遅刻
腕時計が壊れた。
壊れたというか、単に電池がなくなって動かなくなっただけだけれども、使えないのだから結局は同じだ。
ところで僕は異常なまでのアナログ時計依存者である。携帯の待受さえ開けば時間は表示されるがあんな数字が横に並んだ時計では我慢ならない。その意味するところは、今日一日、僕は時計のない手首を見ては苛々しなければならないということである。時計のない手首を見、時計がなくて、耐え切れなくなって他人の時計を奪ったり教室に設置されている掛け時計を持ち歩いたりコンパスの針か何かで手首に赤い腕時計を描いたりするのだ。流石にそこまではしないけれど。
まあ万が一そうなったりしないために、僕はいつもより早い時刻に家を出て、通学路から逸れて行きつけの時計屋へ寄った。しかしシャッターが閉まっていた。貼紙には縦書きで、「十時開店」と書いてあった。
今何時だろうと僕は手首を見た。何もなかった。そうだ僕は時計がなくて他人のものを奪ったり掛け時計を持ち歩いたり赤い腕時計を描いたりしないために新しい時計を買いにきたのだ。つまりは今僕は自分の腕時計を持っていなかったのだ。
寄せそうになる眉をなんとか引き離し、落ち着くように深呼吸をする。十時イコールこの店のシャッターが開くときである。僕はシャッターが開くのを待つことにした。
それから長い間僕は「十時開店」の貼紙と睨み合いをしていた。そろそろ貼紙の文字が時計の文字盤に見えてきた頃に、シャッターが上がった。シャッターを開けた青年は、待ち構えていた僕を見て驚いたのかびくりとした。彼は恐らく店員だろう。瞬時に結論を出した僕は、彼に向かって「腕時計をください」と言った。これは勿論、僕が自分の腕時計を無くしたことを苦に彼から彼の腕時計を奪うつもりで言ったのではなく、購入するつもりで言ったのだった。
彼は「はあ、腕時計ですか」と言った。自分の役目を忘れているかのような反応だった。
「壊れたんです、僕のは」
「……、そう、ちょっと待っててね」
青年は訝しげな表情をしてから店の中へひっこんで行った。ちょっと待てと言った彼の様子からすると、シャッターは開いたがまだ十時ではない。販売を始めないということは、開店していないからだ。
僕はちょっと待つ間、店の外装を観察した。もう随分昔からやっている店なので壁はひび割れていたしガラスは若干くすんでいたが、僕はこの店が好きだった。なぜなら時計屋だからだ。
かたりと音を立ててショーケースに時計を並べる青年の手を見つけた。並べられた時計は高価なもの(たとえば、ロレックスのような腕時計)で、僕は喉から手が出るほど欲しいと毎回思うし、一度や二度喉から手を出してみたが手に入るものではない。一高校生にこの値段はどうしようもないのだ。
そのうち青年が入口から顔を覗かせ、どうぞと言った。
店の中は薄暗くアンティークっぽい雰囲気が漂っている。実際年代物でありそうな柱時計や掛け時計はないでもないが、その空間を切り裂いて現代風の棚だとかガラスケースだとかが鎮座している。和洋折衷ならぬ古新折衷。時代錯誤と言ってもいい。でも嫌な気はしないのだ。古かろうと新しかろうと、アナログ時計なら僕はそれで十分なのだ。ただしデジタル時計だけは下水の川に浸けてしまいたい。
ゆっくりと店内を見て回る。ベルトはなんでもいい。文字盤が見やすく、かつデザイン性の高いものがいい。最近は数字が定位置に納まっていない文字盤があったりするから困る。踊っているのか。言っておかねばならないが、時計に於いて踊ることを許されているのは数字でもベルトでもない。長針と短針、そして秒針だけなのだ。
やっぱり店員だったらしいあの青年が、控え目な声で「高校生?」と言葉遣いはなれなれしく言った。僕は「そうです」と答え、目は向けなかった。
再び沈黙が降り、僕は腕時計選びに集中した。やがてひとつの時計に強く惹かれた。ベージュを地とし、針と目盛りが重い茶色で統一された、落ち着いたものだった。数字はない。シンプルで目に優しく、値段も手頃だ。僕は恋ってこれかもしれないと錯覚した感情を抱きながら、時計を手に取り店員のところまでよたよたと歩いて行った。
店員はレジに回り、値札を見てその値段を言った。僕が財布をあけていると、金を待っている青年は、またもやどこか弱い音で「学校は、まだ始まらないの?」と聞いてきた。言われた通りの金額を差し出しながら「学校?」と鸚鵡返しにする。
「今日、あるんでしょ、学校。君は制服を着ているし」
僕は青年の言っていることがわからなかった。適当に曖昧な返事を返しつつ、カウンターに置かれた僕の新しい時計を手にする。それから手近な時計を見ながら時間を合わせ、手首に巻く。
そこで僕は気付いた。短針は十を少し過ぎたところを、長針は十二分をさしていて、秒針は時間の経過を常にしらせている。僕が通う学校の始業時間は八時四十五分で、つまりそれから一時間と二十七分過ぎていて、もっと言えば一限目はとうに終わり二限目に入っているということだった。遅刻だ。
僕は慌てて店を出た。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。