『もうひとりでに歩いてる』

仕事を終えて、駅の改札を出たときだった。


気づくと、俺は、いつもと違う道を歩いていた。


それが“違う”と気づいたのは、ほんの些細な角度の違いだった。

商店街の看板が、いつもより左に見えた。

行きつけのコンビニが、視界に入らなかった。


そして、足が──勝手に歩いていた。


「……?」


咄嗟に立ち止まろうとしても、足が止まらなかった。


むしろ、“立ち止まる”という行為を忘れていたかのように、自然に、滑らかに、一歩、また一歩と進んでいく。


(なにこれ……?)


まるで、俺自身が“俺”の背中を押しているような感覚。


足音は、確かに自分のものだ。

だが、その“リズム”に、わずかな違和感があった。


──これは、俺の歩き方じゃない。


誰かの“足音”を、俺が鳴らしているような。


駅から家までは、徒歩15分ほど。

だがこの日、俺はまったく別の道を歩かされていた。


気づけば、見慣れない通りを進んでいる。

古びた電柱、誰もいない交差点、赤く錆びたガードレール。


(この道……知らないはずなのに)


不思議と、怖さはなかった。

不安もあったが、それよりも“当然ここを通るものだ”という感覚が、体の奥に流れていた。


それが怖かった。


意識とは裏腹に、肉体が“知っている”動線を歩いている。


まるで、どこか遠い過去に──

あるいは“自分ではない誰かの記憶”を、再生しているかのように。


信号が変わるタイミングが、すべて完璧だった。


立ち止まる必要が一度もない。


次の角を曲がれば青になる。

階段を降りれば、扉が開く。


──誰かが、俺の前を歩いていて、すべてを整えているのか?


それとも、俺自身が、“後ろから押されている”のか?


「ちょっと……待て……」


そうつぶやいて、ようやく足が止まった。


汗が背中をつたっていた。

呼吸が速く、手のひらが湿っていた。


ふと、横を見ると、曇ったガラスの自販機があった。


そこに映った、自分の影が──“遅れて”動いた。


ぞくり、と背筋が粟立つ。


振り返った。


がらんとした夜道。誰もいない。


だが、確かに、背後で“靴音の余韻”が残っていた。

自分の足音じゃない。わずかに、時間差がある。


誰かが──いや、“何か”が、すぐ後ろをなぞるように歩いていた。


再び歩き出す。


もう止められなかった。


まるで、あの一度きりの“休符”が許されたかのように、体はまた自動的に進み始めた。


足裏の感触が薄くなる。

空気の圧が、肌にまとわりつく。


目の前に、歩道橋が現れた。


普段なら絶対に通らないルートだ。


でも、足は階段を昇っていた。


上がるごとに、背中に“視線のような何か”が乗ってくる。

誰もいないはずなのに、視界の端に“誰かの髪の端”が揺れた気がした。


階段の中腹で、ふと、立ち止まる。


下を見る。

影が、二つあった。


明らかに自分の影ではない、もう一つの影が──自分の横にぴたりと並んでいた。


形も、動きも、自分と似ている。

だが、右足を動かしても、その影は、左足を前に出した。


動きが、真逆だった。


(この影……俺じゃない)


橋の上に出たとき、風が吹いた。


目の前に、誰かが立っていた。


背格好は自分と同じ。

薄暗い街灯の下で、顔は見えない。


だが、その姿は、どこか“先回りしていた自分”のようだった。


「……おまえが、導いてたのか」


言葉が漏れた。


向こうの“俺”は、何も言わなかった。


ただ、ゆっくりとこちらに背を向け、向こう側の階段を降りていった。


俺の足も、自然とあとを追っていた。


そのまま歩き続けると、古い団地が見えた。


知らないはずの建物なのに、どこか懐かしさがあった。


中央の棟に近づいたとき、エントランスのガラスに映る自分を見て、息を呑んだ。


──逆だった。


自分の姿が、“左右反転”していなかった。


鏡のはずなのに、右手に持っていたカバンが、映像の中でも右だった。


そのガラスに映った“俺”は、俺と同じ歩幅で、俺と同じ足を出して、ただ──別の場所に立っていた。


まるで、二枚の異なる映像が、偶然にも重なって見えているだけのように。


(もう……俺は、“俺のいる場所”にいない)


そのとき、ポケットの中のスマホが震えた。


通知。アプリのタイムログだった。


「今日の歩行ルートを確認しますか?」


表示されたマップは、真っ直ぐ家に帰っていた。


(いや、違う。俺は今ここに──)


そう思って見上げたその場所は、もう住宅街ではなかった。


崖だった。


足元は、濡れた土。


前方にフェンスがある。


どうしてここにいるのか──わからない。


足が、動いた。


前に。


フェンスの向こうへ。


誰かに押されたわけじゃない。

なのに、体は、進もうとしていた。


叫び声も出ない。


ただ、視界の端に──もう一人の俺の影が、笑っている気がした。


口だけが、わずかに動く。


『もう、ひとりでに歩いてるだろ』


──その瞬間、足が止まった。


目が覚めると、自宅のベッドの上だった。


汗でびっしょりになっていた。


夢? そうだ、きっと夢だったんだ。


スマホを手に取る。


GPSのログを見る。


──そこには、崖の縁まで“歩いたルート”が、正確に記録されていた。


家にはいった記録が──なかった。


俺はいま、どこにいるのだろう。


たしかに、今ベッドに横たわっているはずだ。


けれど──


足は、まだ“何かの導線”を歩き続けている気がする。


意識と身体が、いつか重ならなくなっていく感覚。


次、目を覚ましたとき──

歩いているのは、“もうひとりの俺”かもしれない。


──終──

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る