第二十話


 そしてまた次に目を覚ましたとき、体の熱が少し下がったのか、頭の中が覚醒していた。爽快ささえある。起きあがれるかと思ったものの、自分の体にもかかわらず、操作を忘れてしまったようにうまくいかない。ぎしりと体中が音を立てた。


「起きたか」


 声の方に顔を向けると、俊麗は音もなく部屋にいた。


「っ!」


 渇いた喉で口を開けようとして声が出ない。そばに控えていた火兎が吸い飲みを口へ運んでくれる。


 水を含んだことで頭が一斉に活性化する。血の巡りが思考力も呼びだして、春狼は俊麗の姿をはっきりとなった視界にいれて、思わず呻いた。


 春狼が整えて綺麗になったはずの髪は見るに堪えないほど艶を失っている。加えて、寝ていないのか顔色が悪い。俊麗の知的な美しさが損なわれた外見に、春狼は布の下で眉間に皺を寄せた。


「傷の具合は?」


 俊麗が火兎に問う。


「傷は軽く塞がっております。熱もあと数日も経てば落ち着くと、医官が申しておりました」

「そうか」


 俊麗は熱の感じない事務的な返事をする。じっと緋色の目で見つめられていることに気づき、春狼は意図が読めないその視線を見返した。


「な、何ですか」


 怪我などしおって、と小言が飛ぶのではないか。普段の俊麗なら、そのくらいの非情な台詞を吐いてくるだろうと春狼は思った。


 予想は外れ、俊麗は何も言わない。ただただ春狼を凝視するだけ。


 ――怖いんだが?


 口を一文字に結び、見おろしてくる彼に、恐怖さえ感じていた頃、俊麗はようやく口を開いた。


「いち早く体を元に戻すように。やることはたくさんある。働いてもらわないと困る」


 その尊大な言葉は傲慢そのものだ。


 しかし、春狼には労りのような響きを持っているように聞こえた。


 勝手に心に明かりがついて、居心地の悪い感覚で縛られる。嬉しいような、恥ずかしいような、もどかしいような。気持ちが不安定なのは、体を支配する熱のせいだろうか。


「承知いたしました、我が主」


 春狼は重い腕を持ちあげて、せめてもの形として、皇族への最大の忠誠である礼をとる。頭に掲げる春狼の手を、俊麗は柔らかな手つきでほどく。そして何も言わずに、部屋から立ち去っていった。






 浮浪児だった頃の影響か、春狼の体は丈夫にできている。薬があまり効かないという弱点はあるものの、ほとんどの毒にも抵抗力がある。


 火兎の甲斐甲斐しい看病のおかげもあって、ふた月も経つと、傷口は完全に塞がった。体調も微熱程度で済んでいる。


 寝たきりの生活でなくなった体力を取り戻すべく、春狼は適度な運動をして過ごした。火兎に体をほぐしてもらう程度から始まり、歩行練習や長時間立つ訓練に移行していく。


「春狼、私はそろそろ菫花部に戻ります」

「え⁉」


 一人で身の回りのことができるようになると、火兎は菫花部に戻ることとなった。驚愕の表情で固まる春狼に、火兎は苦笑する。


「当然でしょう? 私は俊麗様の菫ではないのですから」

「けど、さぁ」


 ひさしぶりに出会えたことによる嬉しさが、寂しさに変わっていく。


 不貞腐れて下を向く春狼の頭を、火兎は優しく撫でる。


「俊麗様の菫はあなただけです。これからもしっかりお務めなさい」


 決して菫になれとも、宦官になれとも言わなかった火兎。その彼が「お務めをしっかり」と言った意味を反芻する。春狼が俊麗を主と認めたことを、火兎は陰ながら察していたのだ。


 見守られていたことを歯がゆく感じながらも、春狼の心は温かさで満ちていく。


「でもね、春狼。決して無理はしないでください」


 火兎の目に映る切実な光に、春狼は頷いた。


「ああ。ありがとう」


 火兎に抱擁すると、彼もまた春狼の背に手を回した。


 春狼は気づく。火兎より低かった背は、いつの間にか春狼の方が高くなっていた。


「また会いましょう。それまで元気で」

「ああ。またな、火兎」


 惜しみながらも、二人は再び別れた。


 火兎がいなくなってからも医官による検診は続く。検診以外では、体の動かし方を掴み直すために春狼には軽い行動が許された。


 表庭を掃いていると、麗華殿の門が開かれていく。使用人の出入りは脇戸からが通例であるため、位の高い者であることを察して、春狼は出迎えの礼をとった。


 門が完全に開き切る前に、隙間から縫って入って来る人物。そのあとを慌てた様子の女官たちが続いた。


「春狼! ああ、春狼!」

「皇女様!」


 可丹は春狼の姿を捉えると、飛びつくように駆け寄ってきた。可丹の速さに遅れて、着物の袖がふわりと舞う。


「春狼! もう歩いて大丈夫なの? ひどい怪我をしたと聞いて、私、私……!」


 春狼の手のひらを握ると、可丹は明るい色の瞳から大粒の涙をこぼした。次から次に止めどなく流れ出てくる水滴に、女性への耐性がない春狼は困ってしまう。周囲の女官たちからの非難の目に耐え兼ねた春狼は、膝を曲げて可丹の顔を覗きこむ。


「皇女様。どうか泣かないでください。私は大丈夫です。もう元気になりましたから」


「本当? 私、もっと早くに見舞いたかったのだけど、俊麗お兄様やお母様に止められて。ようやく来ることができたのよ。ああ、春狼。あなたが無事でよかった!」


 無事を心から喜んでくれる可丹に、春狼の胸はいっぱいになった。温かい気泡がぷかぷかと浮かんで弾けていく。


「お兄様より先に死ぬことを、私は許しませんからね。春狼、約束してください!」

「はい。約束いたします」


 真剣な眼差しを向けられ、春狼は笑顔を返す。可丹はその表情に安堵したのか、最後にぎゅっと強く握りこんでから手を離した。


「あなたを一目見ることが大きな目的だったのだけど、お兄様にもお話があるの。案内してもらってもいいかしら?」

「もちろんです」


 女官を殿舎の外に待機させ、春狼は可丹を中へ案内する。二人で書室に入ると、俊麗は李とともに書類を挟んで難しい顔をしていた。


「俊麗様。可丹様がいらっしゃいました」

「何用だ、可丹。我は今忙しい」


 手ひどい拒絶のようでいて、その実、反応を返している点から俊麗は可丹に甘い。その些細な変化を、春狼は心の奥底で「可愛いところもあるな」とくすりと笑った。可丹も傷ついた様子が全くないことからすべて承知の上のようだ。


「では、簡潔に申し上げますね」


 背筋の通った居住まいをさらに正し、可丹は懐から紙状のものを取りだした。


「皇后様から、文を預かってまいりました」


 皇后、という単語に、春狼の心臓は大きく鳴る。顔を俊麗に向けると、彼はひどく顔をしかめていた。


「可丹。よもや皇后派に寝返ったか?」

「っ!」


 あまりにも直接的な責に、春狼は素が出そうになる。心優しい可丹のどこを見てそのような戯言を吐けるのかと、掴みかかって上下に揺すぶって問いただしたかった。


 俊麗の返しが予想通りだったのか、可丹は落ち着いていた。俊麗と同じ色の瞳が真っ直ぐに彼を射抜く。


「俊麗お兄様が危惧なさるのも当然のこと。信じてほしいというのは、私の身勝手な思いでしかありません。ですが誓って、私は俊麗お兄様を裏切るようなことはいたしません」


 反応の分かりにくい顔で、俊麗は可丹を見つめる。


 可丹は怯むことなく、なおも続けた。


「私が俊麗お兄様と仲がよいことを、皇后様は存じているようでした。お母様と芳妃様も親交が深かったから、それを見越して私に文を託したのかもしれません」


 無言を突き通す俊麗は、動かない目線のまま思案する。その短いとも長いとも言いがたい時間を、春狼たちはただ静かに待った。


「――文を」


 その言葉に可丹も、そして見守っていた春狼もほっと胸を撫でおろした。


 可丹から受けとった文を、春狼は事前に中身の確認をする。金糸の紐で巻かれた、上質な紙。危ない細工がされていないことを確かめて、内容を見ないまま俊麗に手渡した。


 鋭い眼差しで俊麗は文の隅々まで目を通していく。文末まで読んでから、俊麗は心情を整理するように息を吐いた。


「可丹、ご苦労だった。あとはこちらで対処する」


 俊麗からの労いの言葉に、可丹はふわりと花のような一礼をする。


「私の用はこれだけです。今日は失礼いたしますね」


 入り口まで見送ろうと動いた春狼に、可丹は頭を振る。柔らかな笑みを浮かべて、可丹は書室を出ていった。


「皇后様は何と?」


 そばに控えていた李が問う。俊麗は考えを巡らしているのか、重要点だけを吐き捨てる。


「内密に会いたい、と」


 あとは文の内容を見ろと言わんばかりに、皇后からの書状を投げだす。ふわりと舞い落ちそうになる紙を掴みとり、春狼と李はともに覗きこんだ。


「七日後に後宮と燈子宮の間の庭、ですか」


「――罠か?」


「わざわざ可丹様を介して伝えるでしょうか」


「油断させるため、とか?」


 疑問の残る書状に春狼と李は頭を悩ませる。椅子に体を預けた俊麗が宙を仰ぎ見た。


「誘われたからには行かねばならない。李はすぐそばで周辺の警戒を」

「かしこまりました」

「春狼」


 即座に返事をしようとして、春狼は驚愕で目を見開く。


「なんだ、その間抜け面は?」

「だって! 今、俺の名前!」

「名前くらい呼ぶが?」


 ――今まで呼んだことないじゃねえか!


 平然と答える俊麗に、春狼は怒りや嬉しさや苛立ちが混在し、最終的に鼻の頭がつーんと痛くなった。


「――春狼」

「っ! な、なんだよ⁉」

「そなたは我とともにいろ。皇后の言葉、決して聞き逃すな」


 俊麗からの命令を、春狼は今までもこなしてきたが、それが自分に課せられた初めての仕事のように感じられた。

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