海月ごっこ

ヤン

海月ごっこ

 子供の頃、夏休みの半ばになると親に、「海に入っちゃダメ」と言われた。何で、と私が訊くと、「海月くらげが刺すからだよ。刺されたら痛いんだよ」と真剣な表情で教えてくれた。それが怖くて、海には入らなかった。その時期が来たら、夏休みも終わるような気がした。


 いつもと違う方向の電車に揺られながら、そんなことをぼんやりと思い出していた。周りの人たちが、いかにも海に行って楽しもうとしている感じだから、頭の中によみがえったのかもしれない。


 終点に着いてドアが開くと、押し出されるようにして電車から降りた。混雑したホーム。人だかりを見ていたら、溜息が出た。この人たちがいなくなるまでここにいようと決めて、そばにあったベンチに腰を下ろした。ふと改札口の方を見ると、風変わりなものがあって、思わず「え?」と声が出てしまった。


 ホームが空いてきたのを機にベンチからゆっくり立ち上がり、その方へ歩いていった。そばで見ても、確かにそうだった。


 ──何でホームに水槽?


 そこに揺れているのは、白い傘のような形の生き物。海月だった。何匹いるのかわからないが、水の動きに合わせるようにゆらゆらしている。水槽のすぐそばに立って中の海月を見ていると、私の体も揺れているような感じがしてきた。見つめ過ぎて、水槽と私の境界すらわからなくなる。海月と一緒に私も漂っている、そんな不思議な感覚に陥った。


 そうして半ば酔ったような心地でいた時、ふいに、「あのー」と声を掛けられた。驚いて背筋が伸びた。声のした方に振り向くと、私より少し年が上だろうと思われる男性が立っていた。


「何か?」


 私が少し怯えたようにそう言うと、その人は大きく息を吐き出した。


「あなたね、近過ぎですよ。ガラスに鼻先がついてます」

「あ……」


 夢中で見ていて、距離を誤っていた。私はすぐに水槽から離れた。初対面の男性にさっきの姿を見られただけでなく、指摘までされている私。恥ずかしくなって、視線を落とした。


「あなた、海月が好きなんですか?」


 男性が淡々とした口調で訊いてきた。私は首を傾げながら、


「さあ……どうでしょう? 好きと言うか……嫌いではないですけど。ただ、こんなところに海月がいて驚いてしまって。それで、見てました。海月はプカプカしてますけど、何を考えてるんでしょうね」

「考えてないですよ。彼らには脳がありませんから」


 男性があまりに普通な感じでそう言ったので、事の重大さがわからなかった。が、しばらくして何を言われたか理解すると、驚いて目を見開いてしまった。


「脳がない……んですか?」

「はい、ありません。脳だけではなくて、心臓もありませんよ」

「それって……生きてますか?」


 男性は頷き、


「現に、そこで生きているじゃありませんか」


 私は口を半開きにして、水槽の中で漂う彼らを見た。時々、プシューとでもいうように、体から白い糸のようなものが出てくる。生きていないと出来ないことは明らかだ。


 私は男性を見上げながら、


「生きてますね」

「そう。生きているでしょう。でも、考え事はしていません。あなたも、海月を見倣ったらどうでしょう? お疲れのようですからね」


 この人は、エスパーだろうか。そう。私は今、心が疲れていた。それで、会社が休みの今日、いつもと逆方向の電車に乗ったのだ。どこに行こうと決めていたわけではない。ただ、普段と違うことをしようと思ってのことだ。私は大きな溜息を吐いて、


「昨日、仕事でミスをしてしまって……。それに対して、上司が怒鳴ってきて……。ミスしたのは事実ですけど、事情も聞かずにいきなり怒鳴られたから……へこんでいます」


 初対面の人にそんなことを打ち明けてどうする気なのだと自分に問う。全く馬鹿げた行動だ。が、彼は私を笑うこともなく、「そうですか」と低く言った。


「そういう嫌なことがあった時は、彼らを見て心を緩めましょう。そうだ。『海月ごっこ』でもしてみたらどうですか?」

「『海月ごっこ』?」

「海月になったつもりで、何も考えずに水に漂ってみるとか」


 私は少し考えてから、「わかりました」と答えた。


「そこに海がありますから、ちょっと浮かんできます」


 走り出そうとする私にその人は首を振り、


「それはダメでしょう。彼らの仲間に刺されますよ」


 そうだった。もうお盆の時期だから、確かにあり得ることだ。それに、水着がない。このまま入る気だったのか、私よ。心の中で、自分に突っ込む。私はまた思考して、


「それでは、家の近所にあるプールに行って浮かんできます」

「それがいいでしょう」


 彼は私に片手を上げて軽く頭を下げると、改札を出てどこかに行ってしまった。私はしばらく海月をそのまま見ていたが、電車が来たので急いで乗り込んだ。ここに来る時は混んでいた車内だったが、逆方向のせいか閑散としていた。自宅の最寄駅で降りると、家まで走った。何となく気が急いていたのだ。


 帰宅して水着やタオルをバッグに詰め込むと、プールへ向かった。そこは昔と何ら変わることがなく、子供の頃の迷いのない自分の姿を思い出させた。水に入ると、泳ぎもせずにただ浮かんでいた。そうしているとすごく気持ちが良くて、嫌なことが全て溶けて消えていくようだった。全身の変な力が程よく抜けていくのがわかった。


 疲れた日は、『海月ごっこ』。ただ、水と戯れる。何も考えず、海月になって。


 後日ネットで海月について調べていたら、あの駅の近くに水族館があることがわかった。何の気なしにそこをタップすると、あの時のあの人の写真がアップされていた。彼の仕事は、海月の飼育員。どうりで海月の生態に詳しいはずだ。


 ──今度の休みにこの水族館に行ってみようかな。


 そう考えただけで胸が弾み、明日からまた頑張れそうな気がした。


(完)

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