インヴィジブル・レディ

桃井 理稚

第1話

平日のオフィス街の深夜。

コンビニもない。飲み屋もない。

24時間営業のオフィスもあるにはあるが、基本は窓から光が漏れることなく、ビルのガラス面は漆黒で、地上には静謐が満ちている。


京塚道弥きょうづか みちやはオータムコートの襟の中で首をすくめ、ゆっくり、ゆっくり、無人の道路を歩いていた。

たまに車が通りかかるが、人を人とも思わぬ、別世界のあやかしのような気配を撒きちらかしていく。

(ぼくひとりの世界だ)

道弥は冷たい空気を心地よく頬で味わった。


ふと。

なにか、よい香りがした。

華やかで、甘く、耽溺させるような。

つい、そちらに目を向けると、暗いビルとビルの間で、女がこちらを向いていた。


黒い帽子を深くかぶり、ベージュのロングコートを襟を立てて着ている。足元は暗い色のストッキングに黒いハイヒール。長い髪は明るい茶色で、カールがたっぷりほどこされている。


路地というほど狭くない。2台の車が余裕ですれちがえる幅がある道路だ。その真ん中で、街灯の白い光を浴びながら、女は静かに立っていた。

その立ち姿が、なんというか、堂に入ったもので、大物女優かスーパーモデルのたたずまいである。

道弥は口笛を吹きそうになった。

立ち止まって、女を見つめる。


女は、帽子のつばに手をかけ、小首をかしげるような会釈をした。

顔は見えないが、これは美女だろう。

誘い込まれるように、一歩、女に近づく。

避けられればそれまでと思ってのことだが、女も道弥に一歩近づいた。

ゆっくりしたテンポでふたりの距離が縮まってゆき、やがて、1mほどになった。


いや、それでどうする?

声をかけて、軽い挨拶でもするのか?

酒か食事にでも誘うのか?


道弥がやや我に返ったとき。


女は、帽子と髪の毛……かつらを、ずるりと脱いだ。

道弥は驚愕する。

女には、頭部がなかった。


女は帽子とかつらをアスファルトに落とすと、今度はロングコートの前を開けた。

コートの裏地は白。

それに映える黒いレースの下着は、冒涜的なまでに、胸を突出させていた。

黒いレースのショーツは張り出したヒップラインを。黒に赤のリボンとフリルがついたガーターベルトはくびれた腰を。暗い色のストッキングが包むのは、見事な脚線美。

曲線と立体感を惜しみなくさらけ出した、女神のようなランジェリーヌード。

しかし、肉体がない。実体がない。なのに生々しく、呼吸をしている生命、肌を感じる。


女は、コートも脱ぎ捨てた。

二の腕まで覆う、黒いレースの手袋。


もう、こわいのか、魅入られているのか、わからない。

道弥は生唾を飲み、視線は釘付け、声も出ない。身動きできない。

体から、はがすように目を逸らして顔あたりを見て、気づく。

女は、真っ赤なルージュをひいていた。

笑んでいる。

そして。


女は、ブラをはずした。はずす前に、このレースの下にあるのは虚無ではないと教えるように、胸を自分でもみしだいた。

ショーツを脱いだ。

ガーターベルトのクリップをはずし、ハイヒールを片足ずつ一度脱いで、ストッキングを脱いだ。ダンサーのように片脚立ちで、脱いでいる方の脚は、ひざを高く上げて脱いだ。

道弥は彼女の、見えないものの、あるべき中心に目を凝らし、呼吸を荒げた。

ハイヒールをはきなおしてから、彼女はロンググローブの手の甲で、真っ赤な口唇をぬぐった。その指先で、優雅に、もう片方の手袋の指先をつまみ、するりと脱いだ。


コツリ……コツリ……。

女がハイヒールの音を響かせ、道弥に近づいてくる。

ハイヒールしか身につけていない、全裸の女だ。

黒いハイヒールしか見えないはずが、道弥はランジェリーで確認した立体を鮮明に視ていた。


足音が止まった。

ハイヒールのつまさきは、道弥の靴のつまさきに触れんばかりの至近距離にある。


女の甘い香りを鼻先に感じた。

髪だろうか。うなじだろうか。

やわらかな胸元に、顔をうずめたような錯覚をした。

道弥は身動きできなくなり、目を閉じ、女の狼藉を待った。


何分たったかわからない。

目をあけると、ハイヒールがそこにあり。

白い街灯に照らされたアスファルトには、コートや下着が点々と散らばり。


女は香りも残さず、完全に消え失せていた。

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