第14話 神殿

 時は遡り十分前。ハオランがアクパーラ2へと潜入を果たし、アーバンエイブとの戦闘を繰り広げていたのと同時刻。中央管制室では、車椅子の老人が食い入るようにモニターを見つめていた。白内障によって濁った瞳は、何も映らないモニターから少しも目を離さない。


「アマヒト1、アマヒト2、水深六千メートルに到達! 中継良好。映像、出ます!」」


 オペレーターが告げると同時に管制室の大型モニターが映像を表示した。


『こちらアマヒト1、管制室聞こえているか』

 スピーカーから流れる男性の声に、オペレーターがすかさず反応する。

「よく聞こえている。アマヒト1状況の報告をしてください」


『我々は現在水深六千メートルの地点に到達した。現在、目標ポイントまで徒歩で移動中。潜水服の状態も良好だ。軋む音一つしない』


 潜水夫の豪快な笑い声が流れる。その声は精一杯の虚勢が作り出したものだ。彼の体は今、深海のような極限環境でも人間の活動を可能とする特殊パワーローダーに包まれていたが、その精神は、暗い深海に自分とバディだけという孤独感と、パワーローダーの丸みのある分厚い耐圧殻に少しでも破損があれば、一瞬で押し潰されるという恐怖感でパニック寸前だった。


 アビサルゾーン。それが二名の潜水夫が現在潜行している領域だ。新エネルギーの発見やサイバネ技術の発達により、人類の活動領域は前世紀に比べて一層の広がりを見せていたが、深海はその大半のエリアがいまだに未踏破だった。



 モニターに表示された潜水夫の主観映像はやや下向きの視点で固定されている。投光器がかつて生物だった白い堆積物に刻まれたT字型にエリア分けされたパワーローダーの足跡を照らす。先行するアマヒト2の足跡だ。


 アマヒト1も、投光器で周囲を照らしながら一歩、また一歩と確実に歩みを進めた。堆積物を踏むたびに、かつて生物であった残骸は舞い上がり、雪のように降り注いだ。視界が左右に揺れた。


『管制室見えているか? 柱だ。不自然なまでに等間隔で柱が並んでいる。まるで導かれているみたいだ』

 パワーローダーのアームが柱を撫でると、奇妙なうずまき模様がいくつも刻まれているのがわかった。

 潜水夫たちの進路は平坦で、何ら障害物は存在しない。驚くほどにスムーズな道程に、彼らは逆に不安を覚えた。


 アマヒト1の中継映像が移動を止めた。投光器は前方を照らしており、眼前ではアマヒト2のパワーローダーが立ち尽くしているのが見えた。


『どうした、大丈夫か。おい返事をしろ』

 アマヒト1が無線に呼びかけるが反応がない。


 オペレーターはコンソールのモニターに表示された潜水夫のバイタルサインを確認した。脈拍は高数値を叩き出し、脳波は激しく乱高下している。アマヒト2の搭乗者は、極度の緊張状態に陥っているようだった。荒い息遣いがスピーカーから聞こえてくる。


「ロラゼパムを注入しろ。これ以上の遅れは許容できない」

 老人の掠れた声がオペレーターに指示をする。彼は焦っていた。十年も求めてきた答えにすぐそこまで迫っていることへの興奮と同時に、刻一刻と近づいてくる死神の影に、老人の心臓は激しく脈打っていた。


「ですが教授、アマヒト2はすでに二回投与を行っています。これ以上の投与は内臓機能に障害が出る危険があります」


「その時は機械化でもすればいい。時間がない。やるんだ」


「了解。アマヒト2にロラゼパムを追加投与」

 オペレーターがホログラム投影された仮想コンソールを操作した。


 深海のアマヒト2のパワーローダーへと、接続された通信ケーブルを通して遠隔で指令が送られる。パワーローダーの内部構造に造設された機構が作動し、抗不安薬を搭乗者へと注入した。 


「バイタル安定。アマヒト2、応答せよ」


『は、はい!』

 スピーカーから流れる荒い息遣いが若い男の声に変わった。自分の状況も飲み込めていないようなぼんやりとした雰囲気だ。


「アマヒト2、時間が押している。すみやかに移動を再開せよ」


 オペレーターの指示に、アマヒト2は慌ててパワーローダーの操縦を再開させた。


 そのやり取りを、老人は車椅子のひじ掛けをコツコツと指で叩きながら、いらだたし気に見ていた。


「教授、よろしいでしょうか」

 背後から呼びかけられ、老人は首を回して背後に視線を向けた。そこにはタクティカルベストを身に着け、カービンライフルで武装した兵士が立っていた。ベストには、アルファベットのSを三つ組み合わせたシンボルが縫い付けられている。大手民間軍事会社であるスリーエスのシンボルだ。


「何のようかね。私は今この場から一歩も動けないのだが」


「申し訳ございません。ですが作業員の代表者があなたと面会させろとしつこいものでして……」

 兵士は辟易した顔で管制室の正面出入り口を一瞥した。

 老人も車椅子を方向転換してそちらを向いた。


 薄汚れた作業着を着た黒光りした肌の老人が腕組みをして立っているのが見えた。


「彼なら仕方がないか。通してくれ」

 車椅子の老人はため息を吐きながら、自分へと近づいてくる友人を見つめた。


「フランツ……、俺が何を言いたいかわかるか?」

 黒光りする肌の老人は、不信感に満ちた視線で友人を睨み車椅子の老人の名前を呼んだ。


「いやわからない。教えてくれ、ゾニ」


「作業員たちの休みのことだ。みんな家に帰れずに疲弊している。ひと月とは言わない。せめて半月ごとの連休のローテーションで作業工程を見直してほしい」


「そうだな。検討してみよう」


 曖昧な答えに、ゾニはフランツの上等なワイシャツの襟を強く掴んだ。

「政治家のようなことをっ! そう言って先月も何も音沙汰なしだった! 今この場で確約してもらいたいんだよ、こっちは!」


「なら正直に言おう。君の要望を聞いている暇はない。今は一秒だって時間が惜しいのだ。彼らに休みを与えている時間はないんだ」

 フランツ教授は冷たく告げた。


「!? なぜ……!」


 ゾニの質問に、フランツは答えなかった。その代わりに、スピーカーから事態の進展を知らせる潜水夫たちの声が響いた。


『管制室聞こえますか! 目標ポイントに到着しました。映像は届いていますか? 凄い光景です!』


 管制室のモニターに映るのは、パワーローダーの投光器が照らす漆黒だけだ。


「こちらからは何も見えない。少し待て、こちらのモニターの明度を上げる」

 オペレーターは画面の光量を上げるダイヤルを回した。


『凄い、これは凄いですよ。ここは入り口なんだ。あっちにもこっちにも彫像がびっしり。こんな深海なのにとてもキレイな状態だ!』

 アマヒト2の声が興奮の熱を帯びる。そのバイタルサインが高数値になるのにあわせてモニターの明度も上がっていく。


 管制室の誰もが目を奪われた。


 見よ、海底の底にあって堂々と佇むあの驚くべき姿を。


 どこまでも続くような長い階段の先には、人間を模した精緻な彫刻がいくつも施された巨大な門が鎮座していた。


 カメラをズームさせれば、ヒマティオンやキトンなどの古代ギリシャの服装をした人々が、門の外壁に隙間なく刻み込まれているのがはっきりとわかった。


 アマヒト2は後ずさった。その彫刻の誰もが自分を見ていた。遠くの方に目を向けると、緩やかな岩肌が門を囲んでいて、この場がすりばち状の盆地になっているのがわかった。


 岩肌にはいくつもの穴が開いている。そのひとつから、淡い燐光が漏れ出していた。それに続いて隣の穴やさらに隣の穴にも光が灯りはじめた。


「あ……」

 アマヒト2は視線を門に戻した。岩肌の穴から発せられる光には猛烈に好奇心を掻き立てられた。あそこに行ってみたい。あの光の正体を見てみたい。あの門を通れば、きっと光が何なのかがわかる気がした。


 止まっていた足も気付けば動き出していた。階段のはじまりから門までにはかなりの距離があったはずだが、気付けば門の目の前に立っていた。近くで見ると、門の荘厳さがよりはっきりとわかった。門にところ狭しと彫られた彫刻たちのいずれも、息づかいすら感じられそうな表情で瞳のない眼球を来訪者に向けている。


 門の上部に座す一際大きな彫刻の目がぎょろりと動いた。生気のない濁った白い瞳が、来訪者をつぶさに観察している。


 ああ、見守ってくれているのだな。そう思いながら、彼はパワーローダーで門に侵入した。淡くだが確かに輝く燐光が迎え入れて包んでくれる。


 彼は今の自分の状態が正常ではないとわかっていた。それでも、神殿の奥底へと訪れたいという衝動を抑えることなどできなかった。


 深海であるにも関わらず数海里先すらも見渡せそうな光が、神殿の窓という窓、穴という穴から溢れ出す。


 アマヒト2はさらに歩みを進めた。

 その奥に、何があるかは分からないけれど……、それでも彼の心は安らぎに満ちていた。

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