夢の治験:悪夢からの脱出
水辺 京
第1話 茹だる夏、届いた誘惑
茹だるような真夏の熱気が、狭いアパートの六畳間にこもっていた。
じっとりとした空気は、都会の片隅で一人暮らしをする俺、アオイの心をじわりと蝕む。
窓を開けても生ぬるい風が吹き込むだけで、蒸し風呂状態の部屋では、クーラーのリモコンを手に取る指が重かった。
電気代、食費、通信費……漠然とした不安が、通帳の残高を見るたびに胸の奥に広がっていく。
都会の大学に進学したいという俺の夢を、祖父母は快く応援してくれた。
幼い頃に両親を亡くして以来、ずっと大切に育ててくれた二人の優しさに、感謝してもしきれない。仕送りも定期的に送ってくれる。
だけど、その度に心の奥底にチクリとした痛みが走った。
これ以上、年老いた祖父母に経済的な負担をかけたくない。
自分で稼いで、いつか恩返しがしたい。そんな思いが、この夏、切実なものとなっていた。
スマホをいじる指が、SNSのタイムラインを流していく。
友人の楽しそうな夏休みの投稿。眩しいばかりの青春のきらめきが、今の俺には少しだけ眩しすぎた。
そんな中、ふと目に留まった広告に、俺の指は止まった。
『高額報酬! 最新睡眠治験モニター募集』
魅惑的な文字が、画面の中で踊っているように見えた。
『10日間の参加で百万円』
一般的な高校生のバイト代とは桁違いの金額に、俺の心臓はドクリと跳ねた。
詳細をタップすると、そこには『期間中の外出は不可』『睡眠中以外は自由』といった文言が並んでいる。
10日間、施設に缶詰になるのは少し抵抗がある。
だが、エアコンの効いた快適な環境で、寝ているだけで高額な報酬が手に入るなら、これほど効率の良い稼ぎ方はないのではないか?
祖父母に頼らず、このお金で学費の足しにしたり、欲しかったゲーム機を買ったり、あるいは少しでも貯金に回したり……様々な可能性が頭を駆け巡った。
迷いは一瞬だった。募集要項を隅々まで確認し、応募フォームに必要事項を打ち込んでいく。
名前、住所、年齢……そして、健康状態に関する質問。
既往歴の欄に目をやった時、ふと幼い頃の記憶が脳裏をよぎった。
両親の死。それは、俺の記憶の大部分が曖昧な、遠い日の出来事だ。
事故だったと聞いている。ただ、その詳細を祖父母が語ることは滅多になく、俺自身も積極的に聞くことはなかった。
深く掘り下げれば、きっと心の奥底の、触れたくない場所に触れてしまう気がしたからだ。
しかし、応募フォームの質問は細かかった。
『過去に大きな病気や怪我をした経験はありますか?』
『精神的なショックを受けたことはありますか?』
といった項目が続く。俺は少し迷ったが、結局は正直に『幼い頃に両親を亡くした経験がある』と記入した。
それが治験とどう関係するのか分からなかったが、虚偽の申告をするのも気が引けた。
数日後、登録したメールアドレスに『治験面接のご案内』という件名のメールが届いた。
「この度は、弊社の睡眠治験にご応募いただき、誠にありがとうございます。厳正なる審査の結果、貴方様にはぜひ一度、面接にお越しいただきたく存じます」
審査の結果? その言葉に少し驚いた。
応募者が多いから、全員が面接に進めるわけではないのだろう。
俺は、まさか受かると思っていなかっただけに、少し舞い上がった。
指定された面接場所は、都心の一角にある、少し古びた雑居ビルの一室だった。
外観からは想像もつかないほど、内部は白を基調とした清潔感のある空間が広がっている。
しかし、そこにはどこか無機質な、病院とも違う独特の雰囲気が漂っていた。
俺はわずかな胸の高鳴りを感じながら、面接室のドアを開けた。
面接室には、白衣を着た男女が二人座っていた。どちらも四十代前後だろうか。
特に表情は読み取れないが、視線は鋭い。彼らの前に座ると、部屋に妙な緊張感が走った。
「アオイさん、本日はお越しいただきありがとうございます」
男性が淡々とした声で言った。質問は一般的なものから始まった。
治験への応募動機、健康状態、普段の睡眠時間など。俺は緊張しながらも、祖父母への恩返しのためと正直に答えた。
しかし、質問は次第に、俺が最も触れたくない部分へと向かっていった。
「応募フォームにご記入いただいていますが、アオイさんは幼い頃にご両親を亡くされているのですね」
女性がノートに目を落としながら問いかけてきた。俺は小さく頷いた。
「差し支えなければ、当時のことをもう少し詳しくお聞かせいただけますか?」
「……事故だった、としか聞いていません。正直、あまり覚えてなくて」
俺がそう答えると、男性は少し身を乗り出した。
「お父様やお母様のお顔は覚えていらっしゃいますか? どんなお顔でしたか?」
唐突な質問に、俺は言葉に詰まった。
思い出そうとしても、漠然とした残像があるだけで、はっきりと顔を思い描くことはできない。
「いえ、すみません……ほとんど覚えてないんです」
「そうですか。では、お二人はお互いをなんて呼び合っていましたか? あるいは、アオイさんのことをどう呼んでいましたか?」
「それも……」
彼らの質問は、容赦なく続いた。体型、仕草、好きだったもの、口癖――幼い頃の俺が、両親と過ごした些細な記憶を辿ろうとするが、脳裏に浮かぶのは霧のようにぼんやりとした風景ばかりだ。
事故のショックもあって、俺の記憶はまるで深い底に沈んでしまったかのように、どうしても引き上げることができなかった。
「本当に、何も覚えていないんですか?」
男性の声に、わずかな失望のような響きが混じっていたように感じた。
俺は申し訳なくなり、「はい、すみません」と答えるしかなかった。
しかし、彼らはそれ以上追及せず、代わりに「ありがとうございます。詳細な情報に感謝いたします」と言った。
その時、彼らの目がわずかに光ったように見えたのは、俺の錯覚だろうか。
面接は終わり、彼らは俺に治験への参加が決定したことを告げた。
「アオイさんのような方は、この治験にとって非常に貴重な存在です。我々の研究に貢献していただけると確信しています」
その言葉に、俺は安堵と同時に、どこか言いようのない違和感を覚えた。
しかし、高額な報酬が、その違和感を覆い隠してしまった。
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