第14話:水滴の宇宙と賢者の設計図
暗く静かな通路は、やがて開けた空間へと二人を導いた。
そこは、これまでの神殿のような雰囲気とは異なり、機能的な美しさを持つ、巨大な研究ラボのような場所だった。
壁際には未知の装置が整然と並び、中央にはホログラムを投影するための巨大な円形のテーブルが鎮座している。
まるで、この施設を建造した者たちが、思考し、創造するための聖域だったかのようだ。
地上の追手の気配は、完全に途絶えていた。
大輔たちが仕掛けた「反重力の律動」は、施設の防御システムを覚醒させ、外部からの侵入を一切許さない強固な結界となっているらしかった。
束の間の、しかし絶対的な安全。二人は、ようやく張り詰めていた糸を緩め、床に座り込んだ。
「…僕たちは、何をしてしまったんだろう」
大輔は、自分の手のひらを見つめながら呟いた。
そこに宿った力の、あまりの巨大さに、今更ながら身が震える。
星の心臓を揺り動かし、空間を歪ませ、物理法則を書き換える力。
「私たちは、世界を変えたのよ」レイナは、彼の隣に座り、毅然として答えた。
「もう後戻りはできない。
ならば、進むしかないわ。この力を、正しく理解するために」
彼女の瞳は、すでに前を向いていた。
レイナは腕時計型コンソールを起動し、中央のテーブルに時田博士の遺したデータチップの全情報を投影した。
無数の数式と設計図が、青白い光の粒子となってドーム内に舞い踊る。
それは、賢者が生涯をかけて築き上げた、知の銀河だった。
「見て、大輔君」彼女が指し示したのは、リアクターのエネルギー制御シーケンスに関する詳細な記述だった。
「博士の理論は、あなたの着想を完璧に裏付けている。
そして、さらにその先を行っているわ」
ホログラムに、一つの波形がクローズアップされる。
「反重力を安定して発生させる鍵…それは、電流の変化。
電圧ではないわ。
擬似的な『減速縮退』を引き起こすには、電流を三角波で滑らかに上昇させ、エネルギーの頂点で、一気に放物線を描いてゼロへと叩き落とす。
この非対称なパルスの繰り返し…」
「それが、空間に『拡張する力』だけを選択的に蓄積させる、唯一の方法なんだ…!」
大輔は、その完璧な理論の美しさに息を呑んだ。
「でも、理論だけじゃ不十分よ」
レイナは、研究室の片隅にある、生命維持装置らしきユニットを指差した。
そこからは、清浄な水が供給されている。
「私たちは、この力を正確に計測し、制御する術を身につけなければならない。
あなたの言っていた、あの実験をしましょう」
「…水見式か」
大輔は頷いた。
それは、反重力の効果を最もシンプルかつ視覚的に確認するための、彼が考案した実験だった。
レイナは、施設の制御システムと彼女のコンソールを完全に同期させ、莫大なエネルギーをごく微量だけ、テーブルの上の一点に集束させるプログラムを組み上げた。
それは、巨大なダムの放水量を、スポイトの一滴にまで絞り込むような、神業的な制御だった。
テーブルの上に、一枚の滑らかな金属板が置かれ、その上に、一滴の澄んだ水が乗せられる。
「第一次励起、開始。目標、マイナス0.5G」
レイナがコマンドを入力すると、目には見えない反重力場が、水滴を優しく包み込んだ。
すると、奇跡が起きた。重力に引かれていたはずのぷっくりとした水滴が、まるで緊張を失ったように、じわりと平たくなったのだ。
「間違いない…」大輔は囁いた。
「反重力の『拡張する力』が、原子同士を引き離し、水滴を形作る表面張力を弱めているんだ…!」
「出力を上げるわよ。
目標、マイナス1.0G。地球の重力との完全相殺点!」
レイナが慎重に出力を調整していく。
平たくなっていた水滴は、今度は逆にゆっくりと盛り上がり始めた。
そして、重力と反重力、二つの力が完璧に釣り合った瞬間――水滴は金属板からふわりと離れ、まるで宇宙空間に浮かぶ宝石のように、完璧な球体となって宙に静止した。
「…ゼロG…!」レイナは感嘆の声を漏らした。
「宇宙ステーションでしか不可能だった無重力実験が、このテーブルの上で…! これさえあれば、新素材の開発は飛躍的に進む…!」
だが、彼らの探求はそこで終わらない。
「レイナ、もう一つの実験を」
大輔は、近くにあった、古代の記録媒体と思われる薄い結晶板と、その下に文字のような模様が刻まれたプレートを持ってきた。
「これで、透明化現象を試す」
レイナは頷き、再び出力を上げた。目標は、地球重力を超える、マイナス1.5G。
反重力場が強まると、結晶板に驚くべき変化が起きた。
その固いはずの物質が、まるで陽炎のように揺らぎ始めたのだ。
原子間の隙間が『拡張』され、本来なら遮られるはずの光が、その隙間を通り抜け始めている。
やがて、結晶板は半透明になり、その下にある古代文字の模様が、ぼんやりと浮かび上がってきた。
「成功だ…!」
二人は、自分たちの手で、物理法則を書き換えることに成功した。
それは、人類史における、新たな創生の瞬間だった。
しかし、その力の意味を理解したからこそ、二人の胸には、新たな問いが生まれていた。
「この力があれば…」大輔は、静かに言った。
「人体を切開せずに内部を透視する医療も、岩盤を液体に変えるトンネル掘削も可能になる。
でも、その同じ力が、一瞬で都市を原子分解する反重力爆弾や、あらゆる攻撃を無効化する防御シールドにもなる…」
「私たちは、パンドラの箱を開けてしまったのかもしれないわね」
レイナの言葉に、重い沈黙が流れる。
この力を、調律者のように独占し、隠蔽するのか?
それとも、世界に公開し、人類の叡智にその判断を委ねるのか?
「…僕たちは、どちらも選ばない」
沈黙を破ったのは、大輔だった。
彼の瞳には、迷いを振り切った、強い光が宿っていた。
「僕たちは、この力の『使い方』を示すんだ。
支配でも、混沌でもない、第三の道を。
この力を、人類が星々の海へ乗り出すための、翼として使う。
僕たちが、その最初のパイロットになるんだ」
彼の言葉に、レイナは力強く頷いた。
そうだ。彼らの冒険は、まだ始まったばかりなのだ。
その時、施設の奥深くから、二人にしか感じられない、微かな『呼び声』が届いた。
それは、音ではない。
思念でもない。純粋なエネルギーのパターンが、まるで心臓の鼓動のように、彼らの意識に直接響いてきたのだ。
「…まだ、何かある…」
二人は顔を見合わせた。
この施設の建造主たち。遥かなる太古の訪問者たちからの、メッセージ。
彼らの次の目的地は、その『呼び声』が発せられる、この施設の最深部。
本当の秘密が眠る、聖域だった。
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