第4話 "普通じゃない"がはじまった朝
水の中の鉛みたいに、体がどんどん沈んでいく夢をみた。
アラームの音が、遠くに聞こえる。
もう朝なんだ。まぶたが重たい。
――でも、わたしが、ちゃんと起きないと……
「ん……」
ベッドの中で伸ばした足が、あったかいすべすべしたものに当たった。
ああ、トラがここで寝てたんだ……
トラ……すべすべしてる……?
!!
何かを思いだしたように、勢いよく布団をめくる。
足元では、人間の男の子が、猫のように丸まって眠っていた。
「え、トラ!?隣の部屋で寝てるはずじゃ……!?」
パニックで、声が上ずる。
夜は確かに、隣の部屋に行ったのに!
「なんだよ、勝手に起こすなよ……」
トラは、眉をひそめながらあくびをすると、ひらりとわたしの机の下へ入っていった。
出ていかないの!?っていうか、今、「なんだよ」って言ったよね!?
人の布団に勝手に入っておいて、何なの、もー!
自由過ぎるその感じは、猫のときと全然変わってない。
机の下からは、そんなことなんかお構い無しという感じの寝息が聞こえた。
仕方なく着替えを持って廊下に出ると、体育座りをしていたケンタが静かに立ち上がった。
周りに気遣うようにささやく
「おはようございます」
に、顔が少し熱くなる。
既に身支度を整えたケンタは、ブルーのパーカーと黒いデニム、黒いキャップをさらっと着こなしていて、すごくかっこいい。
対するわたしは、パジャマ姿だし、髪もボサボサ、顔もまだ洗ってない。
「えっと、ちょっと着替えてくるね」
ケンタのまっすぐな視線から逃げるように、わたしは階段をかけおりた。
洗面所で着替えて顔を洗いながら、やっぱりこれは夢じゃないって思った。
ケンタやみんなと話せるようになって、すっごくうれしい。
でも……
ペットだったころと距離は変わらないはずなのに、全然違うの。
今朝だってあんな近くで……
思い出しただけなのに、変な汗が出て、頭がぐるぐるしてくる。
それが、これから1ヶ月も続くだなんて。
正直、うれしさよりも、上手くやっていけるのかなって不安のほうが大きいよ。
そんなことを考えながらも支度を終えると、つい、いつものクセで小さなバッグに手が伸びてしまった。
「あ」
玄関に置いてある、ケンタの青いリード。
「散歩……いらない、よね」
そうつぶやくと、胸の奥がキュッと締め付けられた。
「つかささん」
小さな声に振り向くと、そこにはケンタがいた。
「よかったら、一緒に散歩……、どうですか?」
朝の澄んだ空気って、気持ちいい。
春の香りが、少し冷たい空気と一緒に鼻の奥に広がる。
いつもの道を並んで歩く。
ケンタの姿は変わった。
それでも、わたしに合わせて歩く足どりは、あの頃のまま。
胸の奥に感じる、じんわりとしたあたたかさ。
でも――からっぽの右手に視線が落ちる。
「つかささん」
きゅうにケンタが立ち止まる。
「な、なに?」
急いで顔を上げる。
ケンタに話しかけられることにも、正直、まだ慣れていない。
「今のつかささんにぴったりのおまじない、あるんですけど……」
「おまじない?」
「ためしてみますか?」
ケンタの優しい声に、考えるよりも先に、ついうなずいていた。
そんな自分に、ちょっとだけびっくりする。
「じゃあ、右手を出してください」
言われるがまま、右手を差し出す。
あたたかい手がそっと導いたのは、ケンタのパーカーの裾。
指先に、見慣れた青が触れる。
わたしは、人差し指と親指で、そっとつかんだ。
ケンタは、そんなわたしを見て照れたように小さく笑うと、何も言わずに、またゆっくり歩き始めた。
ケンタのリズムが伝わってくるたびに、わたしの不安も少しずつ溶けていく気がした。
近所を一周歩いただけなのに、玄関に入った瞬間、どっと疲れが押し寄せた。
熱がこもったみたいに、顔がほてっている。
でも、リビングから聞こえるにぎやかな声につられるように、体が動く。
「「ただいま」」
ドアを開けて目に飛び込んできたのは、ソファの上で騒ぐユキちゃんとセキ君の姿。
「おかえりつーちゃん、ねぇねぇ、あとでボクのダンス見てね!」
と甘えた声を出すと、隣のセキ君が
「あとで天気予報っていうののマネも聞いてや!」
と得意顔。
そんな2人の周りに散らばる、おもちゃ、服、本……。
朝日の入るダイニングからミドリ君がコーヒー片手に「おかえりなさい」とほほえむ。読みかけの新聞は、なぜか先週のものだ、
隣の席で静かに丸まっていたトラは、チラリとこちらを見ると、また目を閉じてしまった。
わたしの後に続いたケンタは、キッチンには入らず、その場に座った。
今までと、同じようで全然違う、普通じゃない朝が始まったんだ。
「おはよー。みんな早いのねぇ」
のそのそとやってきたのは、パジャマ姿のママ。
「ママも早いね」
「明日の出発前にもうちょっと片付けようかなと思って~」
なんて言ってるのに、そのままソファに倒れ込む。
ママも、人間になったみんなのためにいろいろ準備してくれていたから、疲れたのかな。
新しいダイニングチェアや食器が、これからみんなが人間として生活していくんだよ、って伝えてくる。
どうなるのか想像しようとしたけど、頭がぼんやり重たくなってきて、上手く考えられない……。
そうだ、みんなの部屋も、もう少し片付けないと。
それから、足りないものも買わなきゃ。
この連休中にやらないとだよね。
ああ、でも今はまず、みんなの朝ごはんの準備をしなきゃ。
ママの出張は、これが初めてじゃない。
前は、3駅離れたところに住むママの妹の料子ちゃんが、「1人だなんて、心配だよ~」って仕事帰りに寄ってくれていた。
でも、今回は、それもなし。
仕事と引越し準備で忙しいんだって。
わたしが、しっかりしないと。
じゃないと、ママも、みんなも、きっと困るから。
ズキズキする頭に気づかないフリをして、人数分のグラスを出す。
最後のグラスを取ろうとしたとき、ふわっと手の力が抜ける。
あれ……?
目の前の景色が、ゆっくりと回る。
グラスが手から滑り落ちる。
暗くなっていく世界の中。
グラスが割れる音と一緒に、誰かが、わたしを呼ぶ声がした。
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