第十二話
春狼は夜目が利く。明かりなどという高価な物を知らなかった幼児期に身につけたすべだ。わずかな月明かりで、畑へ盗みを働くためだった。生きていくために仕方のない犯罪に手を染めることに、罪の意識などなかった。
宮中に来てから活躍の場がなかった夜目だが、この時間でも探ることに不便はない。
――燈子宮に戻るか。それとも?
夕刻を過ぎた時間に、女官はめったなことでは出歩かない。夜になれば衛兵の数も増え、燈子宮と後宮を繋ぐ門も閉められてしまう。医療棟の扉も、おそらくこの時刻では鍵がかかっている。
――兵士を撒いて忍びこめるだろうか。
再び後宮に入ることは難しい。可丹への負担が大きくなり、正体がばれる危険性が高くなる。それは俊麗も望まないだろう。
ためらう時間も惜しい。春狼は覚悟を決め、頭に地図を思い浮かべた。
建物の壁を頼りにしながら移動を始める。直線上の距離はあまりないが、外壁を遠回りする必要があった。
昼から夕方にかけて忙しく活動していた女官の姿はなく、春狼は衛兵に見つからないよう、辺りを警戒する。
外壁を三つばかり抜け、半円型の門に立つ衛兵を幾度もやり過ごし、そのたびに浅く息を吐きだした。
医療棟が視界に入り、春狼の足も自然と速くなる。
衛兵は門前で見かけているため、しばらく誰も来ない。塔の扉に手をかけると、案の定鍵が閉まっていた。
もう一度辺りの気配を探り、体を屈める。懐から先の細い簪を取りだし、鍵穴に差しこんだ。カチャカチャという組み合わさった部分が外れていく音に耳を傾けながら、指先のささやかな振動を確かめていく。
解錠した手応えを感じて、速やかに体を扉の奥に滑りこませ、何事もなかったように扉を閉めた。
春狼が鍵開けの技術を身につけたのは、三つにもならない年の頃だった。
満足に言葉を話すこともできず、話し相手は浮浪の老人ただ一人。老人は盗みを繰り返して、貧民集落の端に流れついたらしい。春狼の素の言葉遣いが荒いのは、老人の乱雑な言葉遣いを真似して覚えたのが始まりだった。
盗みをするときに大事なことは、自分よりいくらも上の者の家に盗みに入ることだと老人は言った。そのような家の扉には必ず鍵がついている。その鍵を開けることが、盗みの第一歩だと老人は春狼に教えた。もちろん鍵開けの技術とともに。
春狼がどんな鍵でも開けられるようになる頃には、老人は病に罹り、呆気なく死んだ。集合墓地に入れてくれるような仲間思いの者も、金目の物を一切持たないような老人の死体回収をする者も、貧民集落にはいなかった。
腐乱死体になり、虫に食われて溶けてなくなっていくさまを、春狼は見ていることしかできなかった。
孤児のときの技術が役に立つ日が来るとは思わなかったものの、いつも細い棒を懐に隠し持ってきた。それは老人からの教えが、ずっと春狼の中に根づいていたからだ。
――どこにいっても、俺は孤児で、下僕で、たった独りだ。
心寂しさを紛らわすように、簪を懐に戻し入れる。春狼は書庫がありそうな日当たりのよくない奥の部屋を目差す。
書庫は一階の突き当りに存在した。文机にあった手燭と火つけ棒で辺りを照らし、中を見渡す。
机を正面にして、厨の倉庫と似た造りの木棚が奥まで続いている。中央に通路があり、両隣に木棚の側面が見える。側面には医術書から、医療記録までの分類が記されていた。
右端七つ目の棚に今代の皇帝と、皇后を先頭にした妃たちの名。皇帝の十三人の妃の記録がずらりと並び、埃に喉と鼻をくすぐられながら、その中から芳妃の名を見つけた。
冊子を素早くめくると、話に聞いていた通り体調は優良そのものだった。定期的な診断のときにしか医官に関わっていないようだ。
それも最後に書かれた「死去」の文字に覆される。
食事中による呼吸困難、気道狭窄、意識はなく失神した状態――そのすぐあとに、芳妃は亡くなった。
医療記録には、当時の様子や治療法などが細かく記されている。まるでこれだけの努力をした結果、仕方なく亡くなったのだという釈明のように。
上記にある医官の名前をもう一度見てから、ふと芳妃という主人がいなくなった担当の医官はどうなったのかと疑問に思った。
他の妃の記録冊子をめくり、医官の名前を探すことを繰り返す。そうしてしばらく読みこんでも担当医官の名はどこにもなかった。芳妃の死を看取ってからの配属先がどこにも書かれていない。
――芳妃の死によって罰を受けた? しかし、監査部も突然死と認めている。避けようがなかったはずだ。
春狼は違和感を覚えながら、冊子を元通りにして書庫をあとにした。行きよりも足早に医療棟の外に出る。周囲を観察しながら、手先だけで鍵を閉めた。
ところどころにある灯篭に影が映らないように気をつけながら、春狼は後宮と燈子宮を繋ぐ門の方へと走る。
足にまとわりつく着物が邪魔に感じた春狼は、誰も見ていないのをいいことに膝上までたくし上げた。春狼の美しい足が、闇の中で唯一の異物のように白く光る。
門に近づくにつれて石畳は減り、砂利石を混合した道となる。春狼は前掛けを破ると、音を最小限にするために、布を細長くして足に巻きつけた。
境の門近くまで忍び寄り、建物の陰から覗きこむ。門の前には後宮側、燈子宮側にそれぞれに一人ずつ衛兵が立っている。
――ばらけさせるか。
春狼は足元にある手頃な石を拾いあげ、自身とは対角線上の、塀向こうの燈子宮側に大きく石を投げた。放物線を描いた石は、他の砂利石に当たって弾けた音が響く。
「ん? 今の音はなんだ?」
「そっち側だろ? 見てこいよ」
「ちくしょう! 面倒くせぇなぁ」
衛兵たちの覇気のない声を聞き、燈子宮側の衛兵が移動する足音に耳を澄ませる。
塀の石段部分に足をかけ、反動とともに瓦屋根を掴むと、一気に上半身を乗りあげる。顔を少しだけ出して、衛兵の姿がないことを確認する。
――よしよし、誰もいないな。
反対側も砂利石が敷き詰められているため、音が響きやすい。その影響で兵士の足音が遠くにあることが分かるが、油断することはできない。身軽に全身を屋根にあげ、壁に足を伝わせながら、重心を足裏に集中させて地面に着地する。微々たる音は出たものの、周囲の風音にかき消され、春狼の存在は闇に溶けこんだままだ。
足元に力をいれたまま、砂利石の音を立てないよう注意しながら、麗華殿の方向を目指して春狼は走った。麗華殿を護る役は李が担っているため、夜の通路を歩く物好きがいない限り、人と遭遇することはない。
――くっそ! 走ってばっかだ!
体は汗と埃まみれで不愉快だ。春狼は久しぶりに味わう気持ちの悪い感覚に、なぜか笑いだしたくなる。
本来の自分は薄汚く、髪に虱が沸いているような浮浪児で、綺麗な着物をまとって上品を演じている方がまやかしなのだ。それを自覚すればするほど、大声で叫びだしたい衝動に駆られる。
――あーー‼ どっちつかずだな、俺は!
麗華殿の屋根瓦が春狼の視界に映る。あと少しだと思うと踏みだす足も逸(はや)る。春狼は曲がり角で停止しないまま走り抜けた。勢いよく曲がった先に、麗華殿の門があることを疑わない。
実際に、そこに門はあった。しかし、門の前に座りこむ、予想外な人影が目に入る。春狼の心臓はどっと大きく鳴った。
春狼は曲がり角から体を出した状態だった。春狼と人影は、そのまましばらく視線が合う。爽快な走り振りも息を潜め、春狼の小走りは段々と衰えていき、門の手前で完全に足を止める。
「そなたは、何者だ?」
――それは俺の台詞だが⁉
人影は俊麗に似た鷹揚な口ぶりで問う。春狼は困惑を隠すことができないまま、同じ言葉を心中で叫んだ。
春狼は混乱の境地にあった。浅く息を吸いこみ、麗華殿の門前に座る者の姿を観察する。
門前に下げられた吊り灯篭の明かりによって照らされた青年の顔は、汚れ一つない滑らかな白い肌をしていた。猫背になって座っているが、立ちあがればすらりと細長い体をしているだろう。
服装は夜着をまとっているものの、生地の作りは高価な物だとうかがえた。ゆるく結われた紫交じりの黒髪は、肩から胸へと前に流されている。その髪紐も、提灯の光に照らされて、妖しくきらめいていた。
――年齢は俊麗と同じくらいか、上か? 仕立てがいい服。健康そうな肉付き。十中八九、皇族だ。なんでこんなところに⁉
そのときようやく、自分の姿が女官着であることに気づいた。前掛けはぼろ雑巾のごとく裂かれ、髪も化粧も走ったことで乱れてしまっている。到底ただの女官には見えない格好だが、皇族を敬わないわけにはいかない。春狼は急いで頭を下げて礼をする。
燈子宮にいるはずのない女が、俊麗の殿舎を目指していたと、他の皇族に知られるわけにはいかない。うまい言い訳を考えようと頭を巡らせるが、背中に冷たい汗が流れるだけだった。
「使いの、者です」
最適な言い訳が思いつかず、春狼は情報を多く渡さないことに重きを置く。
最低限の正体に、再び誰何されるかと気を引きしめたものの、青年は尋ねておきながらも興味がない様子。「そうなのか」と自身で話を切りあげ、追及をする素振りがない。
青年は緊張感なく、膝に肘を置き、手の甲に顎を乗せる。無気力状態の彼は、途方もない独り言のように問う。
「そなた、ここがどこだか分かるか?」
本当に困っているといった彼の声に、春狼は答えに迷う。青年の外見から一般人や刺客の類でないことは一目瞭然だ。どこかの殿舎から抜けだした迷子であると言われた方が信じられる。
「……第四皇子であらせられる、俊麗様の住まう殿舎の前です」
言葉選びに頭を悩ませながらも、春狼は正しい情報を告げて様子を見ることにした。
すると、青年は「まことか!」と顔をぱっと華やかせる。その顔が子どものようにあざとく輝くため、春狼は一瞬たじろいだ。
「俊麗の! ここは俊麗の殿舎なのか!」
背後の門を振り返って、嬉しそうな表情をみせる。それも一瞬のこと。春狼の戸惑いの視線に気づいたのか、青年は気まずそうに頬をかいた。
「いやぁ、実は道に迷ってしまってな! 抜けだしたのはいいが、帰り道が分からなくなってしまったのだ。だが、ここが俊麗の殿舎でよかった。他の
青年は立ちあがり、尻についた汚れを払う。袖に手を入れてたたずみながら、彼は再び麗華殿を眺める。
「なぜ、このようなところへ?」
青年は抜けだしたと言った。何か目的があって外に出ていたのならば、春狼にとって都合の悪い展開になるかもしれない。いるはずのない女官(、、)の情報を、よそに流されるわけにはいかなかった。
「星を、見ていたのだ」
気を張る春狼に反して、青年はどこまでも自然体だった。
「星?」
「今日は星がよく見える日なのだと聞いて、楽しみにしていた。見あげているうちにこのようなところまで来てしまった。――咎(とが)められるとは分かっていたのだ。だが、星は変わらず綺麗で、空はどこまでも高くて……色々とどうでもよくなってしまった」
青年は渇いた笑いをし、空を覆う暗闇に散った小さな光の点を見あげる。
「空に輝く星たちを見ていると、自分という人間は、なんて粗末な存在なのだろうと思えてくる」
宮中の空は広くない。建物の屋根や塀が視界に入り、邪魔をする。至る所に石灯篭が設置され、夜であっても宮中の外と比べてだいぶ明るい。青年はそれを知らないのか、うっとりと空を眺めている。
しみじみと憂いを吐く彼の目は、美しい星を映しているというのに、明るく輝いてはいなかった。疲労のこもった暗さが瞳ににじんでいる。
春狼はその目の色を知っていた。諦め、苦悩、それでも前を向いていなければならないという責任。俊麗の目と、彼の目は似ていた。
見るからに怪しい春狼を青年が咎めないのも、すべてを諦めているからか。夜に殿舎を抜けだすという危険を冒すのも、疲れに限界が訪れたからの行動か。
青年について、推し量ることが春狼にはできない。他の皇子たちのように、容易に読み取らせてくれない。
戸惑いに似た感情を抱く春狼に、青年は気安い口調で言葉を投げかける。
「そなたは俊麗に仕えているのか?」
探るような響きではなかった。しかし、そう思わせるのが彼の手腕である可能性を捨てきれない。
女性が第二皇子以下に仕えているはずはない。間違いがあって、第一皇子よりも先に世継ぎが生まれては困る。そのための菫という仕組みだ。
――まさか、こいつ……?
その仕組みを知らない者がいるはずはない。いるとすれば、その仕組みを利用しない者だけだ。
春狼の体に緊張が走った。青年は視線を空から外し、じっと春狼を見つめる。
「そなたは俊麗に仕えることができて幸せだな」
「え?」
そんなことを言われたのは初めてだった。俊麗は菫花部にも噂が流れるほど、長いこと口がきけない振りを演じている。宮中で静かに生きていくための手段として、俊麗はその道を選んだ。
端から見て、会話をすることができない俊麗の菫は、幸せではないだろう。出世は望めず、寵愛を受けられるかも分からない。皇子付きの時点で勝ち組と捉える者もいる反面、外側しか知らない者にとっては俊麗に仕えることに利益を感じないはずだ。
「俊麗こそが、次代の皇帝にふさわしい」
青年は世間の評価とは真逆を口にする。その台詞は力強い意思を持っていて、自分の言葉に確固たる自信があるようだった。
「このことは、二人だけの秘密だぞ」
青年は人差し指を口元に近づける。眉根を下げ、薄幸な微笑みを浮かべた。
何を言うのが正解か分からず、春狼は口をつぐむ。下手な台詞を吐いて、俊麗の不利になることは避けたい。それでも目の前の青年に何か言葉をかけたいと思わせた。
春狼が声を発する暇はなく、人の喧騒が近づいてきた。殿舎を囲う塀の向こう側は明るく火が照っており、夜には不似合いな騒々しい気配に青年も顔をあげる。
「ああ、見つかってしまったな」
青年は気落ちした声音を発して肩を落とした。再び春狼の方に儚げな顔を向ける。
「付き合わせて悪かった。もう抜けだすような真似はせぬから、今宵のことはどうか忘れてくれ」
それを最後に青年は騒がしい声の方へと去っていった。青年が塀の角へと曲がる際、家臣たちの青年の名を呼ぶ声が聞こえてくる。
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