如月に山田
世楽 八九郎
第1話
「このっ――――デカ女‼」
パァンと冬空を裂くようなビンタの音が響いた。
いいのが決まったな。これは。
見て見ぬふりでやり過ごしたかったけど、仕方がない。
「はぁ……」
愛車のキーはどうしたものか。少し迷ってから、引き抜いたそいつをポケットに放り込みドアを開ける。
若者、それも高校生のいざこざに大人があれこれ口出しなんてするもんじゃないと思う。それが教師という立場になると捨て置けなくなるのは
「はぁ~」
ため息が白い煙になってゆっくりと後方に流れていく。
姿こそ見えてないが、女子同士の喧嘩。手まで出た。
「……長引いたら」
松浦大先輩に引き継ごう。
方針を決め生徒向けの表情を作ると、角を曲がる。
正直なところ当事者たちが撤収していたら助かると思っていたけど、一人、いた。
「……のっ、やろう!」
肩を怒らせている長身黒髪の女子の後ろ姿があった。
頬を押さえているのは、ビンタを食らったからか。
怒気を立ち昇らせている背中はいまにも駆けだし第二ラウンドを始めそうな躍動感に溢れている。
なんて声掛けしたものか。
そんなことを考えていると彼女は意外にも肩の力を抜いてこちらに振り向いた。
「「あっ」」
予期せぬ出来事に漏れた声は彼女のほうが少し大きかった。
「「…………」」
「……見ました?」
「見てはない。けど、聞こえたから――」
思わず、彼女から目を逸らした。
「きっ、如月先生……!」
不意に呼ばれ、揺れた視界が彼女の瞳に引き寄せられた。
少し明るい
初対面、というわけではなかったけど。
きっと、これが俺と山田の出会いだ。
◇◇◇
出来れば内密に。
そう言った山田に付き合い裏庭の手洗い場に場所を移した。
寒いだろうに彼女は頬に水を当て続けている。
「……ふぅ」
納得したのか山田は蛇口を締め、顔をあげた。
手持無沙汰に用意したハンカチを彼女に差し出す。
「やっ、別にいい……」
辞退する山田に押し付けるようにハンカチを渡す。
「ぐっしょり濡れたハンカチは嫌でしょう?」
「……まあ」
ハンカチを受け取った彼女は素直に顔を拭く。化粧っ気はないが整った顔にはまだ赤い線が残っていた。
「ども。洗って、返します」
「いや、いいよ。安物だし、捨てて」
山田の丁重な返答に今度はこちらが辞意を告げる。嘘じゃないし、面倒のほうが大きい。しかし、彼女はハンカチを一振りして、きれいに折り畳みスカートのポケットに仕舞ってしまう。
じゃあこれでと解散するタイミングだが、喧嘩の
「あー、あのさ?」
「はい?」
歯切れ悪い呼びかけに山田が首を傾げる。
その動作は滑らかでいて振れ幅が大きく、どこかフクロウを想わせた。
「痕、残ってる。まだ」
自分の頬を指先でなぞってみせる。
その動きはフクロウから逃れるネズミの尻尾のようだったろう。
こちらの言わんとすることを理解したのか、山田の目が見開かれた。
「あぁ、のぉ……クソちびぃぃ~!」
ここに居ない加害者への怒りを滾らせるその姿を見て確信する。
こいつは大人しいタイプではないなと。
◇◇◇
愛車にキーを差し込み、じんわりと回す。
「…………」
助手席の山田がルームミラーとにらめっこをしている。
どうしてこうなった。
隣の山田は、先程の視線の鋭さそのままに首の関節が錆び付いてしまったかのように顔を左右に動かしている。
『すんません』の断りと、ミラーをベタベタ触っていないという免罪符がなければ舌打ちものだが、いいだろう。許そう。彼女は花も恥じらう女子高生だ。頬に傷なんて気が気でないのさ。
山田を放置して車外へ出てトランクを開ける。鎮座しているボストンバッグを引っ掴み運転席へと戻ると中身を漁る。
「えっ? なん、ですか、ソレ?」
バッグを抱きかかえて戻ってきた俺に山田は困惑している。
多分、あるはずだ。
次々と引っ張り出されては放り投げられていく物品をいつからか山田がダッシュボードへ整列させ始めた。変なところで冷静な対応に任せてバッグを漁り続ける。
「――よしっ」
お目当てを
「えっ? え? えぇ……?」
ボストンバッグを後部座席に放る俺を見て山田が困惑を続ける。
目の前には3つのコンシーラー。減りは極端に偏り、期限は知らん。パフは、もう指でいいや。
「頬の傷」
「え?」
「消してやるよ、ソレ」
そこは『消してあげるよ』くらいは言えよ、俺。
山田も山田だ。何故そこで神妙に頷いた。
◇◇◇
コンシーラーをグリッとほじり、手の甲で何度か掻き混ぜては山田の顔と並べる。
単に伸ばせばいいという訳ではない。冷やしてこの程度で済んだのは幸いだが、山田の頬にはミミズ腫れが出来上がっている。
コイツを塗り潰しつつ、おでこや首元との違和感なく仕上げる。
なるほどね。
「いいな……?」
「……あ、ハイ」
了承と共に山田は目を閉じた。
キャンバスになることを受け入れたその肌に指先で色を乗せていく。
「じっとして」
「……はい」
撫でるというには重く、油彩筆にはない執拗さで触れられることに震えながらも山田は大人しくしている。
思うまま拡がってはくれない色彩を頬から顎へ伸ばし、首筋へと馴染ませてゆく。
腕時計の秒針と鼓動が重なる。
問題ない。仕上げられる。昼休み中には、終わる。
「――出来た。問題ないよな?」
「……嘘。なんで? なんで……? はぁ?」
「問題は……?」
「ない、です」
山田はルームミラーのなかの元通りな自分の顔を眺めている。その仕草は今度は猫のようだ。
「じゃあ、午後の授業には出て、くれるかなー?」
「え? あっ、イイトモぉ?」
猫ハンドともガッツポーズともつかないリアクションの山田の肩を押しやり、教室へ向かわせる。
「お互い他言無用でヨロシク」
コンシーラーで汚れた指先と手の甲を振り、彼女を送り出す。
山田は素直に従い、ドアを開け放ち、車外へと脚を伸ばした。
「ありがとうっ、
最後に悪戯の共犯者にでもおくるような笑顔を見せてドアを閉めると、山田は振り返ることなく走り出した。
「うーん、残念……!」
惜しいな、山田。先生のフルネームは
「……って」
そういう俺も山田のフルネーム、知らないな。
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