より発信された緊急信号を基点とする半径5km圏内を、災害対策基本法に基づきレベル7災害指定地域(特別封鎖地区)とする。
同地域に偵察のため展開した普通科教導連隊・レンジャー課程隊員12名との通信が、2025年9月15日0240時をもって途絶。回収されたヘルメットカメラの最後の映像には、対象性を持たない「歌」による精神汚染と、生物由来とは思えない速度で移動する複数の飛行物体の存在が記録されている。
これより、作戦フェーズを「偵察」から「浄化」に移行する。陸上自衛隊化学学校・対特殊武器衛生隊の監督のもと、同地区への燃料気化爆弾の限定的投下を許可する。
本件における生存者の救出は考慮しない。
【断章 III:最後の通信記録】
通信ID: JGSDF_SOF_Alpha-1
発信時刻: 2008/09/15 02:38 JST
「こちらアルファ1! 駄目だ、囲まれた! こいつら壁も装甲も……熱で溶かしやがる! 悲鳴を上げるな! 歌に意識を乗っ取られるぞ!」
「司令部! 聞こえるか! 村の中央...公民館にいるのは……あれは……巨大な……蛹……? 違う、女王だ……! 無数の人間が……繭になって、へばりついて……!」
「歌が……頭の中に……! とおこ……さま……おかあ、さま……たすけ……」
[ SIGNAL LOST ]
【断章 IV:インターネット掲示板】
スレッドタイトル: 【立入禁止】山梨のS郡の封鎖区域って結局何だったの? Part.58
投稿日時: 2011/06/12(月) 14:30:15
345: 以下、名無しにかわりましてお送りします
公式発表じゃ「過去の鉱山活動に起因する大規模な地盤沈下と、それに伴う火山性有毒ガスの噴出」ってことになってるけどな。いまだに自衛隊が封鎖してるのは不気味だよな。
346: 以下、名無しにかわりまてお送りします
数年前に自衛隊が一個小隊ごと消えたって噂、まだ根強いよな。近隣の駐屯地じゃ公然の秘密らしい。
347: 以下、名無しにかわりましてお送りします
それよりヤバい話聞いたか?
最近、封鎖区域の周辺の町で、奇妙な蛾が大量発生してるらしい。青白く光る、すげえ綺麗な蛾だってさ。
348: 以下、名無しにかわりましてお送りします
ああ、それ知ってる。うちの妹、その蛾が綺麗だからって捕まえてきて、部屋で飼ってるわw
「トウコ」って名前つけて可愛がってる。
349: 以下、名無しにかわりましてお送りします
>>348
おい、逃げろ。今すぐ。妹を置いてでも。
350: 以下、名無しにかわりましてお送りします
なんで?
351: 以下、名無しにかわりましてお送りします
>>350
お前、妹さんの部屋から、最近、甘い匂いしねえか?
『山梨県南巨摩郡羽角村における「羽化神信仰」に関する現地調査報告書』 火之元 ノヒト @tata369
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