第十章
「――俊麗様」
微妙な空気が流れたとき、書室に控えていた李が慇懃(いんぎん)な礼をして声をかける。
「なんだ」
「
「そうか」
敷布の上に資料を置いたまま俊麗は立ちあがる。春狼も慌てて身なりを整えたが、俊麗は早々に応接間へ向かっていった。
「可丹様って?」
置いていかれた春狼は李に問いかける。
「第七側室、
「第五皇女?」
第七側室については俊麗から教えられていた。学問に優れ、男に生まれていれば、高級官吏を務めただろうと悔やまれるほどの才女。
その娘である第五皇女・可丹が、なぜ第四皇子の元を訪れるのか。
どういう行動が適切か判断できず、春狼は応接間の扉の外から声をかける。
「俊麗様、春狼でございます」
「遅い。入れ」
先程と全く変わらない、いつもの態度で入室が許可される。短い時の間に可丹は立ち去ったのかと思ったのも束の間、応接間に入るとそこには見知らぬ少女の姿があった。
「あっ」
咄嗟にもれた声を、春狼は袖で抑えた。急いで頭をさげる。
俊麗と同じ黒髪に、やわい紅の玉を閉じこめた瞳。可憐とは彼女を表した言葉にちがいなく、無垢な可愛らしさがある。俊麗より三つばかり年下の少女は、この世の苦渋など、まるで知らないような穏やかな顔をしていた。
可丹は春狼に気づくと、朗らかな声を発した。
「あなたが俊麗お兄様に新しく仕えている方ね! まあ、なんて美しいのでしょう! お会いしたかったわ」
美しいと過剰に褒める可丹に、春狼は圧倒されて口も開けない。助けを求めて主人に瞳を向けると、俊麗は呆れた様子で壁に寄りかかっている。その態度が外では見せない素の彼であることを不思議に思う。視線に気づいた俊麗は、平然と疑問に答えた。
「可丹は我の協力者だ」
「はあ⁉」
礼儀も忘れて、春狼は思わず非難の声をあげる。
「聞いてないぞ⁉」
「言ってないからな」
悪びれずに言う俊麗に、春狼は頭が真っ白に固まったかと思うほどの苛立ちを覚えた。無視をする俊麗の態度が、余計に春狼の心を逆撫でる。
悪い空気を霧散させるように、可丹は春狼に飛びついた。両手で春狼の手を包むと、極めて至近距離で顔を覗いてくる。
「ねえ。あなた、お名前は? 俊麗お兄様は教えてくれないの」
甘い香りと無邪気な笑みに押され、春狼はひゅんと息を呑んでから、慌てて声を絞りだした。
「しゅ、春狼と申します」
「春狼! 私は可丹よ。よろしくね春狼!」
押しの強さに戸惑いつつも、純真な輝きを向けてくる可丹に、春狼はこくこくと小刻みに頷いた。
文机の前に座って、紙束をぱらぱらと適当にめくっていた俊麗だったが、挨拶の声が終わったのを聞き取ったのか、顔を上げて可丹を呼んだ。
「何かあってからでは遅い。殿舎の中に女官を連れてきていいから、付き人をそばに置け」
その台詞は妹を案じる、真摯な義兄の姿だった。対して、可丹は器用に片方の頬を膨らませると、拗ねた様子を見せる。
「でもそうしたら、素の俊麗お兄様には会えないでしょう? 私はにこにこ笑顔のお兄様も好きだけれど、キリっとした顔のお兄様にも会いたいですわ」
些細で愛らしいわがままに、俊麗は小さく溜息を吐いた。
無邪気な笑顔で我を通す可丹に、「皇族の血」を感じざるを得ない。純粋なようでいて、自然と尊大になるのをしつけられている。
――そういえば、可丹様はなぜここに来たんだ?
俊麗は机から離れると、春狼と可丹の前に立った。
「可丹と、菫に命じる」
その言葉を待っていたとばかりに、可丹は慣れた様子で深々と礼をとる。
「何なりとお申しつけください、俊麗お兄様」
可丹のあまりにも洗練された動きに見惚れ、春狼は一拍遅れて可丹に倣った。
「可丹。七日後、菫に女官の化粧を施し、後宮に連れていけ」
「はい。承知いたしました」
――はあ⁉
即座に受け入れた可丹。問い質したくなる言葉を、春狼は必死に噛み砕く。
春狼は自由を対価に俊麗と契約を交わしている。どのような無理難題も、俊麗から命じられたことならば、黙って従う必要があるのも事実だ。
しかし、後宮は女の園である。嫉妬と猜疑にまみれた、泥沼の深い場所。女という武器を最大限に使い、皇帝を魅了する花園。
春狼は菫という役を担っているものの、性別はれっきとした男だ。皇帝でも親戚でもない、ましてや衛兵でもない男が後宮に入ることはあってはならない。
「可丹の化粧の技術は優れている。そなたを立派な女に化けさせるだろう」
簡潔とした俊麗の説明に、春狼は顔が歪みかける。
「そんな……何が何でも無茶では?」
春狼が十五の男であることを理由に挙げようとすると、可丹は「あらぁ?」と不思議そうな声をあげる。
「春狼、あなたはとても美しいわ。女官にしては綺麗すぎる顔だから、少し手を加えなければならないけれど、女性と言っても十分通用するでしょうね」
可丹の後押しに春狼はうろたえる。
俊麗は無慈悲にも、春狼に女官服を放り投げた。
「可丹に持ってこさせた服だ。これを着て、可丹のお付きの者と合流しろ。後宮に着いたら可丹の指示という振りで、指定の場所へ」
そなたのすることは二つだ、と俊麗は親指と人差し指を立てる。
「母上が亡くなった日の食事内容を記憶して来ること。書き記す暇はないだろうが、そなたならば一言一句もらさずに頭に叩きこめるな?」
確認ではなく断定の問いを投げかけられ、春狼は否定しようのない事実に頷いた。
「すごいわ春狼! あなた、記憶力がいいのね」
可丹の素直な称賛の声に、緊張した空気は一瞬にしてなくなる。気の抜けてしまった空間に、俊麗は咳払いを一つして続ける。
「次に、後宮専属の医官による記録。おそらく医療棟の書庫に管理されているだろう。当日の状況を確認できる情報を盗んでこい」
俊麗の母・芳妃は、後宮で亡くなった。芳妃の死について、春狼は俊麗から概要を伝えられている。
芳妃は皇后の食事会に呼ばれた。そこで皇后と同じ料理を食し、食事中に息を引きとった。
これらは〈十部〉の一つ、監査部が調査した記録を、俊麗が盗みとって手にいれた情報だ。正式な調査の元、芳妃は突然死として片づけられた。本来、最も問題視される食事の中に、毒物の混入は見られなかったからだ。そして、芳妃の体からも毒物による症状はなかったとされている。何者かが意図的に情報を操作したとも考えられるが、正確で公平さを規範とする監査部が見誤っているとは考えにくい。
「監査部の記録に、全部まとめられているものじゃないのか?」
春狼の疑問に、俊麗は腕を組みながら、不愉快極まりないという渋面で答える。
「監査部の記録は簡易化されたものしか残されていなかった。厨から提供された情報は食事内容まで書かれておらず、担当医官の情報も、駆けつけてからの大まかな状態しか書かれていない」
「それは監査部の職務怠慢じゃ?」
「監査部の見直しは最もだが、一年前の事件を掘り起こしたくない人間がいることは確かだな」
呆れと諦めの色が濃い顔で、俊麗は鼻を鳴らす。
春狼が後宮に行ってすることは、厨と医療棟に保管された芳妃死亡の当日の記録を、細部まで記憶してくること。監査部に提出していない補足の記録が必ずあるはずだ、と俊麗は言った。
男であると一目でわかる俊麗や李は、後宮に堂々と入れない。頼みの綱である可丹も、女官を撒いて出歩くことはできない。ゆえに、春狼の活躍が期待される。
「――できるな?」
「できないつったってやらせるんだろうが!」
俊麗の肯定しか受けつけない問いに、春狼は当たり散らすように返した。
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