ある戦傷医療小隊の話

櫻庭七

ある衛生兵たちの話

プロローグ

 乾いた土と砂ばかりの荒野に、銃弾が飛び交っている。

 敵地から飛来した擲弾が炸裂し、爆発音が波紋のように戦場を駆け抜けていった。


「やられた! 衛生兵!」


 緊迫した前線に、怒号が飛び交う。

 銃弾を浴びて足を負傷した兵士を、同胞が塹壕に引きずり込んだ。

「おい、大丈夫か!」

 駆け寄った兵長は小銃を地面に投げ捨てて、戦友の耳元で怒鳴った。負傷した戦友は呼び掛けに応じることもできず、ただ痛みに顔を歪めている。

 「くそ、血が……! 衛生兵ーッ!!」

 震える手で傷口を押えながら、兵長が叫ぶ。温かな血液が手を濡らす感覚が、彼の焦りを加速させていく。


「来たぞ!」

「ここ! ここだ!!」

 男たちは塹壕の底で、真っ赤に濡れた手を大きく振った。

 視線の先、砂煙の向こうから、二人の兵士が現れた。彼らは赤十字マークの入った鉄帽と腕章を身に着けている。

「ハーヴェイ、止血準備」

 小柄な兵士を携えて駆けつけた男が、負傷者の傍らに膝をついて、冷静に言う。

「は、はい」

 ハーヴェイと呼ばれた衛生兵は雑嚢を下ろして中を探ると、上官へガーゼと止血帯を渡した。上官はそれを素早く受け取って、手際よく処置を進めていった。

「ひっ!」

 鉛玉が頭上を通過し、ハーヴェイは小さく悲鳴を上げて身をすくめた。

「もっと頭下げろ!」

 振り向いた上官が声を荒げる。すぐさま姿勢を低くしたハーヴェイは、ショックを隠せないまま、不安に揺れる瞳を上官に向けた。

「気をつけろ、あいつらは衛生兵だろうと構わず撃ってくる」

 嫌悪感を露わにして、上官は言った。その声色から、怒りが滲み出ている。

「そんな……」

「残念だが、ここには赤十字条約なんてものは存在しない」

 冷たい声でそう言って、上官は止血の状況を一瞥した。

 ハーヴェイは返事をすることも忘れて、目を見開く。動きかけた唇は何も言葉を紡がないまま、固く閉じられた。そして、塹壕の上を通過する銃弾を忌々しげに睨みつけた。

  ”赤十字は保護の標章”。それがこの世界の常識。若いハーヴェイは、戦場における自分たちの扱いはそういうものだと思っていた。

 だが、相手が不正規戦闘を行う集団となっては話が違う。上官の言葉は、教会過激派という民兵を相手としたこの戦場において、衛生兵である自分たちが狙われない保証も捕虜とならない保証もない、という事を示していた。

 ハーヴェイは鎮静剤のアンプルを差し出しながら、奥歯を強く噛みしめた。

「だから、我々も銃の携行が許されているのですか」

 腰に吊った小型拳銃の重みを感じながら、静かに問う。

「……ああ、そうだ」

 疑問をぶつけられた上官の声色に、淡い影が差した。

 鎮静剤を刺し終えた彼は、血に塗れた処置用手袋を地面に落として、振り向く。

「これは護身用だ」



 * * *



 砂漠仕様の戦闘服に赤十字を身に着けた男が、通信機を背負った兵士に駆け寄った。

「無線機を貸してくれ」

「どうぞ」

 無線兵はそう答えて背中を差し出す。男は通信機の周波数をノースポート地区野戦病院のチャンネルに合わせ、通話機を手に取った。

「こちらノースポート地区、担当医官ハインリヒ。グリッド十一で負傷者一。即応搬送、応答求む。オーバー」

 落ち着いた声でそう告げた後、ノイズ交じりに了解の応答が返る。

 その間、若い女性衛生兵のハーヴェイは負傷者の傍らで経過を見守っていた。戦場で衛生兵が出来ることは限られている。全力を尽くしたつもりでも、ここでの医療は銃後に及ばない。

「これ、どうにかできないのか?」

 倒れた仲間に寄り添う兵士が、もどかしそうに訊ねた。ハーヴェイは気まずそうに目を伏せて、首を振る。

「あとは救援を待つしか……」

「この程度なら、命に別状はない」

 言い淀んだハーヴェイの後ろから、冷淡な言葉が被せるように言った。彼女が振り向いた先には、搬送要請を終えて現場に戻ってきた上官の姿があった。

「じきに搬送班が来る。到着まで傍にいてやってくれ」

 ハーヴェイの上官、ローベルト・ハインリヒは、その青い瞳を不安げな兵士に向け、少しだけ声色を和らげて言う。

「ああ。助かったよ。ありが……」

 礼を告げようとした兵士は、不意に言葉を飲み込んだ。その視線が、ハインリヒの胸に留まる徽章に吸い寄せられていく。

 それから一呼吸置いて、兵士は弾かれたように顔を上げた。

「あ、有難く存じます、軍医殿!」

 兵科仕込みの美しい敬礼。まっすぐに揃えられた指先の下で、兵士の額にじわりと汗がにじむ。

 ハインリヒは砂埃で汚れた頬を戦闘服の袖で拭いながら、微かに口角を上げた。

「医師として当然の責務だよ」



 * * *



「ハーヴェイ准尉、行こう」

 ハインリヒは負傷兵に寄り添っていたハーヴェイへ、背中越しに声を掛けた。彼女はすぐに立ち上がると、駆け足で上官の後を追う。

 塹壕の底にたまった砂埃が立ち上り、二人の衛生兵の姿が霞む。

 掌を戦友の血で汚した兵士は、空虚な瞳でそれを見つめていた。


「なんで軍医が、前線に……」


 遠くなっていく赤十字マークの後ろ姿を見送りながら、兵士はぽつりと呟いた。

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