第二十一話


 七日と間をおいて、俊麗と春狼は庭園に足を踏みいれた。


 後宮と燈子宮を繋ぐ砂利道の中央には、憩いの場として造られた大きな庭園がある。常緑樹と落葉樹が隙間なく植えられ、落葉樹の合間には水仙の花が、群を成して咲いている。季節ごとに植えられる花々は変わり、春夏秋冬を味わうことができるのだ。


 殿舎にはそれぞれ好みに添った庭があることから、中途半端な位置にあるこの庭園を訪れる者は少ない。そのため、今回のような密談をするには最も適した場所だった。


 庭園の入り口に李を置いて、俊麗と春狼は水仙に挟まれた道を進む。膝丈の高さに咲く水仙がゆらゆらと横にそよいでいる。白と黄の無垢な色が、二人の姿を自然の中に隠した。


 中央付近には太い幹の木が植えられ、その背丈は塀よりも高くそびえていた。周囲の花々が形を変えても、この木だけは長い年月を根づいてきたのだろう。


 風が強く吹いて、二人の長い髪が前方に踊った。風には水仙の花の香りとともに、鼻の先で白粉の女性らしい香りが混じる。


「――人払いはしていますが、このままの姿勢で聞きなさい」


 その声は巨木の反対側から聞こえてきた。


 俊麗が緊張を走らせたことを、春狼は敏感に察する。


 はるか上に立つ者の、有無を言わさない声質。鋭くも、女性らしい柔らかさのある、涼やかな音だった。


「あなたの事情は知っています。主上と、亡き芳妃の命で、優れた才能を隠すよう言われていること。ゆえに、私の前で演技をする必要はありません」


 横で俊麗は体を強張らせた。ぴりぴりと張り詰めた気を感じながら、春狼は耳をそばだてる。


 演技が通用しない相手、それも敵か味方か判別しない者。春狼はいつでも俊麗を守ることができるように身を寄せた。


「あなたは、私が芳妃を殺したと思っているのでしょうね」


 確信を突いたその台詞に、俊麗は言葉を返さない。皇后も返事を期待していないのか、独り言のように続ける。


「否定してしまいたい。けれど、芳妃を殺したのは、この私で間違いありません」


 息を呑んだのは、果たして春狼と俊麗のどちらだったか。


 木の裏手に反転し、皇后の首を締め殺しそうな俊麗を、春狼は手首を掴みとって止める。俊麗の怒りと悲しみのこもった激動の瞳が、制止する春狼を睨みつけた。なぜ止めるのか、と当たりつける目だ。


 春狼はつとめて冷静に落ちつけ、いつもの自分を思いだせ、と返す。


 俊麗の炎は宿ったままだった。幾分か大人しくなった火の揺らめきを確認して手を離す。感情の昂るままに動くことを俊麗はしなかった。


 芳妃殺害の告白をした皇后は、噛みしめるように言葉を吐いていく。


「これは、ただの言い訳です。――芳妃を食事に招かなければ、芳妃が死ぬことはなかったかもしれない。芳妃は食事に異変を感じて、毒が入っていると思ったのでしょう。私が食べるのを止めようとしてくれた。その少しの時間がなければ、芳妃は自分への対処ができて助かったかもしれない。……芳妃の体質は知っていました。私がいち早く気づいていれば、芳妃は死ななかったかもしれない」


 それは皇后の後悔の念だった。大切な友を亡くした慟哭だ。


 皇后は泣いてはいない。皇后という地位が彼女をそうさせるのか、涙を流す権利も自分にはないと責めているのか。もしもこうしていればという架空の行動、あとから流れるように湧いてくる可能性は、そうしなかった自身への激しい非難だった。


「……懺悔を告げて、あなた様はどうしたいのですか」


 初めて口を開いた俊麗の言葉によって、皇后の独白は途切れる。突き放す鋭い刃となった台詞を、皇后は当然のように受けとめる。


「許されようとは思っていません。私は自分を責めずにはいられない。芳妃のことを、私は――」


 春狼は皇后が演技をしているとは思えなかった。本当に彼女は、芳妃のことを友人として愛していたのだろう。その証拠に、皇后は一度も芳妃の子である俊麗に、助けられなかったことを許してくれとは言わない。


「芳妃の子であるあなたに言うことではないでしょう。しかし、私はあなたに恨んでほしかった」

「それを、なぜ今になって」


 俊麗の問責に近い追及の声が、風とともに流れる。ざあっという風音とともに、水仙が一斉に揺れた。


「麗華殿に刺客が攻めてきたことを知りました。あなたが芳妃の死の真相を探っていることに気づいたのもそのときです。――だからこそ、あなたには告げねばならないと思いました」


 水仙の香りが一帯を包みこみ、風の音に紛れながら皇后ははっきりと口にした。


「芳妃の仇は私がとります」


 それは断固とした、強い意志だった。


「罪人の検討はついています。あとは私に任せなさい」

「そのようなこと――」


 俊麗の反論を遮るようにして、皇后は口早に続ける。


「あなたは芳妃の望んだ幸いを手に入れる義務があります。自分から、奈落に落ちる必要はないのです」


 春狼は芳妃に出会ったことがなく、俊麗も進んで母親の話を出すことはない。しかし、様々な人々の話を組み合わせて形作る芳妃像は、自身の息子に仇討ちをさせるような親ではなかっただろう。


 皇后を怪しむ気持ちは、彼女の真っ直ぐな言葉から、砂のごとく崩れていく。それが皇后の策であったら嫌だと、春狼が思うほど疑心はなくなりかけていた。


 俊麗も皇后に嘘偽りがないことは分かっているのだろう。それを認めたくないというように、顔をしかめている。


 多くの感情に邪魔されて、言葉を紡げない俊麗の代わりに、皇后は「それでもなお――」と静けさの広がる湖面の声で続ける。


「それでもなお、奈落に来るというのであれば、――私の存在を利用しなさい。あなたは芳妃の子。私が必ず、あなたを幸いへと導きます」


 皇后の決意を、俊麗は受けとらざるを得ない。強制的に渡された思いに、俊麗は戸惑いを隠せない。ぎゅっと握りこまれるこぶしを、春狼は見守った。


 常緑樹が一斉に鳴く。葉を揺らし合って、皇后と俊麗の会談を隠す。ざざあっと海の波打ち際のような音が響き、皇后の静穏な声が届いた。


「次は、新年の祝儀の場にて会いましょう。気をつけてお帰りなさい」


 春狼は背後を振り返る。大木の後ろで黒く長い髪が揺れた気がしたものの、姿は一瞬にして木の陰に隠れてしまった。


 人の気配がなくなり、春狼は隣に立つ俊麗を見やった。


 無表情に押しこめた固い顔。震えるこぶしに触れると、俊麗は弾けるように顔をあげた。いつもの冷静沈着ぶりが鳴りを潜め、必死に考えを巡らしているようだ。


 迷子の手を取るように、俊麗は優しい声音で告げた。


「俊麗。芳妃様の仇をとろう。皇后様が動くのを、ただ見ているだけなんて嫌だろ?」


 皇后は行動するなとは言わなかった。俊麗の身を案じるだけで、その復讐心を否定しなかった。俊麗の思いと同じものを抱く皇后は、それを打ち消すことができないことを、自らの存在で知っていただろうから。


 皇后という立場を利用して、うまく立ち回れ。何かあれば力になる、と告げてきた。


 誰も信用することができない俊麗は、それを言葉通りに受けとることができない。


 ――それなら。


「俊麗の好きなようにすればいい」


 ――俺だけは支えてやる。


 それが契約だから、という言い訳をして、燈国の象徴の色をした瞳を見つめる。


 俊麗は深く頷いて、大木を背にして庭園の出入り口へと足を向けた。その後ろを、春狼は迷うことなくついていく。

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