「味覚の記憶」へようこそ ~感情を味わうパティシエの心温まるレシピ~
逢坂
第1話・前編:塩味の涙と、甘い再出発のショートケーキ
早朝、まだ街が薄暗い中、俺は「味覚の記憶」の扉を開けた。
ひんやりとした空気が、オーブンの熱とバターの甘い香りで少しずつ温まっていく。
この匂いは、いつだって俺の心を穏やかにしてくれる。
カラン、カラン。
ドアベルが、柔らかな音を立てた。
「マスター、おはようございます」
聞き慣れた、優しい声に振り返ると、そこに立っていたのは、いつもの老紳士だ。
彼からは、いつも決まってほろ苦いカラメルのような味がする。
奥さんを亡くした寂しさと、楽しかった日々の思い出が、静かに混ざり合った、複雑でいて、どこか温かい味。
「おはようございます。いつものプリンでよろしいですか?」
「ええ、お願いします」
老紳士は、慣れた様子でカウンター席に腰を下ろす。
その背中からは、今日の穏やかな「味」が、じんわりと、まるで温かい紅茶のように伝わってくる。
この穏やかな味を、そっと見守るように。
いつもより少しビターなカラメルソースを多めに、隠し味にラム酒を数滴。
彼が心安らかに過ごせるよう、願いを込めて仕上げたプリンは、きっと彼のお気に入りの味になっただろう。
俺の名前は味沢譲(あじさわ ゆずる)。
人の心を「味」として感じ取ってしまう、少し変わった体質を持ったパティシエだ。
喜びは蜜のように甘く、悲しみは塩辛く、怒りは焼けつくように辛い。
俺の舌は、良くも悪くも、人間の感情のすべてを知っている。
それは、時に重荷になることもあるけれど、今は、この店で誰かの心を癒すためにある、と信じている。
午前中は、穏やかな時間が流れた。
通りを行き交う人々の、ささやかな期待の甘みや、日常の退屈な無味をぼんやりと感じながら、俺は次の仕込みに取り掛かる。
昼過ぎ、再びドアベルが鳴った。
カラン、カラン。
顔を上げると、そこに一人の若い女性が立っていた。
黒い髪が印象的な、すらりとした女性。
その姿を捉えた瞬間、俺の舌に、**今まで感じたことのないような、深く、そして純粋な「味」**が広がった。
「っ……!」
思わず、息をのむ。
その味は、まるで上質な生クリームの甘さを、無理やりかき消すかのような、強烈な塩辛さだった。
喉の奥まで、じんわりと、けれど容赦なく染み渡るような、濃密な悲しみの味。
ああ、これはきっと――。
失恋の味だ。
しかも、その傷は、想像以上に深い。
女性は俯いたまま、ゆっくりとカウンター席に座った。
その華奢な肩が、微かに震えているのが見て取れる。
「ご注文は……」
俺の問いかけにも、彼女は顔を上げない。
「なんでもいいです……甘いものを……」
消え入りそうな、か細い声だった。
その声に、さらに強い塩味が伴う。
ただの悲しみだけじゃない。
そこには、深い喪失感と、自分を責めるような、ほんの少しの苦い後悔の味が、複雑に絡み合っていた。
この塩味を、どうすればいいだろう?
俺は内心で、そっとため息をついた。
安易に甘いもので覆い隠そうとしても、それはきっと彼女の心を癒すことにはならない。
彼女が本当に求めているのは、一時的な逃避ではなく、この塩味を、そっと受け入れ、消化することのはずだ。
「少し、お時間いただいてもよろしいですか?」
俺はあえて、すぐにデザートを出そうとはしなかった。
まずは、心を落ち着けてもらいたい。
「……はい」
小さな声が、かろうじて返ってきた。
俺は温かいハーブティーを淹れて、彼女の前にそっと置いた。
ふわりと広がるカモミールの優しい香りが、ほんの少しだけ、彼女の周囲の塩味を和らげるように感じた。
彼女は無言でハーブティーを一口飲む。
その間にも、俺の舌には、彼女の感情の波が、静かに、けれど確実に押し寄せていた。
塩味の奥に、ツンとした酸味が混じってきた。
これは、裏切りに対する、小さな怒り、だろうか。
でも、その怒りの味はすぐに、苦い渋みへと変わる。
自分への不甲斐なさ、情けなさ。
「今日は、少し肌寒いですね」
俺は、当たり障りのない、けれど心を込めた言葉を振ってみる。
彼女はびくりと肩を震わせ、ゆっくりと顔を上げた。
潤んだ瞳が、一瞬だけ俺と合う。
「……そうですね」
か細い声だった。
その時、彼女の目元が、ほんのり赤くなっているのが見えた。
ああ、本当に辛いんだな。
その表情から、さらに多くの感情の「味」が、俺の舌に伝わってくる。
「まさか、こんなことになるとは……」
ふと、彼女が小さく呟いた。
その言葉と共に、鉛のように重い苦味が舌に広がる。
絶望に近い、深い後悔と諦めの味。
俺は厨房に戻り、頭の中で様々なデザートを思い描いた。
ただ甘いだけのケーキでは、きっと彼女の心には届かない。
彼女のこの複雑な「塩味」を、どうすれば、そっと抱きしめてあげられるだろう?
スポンジを焼いてみたり、生クリームを泡立ててみたりするが、どの組み合わせも、彼女の強烈な悲しみの前では、あまりに頼りなく感じられた。
俺の舌には、試作の甘みとは裏腹に、彼女の「塩味」がまだ強く残っている。
むしろ、どんどん濃くなっているようにさえ感じられた。
彼女の感情の深さに、俺自身も心が揺さぶられる。
『……譲』
ふと、遠い日の、懐かしい声が聞こえたような気がした。
俺がこの能力を、パティシエとして活かすことを決めた、あの時の「味」の記憶。
それは、辛くて苦い、でも最後にほんのりと温かい希望の甘みが残る、不思議な味だった。
そうだ、あの時も、ただ甘いだけじゃなかった。
なぜ、塩味を打ち消すことばかり考えていたんだろう?
俺は、はっとする。
塩は、甘みを引き立てる。
一見相反する味なのに、ごく少量加えることで、甘さをより際立たせる効果がある。
彼女のこの「塩味」は、彼女自身のものだ。
それを否定するのではなく、そっと受け入れ、包み込むことで、その奥にある**本当の「甘み」**を引き出せるのではないか?
涙の塩味を、癒しに変える――。
「ショートケーキ……」
俺の口から、無意識に言葉がこぼれた。
そう、ショートケーキだ。
優しさの象徴のような、シンプルでいて、けれど奥深いデザート。
このケーキに、彼女の「塩味」をそっと包み込むんだ。
新たなアイデアが、光のように頭の中に降り注いだ。
この「塩味」を、どうすれば彼女の希望の甘みに変えられるか。
いや、変えるのではない。
彼女の悲しみを受け止め、そこから新たな甘さを引き出すんだ。
俺は再び、新鮮な卵を手に取った。
──彼女の涙が、甘い再出発のきっかけになりますように。
心の中で、静かに、けれど強く願った。
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