奇跡は待っていても起きないから
潮が満ち始めたのだ。
どこまで海面が迫りくるかわからない恐ろしさで、フェリチェは慌てて岩礁に登る。見る間に、尻を預けていた岩も波に飲まれてしまった。
心臓はもう破裂してしまいそうだ。もはや震えているのか、息切れしているのかもわからない。切迫した呼吸は思考を散り散りにしていく。
だからフェリチェは、思うままを言葉にした。
『怖い、冷たい、寒い……帰りたい』
頭の中で渦巻いて消えてしまうものを声に出すことで、現実からまで逃げ出してしまいそうな意識をなんとかこの場に留まらせる。
『イードさんなら……きっと……もっと冷静だわ……落ち着いて……。わからないことは、観察……』
浅い呼吸は苦しくて、意識して長い息を吐く。
『ユーバインは大きな街で、観光で訪れる者も多い。そしてここは、街から歩いて来られる場所。幼な子でも十分に歩ける距離だった……。もしここが危険な場所なら、なんの警告もなく誰もが入れるようになっているものかしら……』
フェリチェは行き止まりの岩壁に手を伸ばし、ぺたぺたと触れてみたりした。
『たとえば立ち入りを禁じる看板の類……見当たらなかった。あの男が隠した……? いえ、それならこの三叉路を放置しておくのも変だわ。わたくしが奥へ逃げ込むことを想定すれば、選ぶ道を一つに絞らせるべきだもの。それこそ、立ち入り禁止とでも掲げて……。なのに、なんの細工もしないのは不自然すぎるわ。ということは、彼もここの存在を知らないのではないかしら』
この穴も元から警告などはない――つまりそう危険ではないのではないか、と考えると俄かに希望が見えてきた。
『潮位は危険なほどには上がらない。もしくは、抜け道がある……イードさんなら、そう言うかもしれませんわね』
だんだんと力が湧いて、頭もはっきりとしてきた。すると、これまで行き止まりにしか見えなかった岩壁が違う形を成し始めた。
手に触れるごつごつとした岩壁には、大小様々な出っ張りや窪みがある。壁を登ろうとするならば、手で掴んだり足をかけるのにちょうどいい配置だ。
考えている間にも、海面は再びフェリチェの足を濡らして迫り来る。確証はないが、今より少しでも高いところでやり過ごせる可能性に賭けて、フェリチェは壁に挑んだ。
岩の出っ張りを取っ掛かりに爪をかけ、足を踏ん張って上を目指していくと、空気の流れが変わるのを感じた。フェリチェの頭より一つ分上のところで、岩にぶつかる風が吸い込まれるように消失する。
あと一踏ん張り、フェリチェは岩を登った。するとそこには、窪みにしては大きく広い空洞が穿たれていた。フェリチェが闇に目を凝らし、片手ずつ探った感覚では、ギュンターくらい大きな身体でも通り抜けられそうな余裕がある。
『ここから抜け出せるのではないかしら』
フェリチェは空洞によじ登った。広いが、さすがに立つことはできず四つん這いの姿勢だ。
早く安心したい気持ちが急いて、そのまま奥へ進みそうになるが、一旦息を吐いて足元を探った。小石を少し拾えたので、それを前方へ転がしてみる。フェリチェは耳をそば立てて、小石の気配を追った。
小石はだんだんと転がる速度を増し、下方へ落ちる。三回試してみたが、どれも同じでそれほど長い時間ではなかった。
『この先は、緩やかな下り坂になっているのね。下に地面はあって、少なくとも……溺れるほどの水はなさそう』
ならば頭から進むのは危険かもしれないと、フェリチェは膝を立てて座り直し、尻で這って進んだ。
程なく、予想通りの下り坂となった。それでいて尻との接地面が、自然の岩とは思えないほどつるつるしたものに変わったため、フェリチェの体は勝手に滑り出した。
それは、幼い頃に草っ原の斜面を麻袋を敷いて滑った野遊びの思い出を呼び起こした。フェリチェは小さくため息をつく。
(きっとここは明るい時に来たら、楽しく遊べる名所なのかもしれませんわね)
一瞬、ふわりと体が浮き上がる感じがして、フェリチェは硬い地面に着地した。辺りは幾分か闇が薄い。周囲に溜まった海水の中、その身に螢火を宿した魚が泳いでいる。
ユーバインに数ヶ月暮らして、知らないことがこんなに身近にあったのだと驚くと同時に、帰ったら調べてみたいとフェリチェは前向きに思えた。そして少し照れ臭くて、苦い笑みをこぼす。考え方が、誰かに似てきた気がしたからだ。
だがそのおかげで、恐怖から抜け出せたと認められぬほどフェリチェは意固地でもない。帰ったら、どのように感謝を伝えるか考えるのも、不思議と気分のいいものだった。
そして思い至った。
『そうだわ……あの痩せた男……わたくしを騙したあの男は、今どこに? まさかイードさんを狙ったりなんて……!』
血の気が引いて、フェリチェは走り出した。外に出れさえすれば、帰り道はどうにかわかるはずだ。想像が外れていればそれでいいと、ただその一心だった。
だから注意が散漫になっていた。
暗がりから何かが飛び出して、フェリチェに体当たりした。気付いた時にはもうよける術は残されておらず、岩礁に叩きつけられるように転がされた。肘や膝に熱が走る。
何者か、とは考えなかった。二人組のもう片方がこちら側に先回りしていたのだとしか、思わなかった。
苦虫を噛み潰す一方で、フェリチェは少しほっとした。それならばイードが襲われることはなかったのだと。
ところが――。
「ったく、フェネットってのは気性が荒いんだなぁ! ああ畜生、痛ぇ!」
聞こえるのは、体格のいいほうの男の声だ。よく似た別人ではない証拠に、フェリチェが引っ掻いた腕からはまだ血が滴っている。
男が三叉路に細工しなかった理由、それは――どの道も最後はひとつに繋がっているから……今更気付いたところで遅かった。
男は興奮した様子で、突っ伏したまま動けなくなっているフェリチェに馬乗りになると、爪を警戒したのだろう。口よりも先に、手首を縄で括って戒めた。
「今日から俺が飼い主だ! しっかり言うことを聞けよ!」
髪を鷲掴みにされ、フェリチェは無理やり顔を起こされる。螢火に浮かぶ卑しい笑みは、この世で一番醜く、そして恐ろしいものだった。
こんな下劣な人間にのしかかられ、尻尾を押し潰されるのはこの上なく屈辱的で、フェリチェは無我夢中で叫んだ。アンシア語も人族語も混ざった叫びは、ほとんど言葉になっていない……。
「うるせぇ! わけの分からないことを喚きやがって! いい加減……っ、観念しろ!」
男は懐を弄って、手拭いの類と思われる布をフェリチェの口に突っ込んだ。汗や脂の染み込んだ、ひどく嫌な臭いがして吐き気さえ込み上げる。
目の端に滲んだ涙がやたらとしみて、痛かった。それでもフェリチェは足掻き続けた。男の言いなりになどならず、抗い続けた。
男はのしかかった体勢のまま、まるでフェリチェの体力が尽きるのを待つかのように、余裕の笑みを浮かべる。
「諦めろ。どうせ、誰も助けになんて来やしねぇんだ」
フェリチェはかぶりを振った。屈してやりたくなくて、男を睨みつける。
「お? 街で人気のお嬢ちゃんは、たいそうな自信があるんだな。助けが来るって信じてんのか
ああ!? 誰が来てくれるって!? 言ってみろ!」
男の声が、静かな洞内に木霊する。四方から恫喝に揺さぶられるようだ。
気丈に保っていたフェリチェの心は、とうに限界だった。こらえていた涙が、揺り落とされた瞬間、ぽきりと折れた。
『助けて……』
こんな時に颯爽と駆けつけて救い出してくれる、絵巻物の王子様のような存在にフェリチェはずっと憧れてきた。
だが、そんなものはいない。奇跡は二度も起こりはしないのだ。
『助けて、――!』
何もできない脆弱な己が悔しくて情けなかったが、最後の頼みとばかり……闇の中にその名を呼ばわった。
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