第6話 副団長は平和にパンを食べたい
王都の朝は早い。
石畳を照らす陽光、喧噪に満ちた市場の活気、パン屋の香ばしい匂い──それはいつもの風景。だが、その日だけはほんの少し、何かが違っていた。
なぜなら昨夜、王都の社交会にて――一人の副団長が、王女を襲った暗殺者集団をたった一人で鎮圧したという前代未聞の事件が起こったという噂が駆け抜けていたからだ。
にもかかわらず──
「……ふぁ……今日も朝から……騎士団の訓練か……」
その張本人、レオン・アーディルはというと、名誉騎士用の仮住まいとして用意された部屋で、布団にくるまったまま、寝ぼけ眼で起き上がっていた。
寝癖が跳ね上がった金髪、軽くクマの浮かぶ目元。本人はただの軽い寝不足と思っていたが、彼の目に宿る静かな光を見た者は皆、「戦士の疲弊だ」と勝手に震えていた。
◆
一方その頃、騎士団本部の作戦会議室には、重苦しい……というより異様に熱気立った空気が漂っていた。
「──それで、最初に彼が動いたのは、王女殿下の椅子が倒れる前だったんだ。椅子が、だぞ?」
「つまり……殺気を"感じた"だけで先手を打ったということか!? あの距離で……信じられん……」
「それに、彼は一切武器を使っていない。素手でだ。しかも誰一人、致命傷はなし」
「「「これはもう、"神業"だ……!」」」
レオンが『暗殺者十数人をたった一人で制圧した』という情報は、すでに大げさな脚色とともに、王都全体に広まり始めていた。
──「一瞬で影のように動き全員を気絶させた」
──「いや、実はあれは古の王家の血を引いている隠れた英雄だ」
──「まさか、彼があの伝説の“白銀の死神”だったとは……!」
などなど、9割以上は嘘である。もはや目撃者もたくさんいる中で、真実はほとんど語られていなかった。
だが、実際に彼が毒を見抜きグラスを叩き切ったことは、王宮にいた全員が目撃していた。その一点だけが唯一の真実だった。
◆
──そしてその頃。
レオンは市場のパン屋で、焼きたてのクロワッサンをじっと見つめていた。
「んー……今日は、こっちの方がバター多め……」
「お、おい……あれ、もしかして……」「……英雄様……!?」「違いますって、ただの平凡な騎士ですってば……」
そう言ってレオンが笑うたび、周囲の民たちは**「身分を隠してるんだ!」**「謙遜すら貴族の美徳!」と勝手に興奮していた。
レオンがうっかりトングを落としただけで、「何かの暗号では?」と耳をそばだてる者も出る始末。
◆
その頃、王城の高塔では──
「……やはり只者ではないわ」
王女クラリスが窓辺に立ち、レオンが市場を歩く姿を見つめていた。
(……あの人には、人を惹きつける何かがある。護られた感覚ではないの……信じられるという"確信"……)
クラリスはすでに父王へ、「次代の象徴として彼を登用すべき」と進言する決意を固めていた。宮廷内の保守派が何を言おうと、彼女の中ではもはや揺るぎはない。
◆
そして──王都の裏路地。
「チッ、あの小僧……まるで民の英雄気取りじゃねえか」
元貴族家の落ちぶれた令息が、暗がりで酒瓶を蹴り飛ばす。
「王女に気に入られた程度で……調子に乗りやがって」
彼の背後には、黒装束の者たち。前回の襲撃を指揮していた集団の生き残りである。
「次は失敗しねえ……次こそ、"化けの皮"を引き剥がしてやるよ」
暗殺者たちの影が、再び王都に忍び寄る。
◆
──そしてレオンは今、
「クロワッサンと、あとこの小倉パンください。袋、分けてもらえます?」
と、ごく普通に日常を過ごしていた。
だが彼の何気ない一言一言が、民衆にとっては「思慮深き英雄の嗜み」として伝説になっていく──
その全てを、本人はまだ知らない。
───物語は、静かに、しかし確実に加速し始めていた。
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