第33話 月曜日の凱旋と、中間管理職の憂鬱

月曜日の朝。


(…はぁ)

彼は、心の底から深いため息をついた。

昨日の、あの狂乱の一日が、まるで遠い昔の夢のように感じられる。

優勝賞金1億円。住宅ローンの完済。そして、世界の頂点に立ったという、一瞬の、しかし確かな高揚感。

だが、その祝祭の熱狂は、一夜明けた月曜日の朝の、この暴力的なまでの日常の前では、あまりにも儚く、そして無力だった。

そして今から、彼は自らの意思とは全く無関係に、その人生において最も縁遠いと思っていた役割を、演じなければならなかった。

「時の人」。

あるいは、「英雄」、と。


彼が、会社の最寄り駅で人の波に吐き出されると、その重い足取りで、灰色のコンクリートジャングルの中にある、自らの戦場…オフィスへと向かった。

エレベーターを待ち、乗り込む。

その、密室となった空間で、彼は気づいた。

いつもであれば、スマートフォンの画面に視線を落とすか、あるいは虚空を見つめているだけの同僚たちの、その視線が、明らかに自分へと注がれていることに。

ヒソヒソという、囁き声。

「おい、あれ…」「マジか、本物だ…」

その、あまりにも居心地の悪い空気。

それに、健司はただ、その無表情の仮面を、さらに厚くすることしかできなかった。


オフィスフロアに足を踏み入れた瞬間、その空気は、確信へと変わった。

彼が、自らの部署であるシステム管理課の島へと向かう、その短い道のり。

その全てが、まるでレッドカーペットの上を歩いているかのような、奇妙な感覚だった。

すれ違う社員たちが、皆、一瞬だけ動きを止め、驚きと、好奇心と、そしてわずかな畏敬の念が入り混じった、複雑な視線を、彼へと向けてくる。

彼は、その全てを無視した。

ただ、自らのデスクという名の、唯一の聖域へと、その歩みを進めるだけだった。


だが、その聖域ですら、もはや彼の安住の地ではなかった。

彼が、その使い古されたオフィスチェアに腰を下ろした、その瞬間。

彼の、数少ない部下たちが、まるで狼煙でも上がったかのように、一斉に、彼の元へと集まってきたのだ。

その先頭にいたのは、やはり、あの男だった。

入社二年目の、山田。

その目は、もはやただの好奇心ではない。

一つの、生ける伝説を前にした、信者のように、キラキラと輝いていた。


「か、課長!」

山田の、その上ずった声が、静かなオフィスに響き渡る。

「**いやー凄いですね課長!**見ましたよ、昨日のグランプリ!マジで、鳥肌立ちました!」

その、あまりにも純粋な、そしてどこまでも熱狂的な賞賛の言葉。

それに、健司は深く、そして重いため息をついた。

「…ああ」

彼が、ようやく絞り出したのは、そんな、あまりにも素っ気ない一言だけだった。

だが、山田の熱狂は、止まらない。


「最後の、あの一撃!ヤバすぎでしょ!解説の人も、絶叫してましたよ!『これがSSS級の力かーっ!』って!俺、マジでリビングでガッツポーズしちゃいましたもん!」

「俺もです!」

山田の隣で、別の部下が、興奮したように続く。

「あの、道中での圧倒的なスピード!他のチームが、まるで止まって見えましたよ!課長の指揮、神がかってました!」


その、あまりにも的確な、そしてどこまでも健司の神経を逆なでする、賛辞の嵐。

それに、健司はただ、その死んだ魚のような目で、部下たちの顔を、一人一人見つめ返した。

そして彼は、その中間管理職としての、完璧なポーカーフェイスの裏側で、静かに、そして深く、戦慄していた。

(…こいつら、まさか、全員見てやがったのか…)

彼の、そのあまりにも個人的で、そしてどこまでも不本意な「週末の趣味」。

それが、今や、この会社の、全ての人間が知る公然の秘密と化している。

その、あまりにも恥ずかしい、そしてどこまでも面倒くさい現実に、彼の胃が、キリリと痛んだ。


彼は、その全ての賞賛を、いつものように、完璧な謙遜で、いなした。

「いや、俺は何もしていない。ユニークスキルと、仲間が凄いだけですよ」

その、あまりにも模範的な、そしてどこまでも本音の一言。

だが、その言葉は、部下たちの熱狂の炎に、さらに油を注ぐだけだった。

「またまたー!ご謙遜を!」

「あの冷静な指揮!まさに、うちの課のプロジェクトを回してる時と同じじゃないですか!」

「俺たち、最高のリーダーの下で働けて、幸せです!」


その、あまりにも眩しい、そしてどこまでも純粋な尊敬の眼差し。

それに、健司はもはや、何も言うことはできなかった。

彼は、ただ、その場に立ち尽くすことしかできなかった。

彼の、孤独で、静かだったはずの日常は、完全に、そして未来永劫に、失われたのだと。



その、部下たちによる公開処刑(という名の、賞賛の嵐)が、ようやく収まったかと思われた、その時。

彼の、オフィスの内線が、けたたましい音を立てて鳴り響いた。

画面に表示されたのは、彼がこの会社で、最も逆らえない人間の名前。

『部長』。


(…来たか)

健司は、観念した。

彼は、その重い受話器を取り、その耳へと当てた。

電話の向こうから聞こえてきたのは、彼の直属の上司である、部長の、これまでにないほど上機嫌な、そしてどこまでもねっとりとした声だった。

『――佐藤君かね?今、少しよろしいかな?私の部屋まで、来てもらえないだろうか』


部長室の、重厚なマホガニーの扉。

その前に立ち、健司は一つ、深呼吸をした。

そして、その扉を、静かにノックする。

「失礼します。佐藤です」

「おお、来たかね!入りなさい!」

部屋の中から聞こえてきたのは、弾むような声だった。

健司が、その部屋へと足を踏み入れた瞬間。

彼の目に飛び込んできたのは、信じられない光景だった。

部長が、その巨大な執務机の上で、一つのARウィンドウを開き、食い入るように、何かを見つめている。

それは、昨日の『ルーキー・グランプリ』の、アーカイブ映像だった。

画面には、りんごの【超・火炎球】が、ボスを蹂躙する、あのクライマックスのシーンが、スローモーションで、繰り返し再生されていた。


「――いやー、凄いな!何度見ても、凄い!」

部長は、その映像から目を離すことなく、子供のようにはしゃいだ。

「君の、あのマネジメント力でチームを引っ張る姿!感動したよ!」

彼は、ようやく顔を上げると、その満面の笑みで、健司を手招きした。

「まあ、座りなさい。今日は、君に礼が言いたくてね」

「礼、でありますか?」

「ああ、そうだとも!」

部長は、力強く頷いた。

「君のおかげで、我が社の、いや、この私の株が、ストップ高だ!」

彼は、そう言うと、一枚の社内報の電子版を、健司の前に表示させた。

その一面には、でかでかと、こう書かれていた。

『我が社システム管理課、佐藤課長、快挙!新人冒険者大会で、世界一に!』


その、あまりにも大げさな、そしてどこまでも会社の手柄にしようという、魂胆が見え見えの見出し。

それに、健司は深いため息をついた。

だが、部長の自慢話は、まだ終わらない。

彼は、その話題を、一つの、あまりにも個人的な、そして健司にとっては最も面倒くさい方向へと、舵を切った。


「それでな、佐藤君。これは、全くのプライベートな話なのだがね」

彼の声が、ひそひそうとしたものに変わる。

「実は、うちの息子がな。君の、大ファンになってしまってね」

「はあ」

「ああ。**私の息子なんか、『お父さんの部下だよ』と教えたら、『凄い!凄い!』と、キラキラした目でね。**昨日から、『会いたい、会いたい』と、うるさくてかなわんのだよ」

その、あまりにも親バカな、そしてどこまでも厄介な、告白。

それに、健司の脳内で、けたたましいアラートが鳴り響いた。

(…やめろ。それ以上、言うな…)

だが、その彼の、ささやかな願い。

それを、部長は、あまりにも無邪気に、そしてどこまでも無慈悲に、打ち砕いた。


「それで、相談なのだがね。どこか、定時後で、家に来てほしいというのだよ。いや、もちろん、無理にとは言わん。だが、息子の、あのキラキラした目を、無下にもできなくてな…。どうだろうか?ほんの少しの時間で、いいんだ。サインの一枚でも、書いてやってはくれんだろうか」


静寂。

数秒間の、絶対的な沈黙。

そして、その沈黙を破ったのは、健司の、心の底からの、魂の叫びだった。

(――絶対に、嫌だ)

だが、その言葉が、彼の口から発せられることは、なかった。

なぜなら、彼は、サラリーマンだったからだ。


彼が、そのあまりにも見苦しい、そしてどこまでも社会人として完璧な言い訳を、脳内で高速で組み立てていた、まさにその時だった。

部長室の、内線が鳴った。

部長が、その電話に出る。

「ん?ああ、社長秘書の、高橋君か。どうしたね?…なに?社長が、佐藤君と私を、至急呼んでいる、だと…?」



社長室の、重厚なマホガニーの扉。

その前に立ち、健司は、もはや何度目になるか分からない、深いため息をついた。

彼の、サラリーマンとしての直感が、告げていた。

この扉の向こう側には、部長の家の訪問よりも、さらに面倒くさい何かが、待っていると。

そして、その予感は、的中した。


「――よく来たね、佐藤君!そして、部長君!」

社長室の、その巨大な革張りの椅子に深く腰掛けた、この会社の絶対的な王。

彼は、満面の、そしてどこまでも人の良さそうな笑みを浮かべて、二人を出迎えた。

「いやー、見たよ、昨日のグランプリ!素晴らしい!実に、素晴らしいじゃないか!」

彼は、そう言って、その大きな手で、健司の肩を、バンバンと叩いた。

「いやー、我が社の誇りだよ!」


その、あまりにも手放しの、そしてどこまでも純粋な賞賛。

それに、健司はただ、恐縮するしかなかった。

だが、社長の本当の目的は、そこにはなかった。

彼は、その鋭い、しかしどこまでも悪戯っぽい瞳で、隣に立つ部長を、ちらりと見た。

そして、彼は言った。


「それで、部長君。君が、さっき佐藤君に、何やらコソコソと、お願いをしていたという話が、私の耳にも入っているのだがね」

その、あまりにも的確な、そしてどこまでも全てを見透かしたかのような一言。

それに、部長の顔が、サッと青ざめた。

社長は、ニヤリと笑う。

「**それは、ずるいぞ、部長君。**抜け駆けは、良くないな」

「い、いえ、社長!これは、その…!」

「分かっている、分かっているとも」

社長は、その慌てる部長を手で制すると、最高の笑顔で、その最終的な、そして拒否を許さない「決定」を、下した。


「**ワシの息子も、『会いたい』と言ってたからな。**こうしようじゃないか」

彼は、そう言って、その場の全ての空気を、支配した。

「**会社で、食事会でも開催してみないか?**もちろん、経費は全て、会社持ちだ。佐藤君と、君の、あの可愛いギルドメンバーたち。そして、君と私の、自慢の息子たち。皆で、盛大に、君の勝利を祝おうじゃないか!」


その、あまりにも一方的で、そしてどこまでも彼の逃げ道を塞ぐ、完璧な提案。

それに、部長の顔が、ぱっと輝いた。

「**良いですね、社長!**素晴らしい、お考えです!」


その、あまりにも息の合った、そしてどこまでも健司の意思を無視した、上司たちの会話。

それを、健司はただ、死んだ魚のような目で、見つめることしかできなかった。

そして彼は、その心の中だけで、静かに、そして深く、呟いた。

その声は、この世界の、全ての理不尽を受け入れた、聖者のようだった。


「(勘弁してくれなんて、言えないな、こりゃ。しばらくは、この調子だろうな)」


彼の、哀れで、そしてどこまでも面倒くさい「新たな人生」は、また一つ、その面倒くささのステージを、上げたのだった。

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