第5話 夜の森と獣人の庇護
夜が深まるにつれ、ノアの体の熱は本格的な発情期へと突入していった。
肌は火照り、体中が燃えるように熱い。
喉は張り裂けそうに渇き、下腹部は疼き続ける。
体中の血が熱く逆流するような感覚に、ノアは寝具の上でのたうち回った。
昨日まで感じていた、Ωとしての不快な兆候が、今や嵐のように吹き荒れている。
「っ、は…ぁ……ふ、ぐ…っ…」
苦しさに喘ぐ声が、漏れる。抑えようとしても、嗚咽が勝手に喉からこみ上げてくる。
額には脂汗が滲み、呼吸は荒い。
(しっかりしろ…俺…こんなところで…っ)
パシン、と自分の頬を叩くが、熱は収まらない。
(やだ…! こんな、こんな醜態…誰にも見られたくない…!)
王族としての誇りが、ノアを突き動かす。
こんな姿を、獣人のセトになど見られたくない。
まして、セトに抱かれるなど、言語道断だ。
あの男は、何を考えているか分からない。
きっと、この機会に乗じて、俺を完全に支配しようとするに違いない。
(逃げないと…! 誰にも見られない場所へ…発情期が終わるまで、隠れるんだ…!)
ノアは震える足で立ち上がった。体中の力が抜け落ちそうになるが、必死に理性を保つ。
窓から差し込む月の光が、わずかに部屋を照らしている。
外へ出て、獣人騎士団の詰所の裏手にある森へ向かえば、きっと誰にも見つからない。
部屋の扉がギィと音を立てた。
無言で入ってきたのは、セトだった。
金色の瞳が、発情に苦しむノアをじっと見つめる。
ノアは咄嗟に身を隠そうとするが、体の震えを隠しきれない。
「どこへ行く、ノア。」
セトの低い声が、部屋に響く。
「っ…どこでも…ない…! 勝手なことをするな!」
ノアは必死に強がって言い放つが、その声は上ずっていた。
セトは無言でノアに近づいてくる。その一歩一歩が、ノアの心を震わせた。
「…発情期だな。この状態で、どこへ行くつもりだ。」
セトの手が、ノアの額に触れる。ひんやりとした感触が、熱を持った肌に心地よく、ノアの心臓が大きく跳ねる。
「っ…触るな! 俺の勝手だ!」
ノアはセトの手を振り払おうとするが、その力は弱々しい。
セトはノアの抵抗をものともせず、その腕を優しく掴んだ。
「このままでは、お前が危ない。…大人しくしていろ。」
ノアはセトの腕の中で、熱い息を「はぁ、はぁ」と吐き出す。
セトの長い耳がぴくりと動き、僅かに鼻をノアの首筋に寄せる。
獣人独特の、野性的な匂いがノアの鼻腔をくすぐり、Ωとしての本能がぞわっと粟立つ。
「…いい匂いだな。甘い。…だが、外に出れば、他の獣人が嗅ぎつける。」
セトの言葉に、ノアはぞっとした。
他の獣人にこの姿を見られるなど、死んでも御免だ。王族としてのプライドが、ノアの心を支配する。
「っ…それなら…っ、お前も…俺に近づくな…っ!」
セトはノアの抵抗をものともせず、腕の力を緩めない。
むしろ、抱きしめる腕に少しだけ力がこもる。
「そうはいかない。…お前はもう、俺の番だ。」
ノアは悔しさに唇を噛み締め、セトを睨みつけるが、その瞳には生理的な涙が滲んでいた。
セトが扉を開けた隙に、ノアは必死の力を振り絞って、その腕から逃れた。
(ここに椅子を重ねれば…!)
震える手で椅子を動かし、足を掛けるが崩れて転ぶ。
「っ…逃げる…っ!」
半ば衝動的に、ノアは暗闇に続く外へと飛び出した。
獣人騎士団の詰所の裏手には、深い森が広がっている。
月明かりはわずかで、木々は不気味な影を落としている。
(ここなら…誰にも見つからない…!)
発情期の熱と混乱で、ノアの思考は正常に働いていない。
足元はぬかるみ、小石が転がっている。何度も転びそうになりながら、ノアは必死に森の奥へと走り続けた。
風に乗って、血と腐肉の混じったような、野生の獣の匂いが鼻腔を突き刺す。
セトの匂いとは違う、底知れぬ殺気と飢えの匂いだった。
(くっ…誰かいる…っ!)
ノアの肌は熱く、体は震えが止まらない。次第に、道が分からなくなった。
木々の形はどれも同じに見え、どこへ進めばいいのか全く分からない。
「っ…血…? やだ…こんな森で…っ」
「…たす…け…っ」
自分の声に恥じ入り、唇を噛み締める。助けを求める声は、喉の奥でかき消される。
恐怖と絶望が、ノアの心を覆い始めた。
その時、どこからか、獣の遠吠えのような声が聞こえた。
それは、セトの声ではない。もっと、野蛮で、乱暴な響きだった。
(っ…やだ…っ! 誰か…助けて…っ!)
ノアは体が震え、その場にうずくまってしまう。
もう、逃げる気力も、隠れる場所を探す余裕もなかった。
その時、背後から、ひんやりとした、しかし確かな温かさを持つ手が、ノアの肩に触れた。
「離せっ…!」
震える手で小石を掴み、セトの胸に叩きつけるが、彼は眉一つ動かさなかった。
「…見つけたぞ、ノア。」
セトの声だ。月明かりに浮かぶ金色の瞳が、獣のように光っていた。
血の匂いを嗅ぎ分ける捕食者の視線に、ノアの背筋が凍る。
その声を聞いた瞬間、ノアの心に、これまで感じたことのない安堵が広がった。
まるで、嵐の海で、ようやくたどり着いた灯台の光のような。
セトはノアの体を優しく抱き起こし、その額に自分の額を寄せた。
獣の匂いがノアを包み込み、発情期の苦しさが和らいでいく。
「…一人で、危険なことをするな。…お前は俺の番なのだから。」
セトの言葉は、まるでノアの心を解き放つ魔法のようだった。
ノアはセトの胸に顔を埋め、涙を流した。
(…やだ…こんなの…王子の俺が…っ…でも…温かい…)
恐怖と安堵、そして、今まで誰にも見せなかったΩとしての本能を、この獣人の前ではさらけ出せるという、不思議な安心感。
セトはノアを抱き上げたまま、再び部屋へと戻った。
部屋の隅には、火鉢にかけられた鍋から、甘く優しい香りが漂っている。
セトはノアを寝具にそっと横たえさせると、鍋から白い粥を器によそい、ノアの口元に差し出した。
「食え。体力を使った。…甘くした。」
ノアは羞恥で顔を隠したい気持ちでいっぱいだったが、セトの気遣いと、その粥から漂う優しい匂いには抗えなかった。
スプーンを口に運ぶ。温かく、ほんのり甘く、柔らかく煮溶けた米が舌に触れる。
唇の内側まで痺れるような優しい甘さで、喉奥がきゅんと疼いた。
まるで、幼い頃、母に抱かれていた記憶を呼び覚まされるようだった。
(…美味しい…)
「…ありがとう…セト。」
震える声で呟くと、セトの指がノアの頬を優しく拭った。
セトは何も言わず、ただノアが粥を完食するまで、静かに見守っていた。
ノアは、もうセトに抱かれることを「屈辱」とは思わなかった。
彼の料理が、彼の温かさが、そして彼が与えてくれる快楽が、ノアの全てを満たしていく。
王宮での生活では決して味わうことのなかった、真の安らぎがそこにはあった。
セトが、ノアにとっての「居場所」になりつつあることを、ノアは感じ始めていた。
夜は更け、セトはノアの隣に寄り添うように横たわった。
ノアはセトの温かい体温を感じながら、深く穏やかな眠りに落ちていった。
翌朝、ノアの体には、赤く咬まれた跡と、まだ疼く奥の熱が残っていた。
けれど、その痛みさえ、どこか甘美に思えた。
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