第十一話
可丹は七日ぶりに麗華殿を訪れ、着いて早々春狼に化粧を施した。
一刻ほど滞在してから、可丹は敷地内に待たせていた女官を引き連れて去る。後宮へと帰る可丹の、お付きの女官の最後尾に春狼はさりげなく続いた。
優雅な歩みで燈子宮と後宮とを繋ぐ庭園を抜け、予想外にも簡単に春狼は後宮へと入りこむことに成功する。
一人女官が増えたことに、他の女官が気づくのではと春狼は恐々としていた。しかし、女官の増員など日常的だと言わんばかりに、他の者は春狼の存在を気にするような素振りはない。これはある意味、刺客の手引きに悪用されるのではないかと、自身の状況を棚にあげて不安に思う。
可丹の住まう殿舎に着くと、可丹は女官たちに指示を出す。そして最後に、春狼を呼びよせた。
「あなたは厨へ。地図はいる?」
可丹が差しだそうとした地図に、春狼は首を振る。広く複雑な造りの多い、後宮の建物の配置は、すでに春狼の頭の中に入っていた。
「本当に記憶力がいいのね」
感心した様子の可丹に、火兎以外に褒められた経験がない春狼は、歯がゆく気持ちに身を包まれる。
可丹と別れ、頭上で照っている太陽の下で、春狼は合理的な道順で厨へと向かう。多くの女官とすれ違うものの、春狼の存在に気づく者はいない。皆それぞれ忙しそうに仕事に勤しんでいる。
煙が遠くからも確認できたため、厨の場所はすぐに分かる。倉庫の位置もすでに把握しているため、一直線に目的地へ進んだ。
「そこのあなた!」
反射的に声の方に視線をやると、髪を高くまとめ上げた女官がこちらに歩いてきた。
――あの髪結いの仕方、それに服の色……厨をまとめる長だ。
厨を管理する厨長に呼び止められた春狼は、平然を装いながら頭を下げた。
「あなた、所属は?」
品定めするかのような視線。容赦なく上下する目の動きを頭上で感じながら、春狼は合わせた手でぐっと腹に力をいれた。
「第五皇女・可丹様の元に新しく配属された者でございます。本日は、可丹様の体型管理にまつわる記録を、拝借させていただきたく参りました」
口周りの筋肉は気を抜けば早口になる。首を天井に釣りあげたような高い声を出し、前もって考えておいた台詞を吐いた。
遠慮のない視線が途切れることはなく、男であると露呈してしまったかと、心臓が早鐘を打つ。下げた頭から少しずつ血の気が下がっていった。
「記録なら貸出帳に記載すれば持ちだし可能よ。――その前に、こちらを少し手伝ってくれないかしら? 夕餉に間に合わせないといけないのよ」
断る暇を与える間もなく、素早く動きだした厨長に背中を押される。春狼は困惑と疑問符を浮かべたまま、厨の裏手に連れていかれた。
裏手には大きな籠が三つ。中には山盛りに詰め込まれた芋が入っている。その籠の周りを木箱の椅子が囲っており、近くには屑物入れがちょこんと置かれていた。
まさか、と思ったのも束の間、強引に木箱に座らせられる。
「他の子も連れてくるから、あなたは先に芋を剥いていて。可丹様には私からお知らせしますから」
「あ、あの、私!」
厨長の圧力に否と言うこともできず、またしても強制的に包丁を持たされた。
それから半刻ほど、予定外にも芋の皮剥きに勤しむ羽目となった。女官が増えるたびに多種多様な野菜が運びこまれ、その度に春狼は包丁を動かし続けた。他の女官と隣り合っているため、一人だけこの場を抜けることもできない。
太陽の影になっているとはいっても、蒸し暑いのは変わらない。厨の裏手でもあるため、煙たい空気が様々な匂いとともに充満している。普段あまり汗をかかない春狼だったが、皮膚の上にじんわりと汗が伝っていく。
すべての野菜の処理が終わると、厨長は次々と別の仕事を持ってくる。下っ端の女官が反論できるはずもなく、春狼は洗い物から盛りつけまでやらされた。
――俺は、一体何をやってるんだ……⁉
後宮に忍びこんだ本来の目的を見失いかけたとき、ようやく厨長から解放の言葉が告げられる。
「倉庫は開いてるわ。貸出帳への記載を忘れずに。それと、火を扱うときは管理に気をつけるように」
「はい。……ありがとうございます」
用済みとばかりに倉庫の前に放置された春狼は、「火の管理」という言葉に空を見あげた。先程まで雲一つなかった青空は、暗い群青と赤い夕陽の二層に別れて広がっていた。
――予想以上に時間を取られてしまった……。
「作戦中止」という単語が頭をよぎるが、都合よく辺りに人はいない。春狼は逡巡したものの、急ぎ足で倉庫の中に踏み入った。
倉庫の中は、土と古紙の黴ついた臭いが漂っており、十分に鼻が機能しない。肌にまとわりつく埃が汗に張りついて不快だった。
入り口に手燭を発見する。垂れさがった灯篭から火をもらって掲げる。右を照らすと、日持ちする食材や野菜が麻袋や木箱に入って積みあげられていた。左側に火を向けると、見通せなかった奥まで木棚が続いているのが分かる。
木棚には黄ばんだ色の冊子が積み重なっており、一番上に重石が乗せられている。冊子にはそれぞれ、後宮で暮らす女たちの名前が書かれていた。
――皇后、第一側室の貴妃、第二の媛妃、第三の淑妃。
位の順に横一列に並べられている冊子の中で、他の者よりかなり厚みの少ない冊子があった。
――第四側室、芳妃!
辺りに気配を澄ましながら、春狼は一番上にある冊子を手に取った。ぱらぱらと中をめくると、墨と古紙の臭いが鼻をくすぐる。
最後に記された部分――芳妃が亡くなった日の食事を確認する。
――おかしいところはない。皇后との食事会だから、いつもより食事内容がいい。けど、それだけ。
かすれた墨の字を追いかけて、春狼はふと「何か」に引っかかりを覚えた気がした。
もう一度最期の食事に目を通す。しかし、どこを不可解に感じているのか、一向に分からない。
――勘違い? なんだ、このしっくりこない感じは?
直感は侮れないものの、違和感の正体を言語化するのは難しい。一度頭の中を白紙にして、春狼は内容のすべてを記憶すると、冊子を閉じて棚に戻した。
皺の跡の通りに重石を戻し、四つ隣の皇后の冊子を手に取る。一年前の春まで日づけをさかのぼり、当日の食事内容を照らし合わせる。皇后が食していたのも、芳妃のものと変わらない。食材も作り方も、二人には同じものが提供されている。
――やはり、食事は関係ないのか?
毒物の線はなく、芳妃の体調は死ぬ直前まで良好だったという。食事中に亡くなっただけで、食に関わることが死因ではないと考える方が順当だ。
――俊麗の杞憂か。宮中で暮らしきて、疑心暗鬼になっているだけという可能性はあるか?
突然母親が死に、どこに向けたらいいのか分からない混沌とした感情を、復讐と名づけようとしているだけかもしれない。
本当にそうだろうか、と春狼は冊子を戻す手を止めた。
あれほど何重にも演じるための面を被り、多くの書物を積みあげ、課題をこなし続ける俊麗が、ただの憶測だけで復讐心を燃やしているだろうか。
二人は契約の関係で、信頼などとはほど遠い。歩み寄りという歯がゆい関わりは望んでいない。春狼は真実を掴みとるための、忠実な駒であればいい。駒が勝手に歩きだすのを俊麗はよしとしないはずだ。
しかし、春狼は人間である。思考を巡らせ、感情が沸き起こる。春狼の性格上、腹の探り合いは好まない。信頼しなくていいから言いたいことは言えと、叫びたくてたまらないのを耐えていた。
皇后の冊子を丁寧に棚に戻し、春狼は蝋燭の火をふっと吹き消した。倉庫を出ると辺りは暗く、輪郭としての建物が浮かびあがる。新月とまではいかないまでも、月は細く、代わりに星が瞬いていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます