第23話 不本意なギルドマスターの誕生
カチャリと。
静かな電子音と共に、彼の城であり、牢獄でもあるタワーマンションのドアが開かれた。
その瞬間、三つの異なる、しかしどこまでも元気な声と、生活感に満ち溢れた混沌が、彼を出迎えた。
「おかえりー、ボス!」
「おかえりなさい、健司さん!」
「おかえりなさいッピ!」
仕事から帰宅した健司が目にしたのは、もはや自宅とは呼べない光景だった。
イタリア製の高級革張りソファの上には、コンビニのスナック菓子の袋と、読みかけのファッション雑誌が散乱している。床から天井まで続く巨大な窓ガラスには、りんごが練習で描いたのであろう、指で描かれた下手なウサギの絵が、夜景を台無しにしていた。
そして何よりも、彼の聖域であったはずのフィギュア棚の前には、少女たちの制服のジャケットが無造作にかけられていた。
(…終わった。俺の人生、完全に終わった…)
彼の、孤独で、静かで、そして完璧に片付いていたはずの城は、今や、女子高生たちの部室と、ダンジョンの倉庫を兼ねた、カオスな空間へと変貌していた。
リビングは輝が複製したアイテムの山で埋め尽くされ、陽奈が持ち込んだポーションの調合キットが甘い匂いを放ち、そしてりんごがストックした「奇跡」の余波で、時々テレビの画面が歪んでいる。
「あ、健司さん、ご飯できてますよ!今日は、カレーです!」
陽奈が、キッチンから顔を出し、満面の笑顔で言った。
その、あまりにも家庭的で、そしてどこまでも彼の日常を侵食する光景。
それに、佐藤は深いため息をつくことしかできなかった。
◇
その日の夜。
リビングの、巨大なローテーブルの上には、四つの皿に盛られたカレーライスと、ペットボトルのジュースが並べられていた。
輝とりんごが、子供のようにスプーンでカレーをかき込み、陽奈がその光景を母親のような優しい目で見守っている。
その、あまりにも奇妙で、そしてどこまでも温かい光景。
それに、佐藤の心の中の、何かが、わずかに、しかし確実に溶けていくのを感じていた。
だが、その穏やかな時間は、長くは続かなかった。
「――ねえ、健司さん」
輝が、カレーの最後の一口を飲み込むと、言った。
その瞳には、いつものような欲望の光ではない。
一つの、確かな「事業計画」の光が宿っていた。
「あたしたち、そろそろちゃんと、ギルド作ろうよ!」
その、あまりにも唐突な、そしてどこまでも面倒くさそうな業務改善提案。
それに、佐藤の眉間に、深い、深い皺が刻まれた。
「いつまでも健司さんの個人パーティじゃ、税金対策も中途半端だし、社会的信用も得られない。ビジネスとして、次のステージに行くべきっしょ!」
輝は、そう言って、ARウィンドウに自作の、しかしどこまでもそれっぽいプレゼン資料を映し出した。
そこには、『我々のコアコンピタンスと今後の事業展開について』という、あまりにも意識の高いタイトルが、躍っていた。
「却下だ」
佐藤は、即答した。
彼の、絶対的拒否だった。
彼は、そのサラリーマンとしての、そして中間管理職としての魂の全てを込めて、そのデメリットを熱弁し始めた。
「**ふざけるな。ギルド設立が、どれだけ面倒なことか分かってるのか。**まず、ギルドマスターを決め、定款を作り、ギルド規約を定め、それをギルド本部に申請し、承認を得る。それだけで、どれだけの手間と書類仕事が発生すると思ってるんだ」
「それに、設立後もだ。毎月の会計報告、メンバーの勤怠管理、そして何よりも、お前らみたいな問題児たちが起こすであろう、数々のトラブル対応…。冗談じゃない。俺は、会社で毎日それをやってるんだぞ。なんで、家に帰ってまで、同じ地獄を見なきゃならんのだ!」
その、あまりにも切実な、そしてどこまでも正しい魂の叫び。
それに、輝は少しだけ怯んだ。
だが、彼女は諦めない。
彼女は、このパーティの、二つの最終兵器へと、その視線を向けた。
「…でも、陽奈ちゃんは、どう思う?」
「えっ、私…?」
突然話を振られた陽奈は、おろおろとしながらも、その素直な気持ちを口にした。
「私…。みんなで一つのギルドを作るのって、なんだか『家族』みたいで、素敵です…」
その、あまりにも純粋な、そしてどこまでも強力な一言。
「だよねー!」
輝は、それに乗っかった。
「りんごちゃんは!?」
「えー?あたしは、どっちでもいいけどー」
りんごは、いつものようにマイペースに答えた。
「でも、『ギルドマスター健司』って響き、なんか格好良くない?」
その、あまりにも無邪気な、そしてどこまでも無責任な、追い打ち。
佐藤は、言葉を失った。
賛成、2票。保留(という名の賛成)、1票。
反対、1票。
結果は、火を見るより明らかだった。
彼は、このあまりにも民主的で、そしてどこまでも理不尽な多数決という名の暴力の前に、完全に敗北したのだ。
だが、彼はまだ諦めてはいなかった。
彼は、リーダーとして、そしてこの家の家主として、その最後の砦を守るために、叫んだ。
「分かった、分かったよ!だが、絶対に、新しいギルドハウスなんかに引っ越さんからな!俺のプライベートな時間を、これ以上削れるか!会議も、反省会も、全部このリビングでやる!それが、絶対条件だ!」
その、あまりにも切実な魂の叫び。
それに、輝はニヤリと笑った。
彼女は、その全てを予測していたかのように、代替案を出した。
「はいはい、分かったって。じゃあさ、とりあえず荷物置き場だけでも確保しない?ギルド名義で、でっかい倉庫借りようよ!経費で落ちるし!」
その、あまりにもクレバーな、そしてどこまでも現実的な落とし所。
それに、佐藤はもはや、言葉もなかった。
彼は、その場に崩れ落ちるように、椅子に深く身を沈めた。
そして、その震える指で、一つの方向を指さした。
出口だ。
「…分かった。明日、ギルドに行くぞ…」
彼の、そのか細い声。
それが、この不毛な議論の終わりを告げた。
物語は、彼らがギルド設立の書類を手に、ギルド本部の事務手続きカウンターへと向かうシーンで幕を閉じる。健司の顔には、死刑判決を待つ罪人のような、深い絶望の色が浮かんでいた。
彼の、哀れで、そしてどこまでも面倒くさい「新たな人生」は、また一つ、その面倒くささのステージを上げたのだった。
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