源平異伝 偽契記 -白拍子と天狗、偽りの契りと義経の一生-

五平

第1話「鞍馬の秘密と孤独、そして運命の兆し」

月の光は、剣よりも冷たかった。

女児として生まれ、男の名を背負った少女は、

今日も独り鞍馬の山を駆ける。

風の音に紛れて、己の名を――

本当の名を、誰かが呼んだ気がした。

それは、胸の奥で秘かに息づく、

たった一つの願いにも似た、切ない響きだった。


源氏の棟梁、源義朝が平治の乱で

非業の死を遂げたのは、遥か昔の出来事。

その末子として生まれた私が、

牛若という男の名を背負わされて、

この鞍馬の山に預けられて、どれほどの

歳月が流れたのだろう。

正確な年月など、もはや数えられない。

ただ、夜空を見上げれば、

いつだって孤独だけが、私に寄り添っていた。


物心ついた頃には、既に私は男物の

着物を纏い、男言葉を話すよう

強いられていた。

「お前は源氏の、未来を担う者だ」

そう言い聞かせられて育った。

誰もが私を男として扱い、

期待の眼差しを向けてきた。

その視線が、私の胸を締め付ける。

応えなければならない重圧と、

応えきれない自分への苛立ち。


だが、鏡に映る私の姿は、

どう見ても女だった。

華奢な手足、柔らかな肌、

そして、誰にも見せてはならぬ、

このしなやかな身体。

夜中にこっそりと着物を脱ぎ捨てては、

月明かりの下、自分の身体を

見つめたものだ。

そのたびに、胸の奥から

せり上がってくるのは、

拭いきれぬ絶望と、

誰にも言えぬ深い孤独だった。

私は、決して誰にも触れさせない、

そう誓うように、自らを抱きしめた。


私は、男として生きねばならぬ。

源氏のため、兄である頼朝のため。

それが、私に与えられた唯一の

存在理由なのだと、

幼い心に刻み込まれてきた。

この山での修行は、そんな私にとって、

己を欺くための、唯一の逃げ道だった。

剣を握り、ひたすらに己を鍛える。

汗を流し、息を切らすたびに、

女であるという事実が、

少しずつ薄れていくような気がした。

いや、そう信じるしかなかった。

男として、源氏の武士として、

誰にも劣らぬ力を身につけねば。

そうでなければ、私の存在に意味はない。

そうでなければ、私は、

この世界にいる価値がない。


ある日、私はいつものように

人目を避けて、山の奥深くへと

足を踏み入れていた。

日が傾き、木々の間から差し込む光が

薄れていく。

その先には、決して人が

踏み入らぬとされている、

禁足地があった。

古くから言い伝えられる、

禁忌の場所。

だが、なぜか、その場所に

強く惹きつけられる感覚があった。

まるで、何かに呼ばれているかのように。

抗いがたい衝動が、私の足を動かした。


鬱蒼と茂る木々をかき分け、

さらに奥へと進む。

空気はひんやりと冷たく、

深い静寂に包まれていた。

そこは、この世のものとは思えぬ、

異様な雰囲気を纏っていた。

森の息遣いさえも聞こえない、

絶対的な静寂。

ふと、足元に倒木を見つけた。

古くからそこに横たわっているかのような、

苔むした巨木だ。

その上で、ひと休みしようと腰を下ろした。

木肌の冷たさが、

私の熱くなった身体に心地よかった。


その時だった。


まるで、この世のすべてが――

彼の出現を待っていたように、音を止めた。

時間の流れが、一瞬、凍りついたかのようだった。


ざわめいていた木々の葉音も、

遠くで聞こえていた鳥の声も、

すべてが唐突に消え失せたのだ。

肌を撫でるはずの風さえも、

ぴたりと動きを止めたかのように感じられた。

私の鼓動だけが、

異様な速さで胸を打ち鳴らしていた。


暗がりの奥から、

ゆらりと現れたのは、

漆黒の衣を纏った人影だった。

それは、背中に巨大な翼を持つ、

まさに伝説に聞く「天狗」そのものだった。

だが、その姿は異形であるはずなのに、

どこか神秘的で、

人の世の者とは隔絶した、

神々しいまでの威厳を放っていた。

彼の存在が、周囲の空気を

震わせているように感じられた。


彼の顔は、深々と被った頭巾と

天狗面によって隠されている。

だが、その面越しに、

私を射抜くような強い視線を感じた。

その視線に捉えられた瞬間、

私の心臓は、

激しい音を立てて脈打ち始めた。

それは恐怖か、畏敬か、

あるいは、それら全てを

超越した何かか。

私には、その感情が何なのか、

まるで分からなかった。

ただ、彼の瞳から目が離せなかった。


天狗は、音もなく私の前に降り立った。

その動きは、あまりにも自然で、

まるで空気が彼の体の一部であるかのようだった。

ひんやりとした山の空気が、

一層研ぎ澄まされたように感じられた。

そして、彼は、

静かに口を開いた。


「牛若……」


その声は、深山の湖のように静かで、

しかし、私の心の奥底に響き渡るような、

不思議な響きを持っていた。

私の偽りの名を、彼は知っている。

それも当然だろう。

伝説の天狗なのだから。

だが、その声に名を呼ばれただけで、

胸の奥に――妙な熱が灯った。

それは、恐怖や畏れではない。まるで――

「初めて、自分が女であることに意味があった」

そんな錯覚さえ覚えるほどの、ときめきだった。

この感覚が、私を貫く。


天狗は、ゆっくりと私に近づいた。

その一歩一歩が、まるで私の

心の扉を叩くように響く。

私は動けない。

恐怖で体が震えているのか、

それとも、この不思議な存在から

目を離したくないのか。

自分でも分からなかった。

ただ、彼の姿が、

私の視界を埋め尽くしていた。


彼の影が、私の小さな身体を覆う。

そして、その手が、

ゆっくりと私の顔に伸びてきた。

その瞬間、私は、

抗うことのできない、

強い運命の流れを感じた。

この出会いが、

私の知る「義経の一生」を、

まるで誰かと取り換えるかのように、

全く違うものに変えていくのだと、

本能的に悟った。

それは、避けられぬ宿命のようだった。


夜の帳が降りる中、

私は、天狗の眼差しに囚われたまま、

自分の未来が、

この異形の存在によって、

大きく書き換えられようとしているのを、

ただ感じていた。

そして、この日から、

私の「義経」としての物語が、

本当の意味で始まるのだと、

静かに胸に刻んだ。

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