白文記 — Dipso —
鼎 史生
第1話
建安四年7月。
黄河を遡上し、ようやく子賁の船団は許に到着した。
子賁は一度座礁した二番船の上から後ろを振り返った。
三番船の上では子賁に気づいたのだろう。係留用の綱を準備していた貌利が手を止め、片手をあげ振っている。金髪が輝いてよく目立つ。
それに子賁も軽く手を振り返した。
水先案内人を雇っているので問題はないと思われるが、川底の岩に船底を引っ掛けてはたまったものではない。特に二番船はかなり傷んでいるため、ぶつければあっという間に沈むだろう。
越南から呉を経るうちに船乗りも漢族が増えた。貌利も丹香もローマからはるかに離れて、すでに新しい名前に慣れつつある。
彼らも子賁と同じ、故郷を失った者たちである。己の名前に愛着はあっても、その土地ごとになじむ努力の必要性は分かっている。
子賁はもちろん、貌利も丹香も別の土地に行くのであれば、新しい名前が増えることになる。名前の数だけ自分の経てきた世界があると考えれば、それもまた面白い、と子賁は思った。
すでに先刻、小舟で船員の一人が港に向かっている。どこに船をつけたらよいかを聞きに行ったのだ。
やがてその船員と港の監督者らしい男がこちらに向かって手を振る。
その誘導に従って、賑やかに銅鑼を鳴らしながら次々に船団は港に入った。とはいえさすがに船が大きすぎて接舷は難しい。やや沖に停泊させ、碇を下したうえで縄でつなぐ形になった。
わらわらと人が集まってくる。
野次馬の数はやがて港が黒く見えるほどに膨れ上がった。中には押されて水に落ちる者もいる。
隣を見れば、丹香が目を輝かせて港を見ている。
「こんな景色、初めてだ」
「俺も初めてだな」
子賁はようやくここまで来たか、という感慨を持った。が、その気持ちはどこか冷えている。
インドでもエジプトでも、ここまで歓待はされなかった。商業的な往来の多い地の為、海外からの船の入港がさほど珍しいわけではないからである。当然多くの民族や船を見慣れている人々は、歓待もしない代わりに取り立てて排除もしない。当たり前のように子賁達を受け入れていた。
目の前の歓声や高揚はすなわち、いかに中原が孤立しているか、また荒れていたかという証左でもある。
そう考えるとやはり喜ばしいとは思えなかった。
港の役人が野次馬を止めるのに苦心している。数人応援が来たが、それでも今にも突き倒されそうな有様だ。
「大変そうだ」
丹香がやや気の毒そうに言った。子賁も肩をすくめる。
「あまりにひどいようなら別な場所に船を移動したほうがいいかもしれん。…が、河だからなぁ」
黄河もまだ許付近は川幅も広い。川幅の広がりに応じて流れは緩やかになっているがそれでも大河である。碇を下しただけでは流される可能性は否定できない。
今の時期はそこまで水量が急激に増えることはないのを子賁は知っている。が、それでも用心に越したことはない。
と、その時。
「どけ、どいてくれ!」
男の声が上がる。馬に乗ったその男は群衆を押し分け、船に近づいてくる。馬も人ごみに驚き、前足を挙げながら七月の暑さにあえいでいた。
小太りの、五十歳ぐらいの男だ。
やや遠目ではあるがその男の顔を見たとき、あっと子賁は思わず声を上げた。
忘れるはずもない顔である。
その声に馬から滑り降り、地面に膝をついて男が号泣した。
年を取ったその顔を、しかし子賁は忘れようはずもなかった。
名を呼ぶ唇が震えた。
「楊異…!」
群衆に巻き込まれないように、すぐに小舟を出し楊異を船にあげる。
差し向うと、懐から布を出して楊異が顔をぬぐった。
「十一年ぶりか」
「はい。まさかこのようなところで文様にお会いできるとは思いませんでした」
「はは、今は字を名乗っている。子賁と呼んでくれ」
それに楊異が目を細め、じっと子賁の姿を眺めた。
楊異からすれば子賁は自らの背に負って亀茲を脱出し、ともに砂漠を歩き抜けた少年である。太原にも折があれば寄って顔を見にきていたが、それでも奉先が建陽を殺した最後の一年は結局会えずじまいである。
少年が四海を経めぐり、立派な大人になって帰った来た感慨は無量であった。
「字を名乗られましたか…立派になられた」
「それもあなたのおかげだ」
子賁は静かに頭を下げた。侠者の楊異がいなければ、子賁は生き延び、今日ここにはいられなかったのは確かである。
「わたくしは何もしておりません。ただやはり私にとって文様は敬愛する人です。…白氏と呼ばせていただきます」
「少々かしこまりすぎている気もするが…まぁいい。今はここに住んでいるのか」
聞きたいことはたくさんある。それらも胸が詰まってなかなか出てこない。
子賁が尋ねると、楊異がうなずく。
「行商を続けておりましたが、武器の扱いでかなりもうけましてな。取引の規模が大きくなり、店を構えないとやりづらくなったので、許に店を構えました」
「ほう、武器商人か」
戦乱の世では確かに売れるものではある。
「はい。…武器は凶器ではありますが、このような世では武器がないと泣くものが出ます。武器で平和になるならば捌くべきと思ったのです。弱い者はきれいごとでは生き延びられませぬ。不吉の具とはわかりながらも売ることにしました。」
子賁は笑った。侠の清冽さを知ったうえでの現実味のないきれいごとを嫌う楊異のあり方は、子賁も好むものである。
「そうだったか。苦労も多かったろう…ほかにも何を扱っているのかな」
「はい、もちろん武器だけではございません。西方や北方にも隊商を往来させているので、そちらの珍品も扱っております」
それを聞いて子賁ははたと思いついた。
天啓ともいうべき再会である。
「そうか…楊氏、昔なじみとして助けてもらいたいことがある」
「なんでしょう」
「ごらんのとおり、羅馬や埃及、印度で様々なものを仕入れてきた。それはいいが捌こうに販路がない。楊家でお願いできないだろうか…物での支払いになってしまうが」
金にするには売る必要があるが、売れないうちは現物で支払うしかない。
羅馬からは神殿の銀を持ち出し、埃及でもいくばくかの金と交換して出航している。インドでも物をさばいて多少の足しにはしているが、それも路銀としてほぼ使い切ってしまっていた。
それにぽんと一回、楊異が手を叩いた。目を輝かせる。
「もちろんです。…さぞ珍しいものを運んでこられたのでしょう。品を拝見できますでしょうか」
「ぜひ頼む。が、船の中より一旦荷は下したほうがいいかもしれない。商船団は解散して船員を故郷に返さんとならないが、船の補修が必要だ。…置き場所はあるかな」
「倉庫がありますので、まず入れられる分だけそちらに…。店の者を呼んでまいります」
そのようなやりとりののち、子賁は船員をすべて集め、前金として楊異からもらった金をそれぞれに渡した。かなりの量の金である。また船頭のイシドゥルスには別途で旅費として金を渡すことを約束している。出航までは楊家に預け、運用して増やしてもらうことを依頼した。
子賁は船団の一同を船着き場に集めた。
解団式である。
「長いものは埃及から、短い者でも越南からの付き合いだ。大変苦労を掛けた。…そして楽しい旅だった」
「俺らも楽しかったぞ頭!」
誰かのヤジのような叫びに、子賁は一笑する。一部の船員は甲板から落ちそうなほどに身を乗り出して子賁の話を聞いていた。彼らは銅鑼をじゃんじゃん鳴らし、あるいは船端を叩いてはやし立てる。
陸に上がっているほかの船員たちもどっと肯定の叫びを上げる。
「これにてこの商船団は解散する。…イシドゥルス、一度座礁した二番船は恐らく廃船にせねばなるまい。が、残り二隻は多少傷んでいるがまだ使える。お前に与えるので好きに使え。ここにいる間に何か困ったことがあれば楊家に知らせろ。俺はそこにいる」
貿易風の関係上、彼らは次の春まで許にとどまらないとインド方面に戻れない。早春に黄河を下り始めるだろう。
一隻廃船になるが、船員のうち数名は越南から中原への帰還者である。人数的には二隻で問題はない。
許にいる間の南西方面帰還組の世話は楊家に頼ることになっていた。
それにイシドゥルスがうなずいた。
「補修をして、来年の春に印度に戻る。…頭、一世一代の旅、楽しかった。船乗りとしてこんな旅ができたのは本当に幸せだった」
ばしりとイシドゥルスの手を握り、子賁は深くうなずく。
イシドゥルスの灰色の目と、子賁の碧眼が期せずして互いを見つめた。
来年の春に出帆すれば、もう一生逢うことはないだろう。
「俺もまた陸路で西に行くかもしれないが、どうなることか。…ただ、どこにいようが海と空を通じて我らは仲間よ。これだけは確かだ」
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