『いなくなった足音』
それは、ほんとうにささやかな違和感だった。
夜十時。いつものように台所で歯を磨いていると、ふと耳が壁の向こうに向いた。隣の部屋──そこに住んでいるのは、ひとりの男性だったはずだ。年齢は五十代くらい。寡黙で、あまり顔を合わせたこともないが、夜になると必ず「足音」が響いていた。廊下を二往復する、あのリズム。
ぺた……ぺた……とスリッパの音。いつもなら、それが鳴る。
だが──その夜、聞こえなかった。
「……あれ?」
あまりに日常の一部に溶け込みすぎて、逆に不在に気づくまで時間がかかった。「音がしない」ことの異常さに、歯ブラシを止めたまま、じっと壁の向こうに意識を集中する。
何も聞こえない。テレビも、換気扇の回る音も。静かだった。
おかしい、と思った。
──もしかして、もう寝たのか? たまたま?
可能性はいくつかあった。そう自分を納得させ、気にせず寝た。
だが次の日も、またその次の日も、足音は戻ってこなかった。
まるで、音だけが引っ越していったみたいに。
「最近、隣……静かすぎないか?」
同じマンションの住人に、そう尋ねても誰も答えられなかった。管理人ですら「今月は家賃も入ってますし、特に連絡は……」と言った。
その週末、警察官が一度だけ来た形跡があったが、すぐ帰っていった。
張り紙もなければ、救急車の音もない。
なのに、部屋の前を通ると、強烈な違和感があるのだ。
ドアの向こうに、「音のない気配」がある。
音のない気配。それは、存在しないのに、存在しているもの。
たとえば、冷蔵庫の上にあったはずの調味料が突然なくなったときのような。
ふいに、背中に鳥肌が立つ。
あの部屋に、ほんとうに“人”はいるのだろうか?
──いや、そもそも、あの足音は最初から“人のもの”だったのか?
そんな不安が脳裏をかすめた。
でも、もっと恐ろしいのは、数日後だった。
自分の足音が──消え始めたのだ。
最初に気づいたのは、エントランスから玄関に向かって歩いているときだった。
コン、コン、コン……
あれ?
コン、 ……コン……
音が抜けている?
左足の踏みしめた音だけが、わずかに響く。そして右足のはずの音が、ない。
妙な感覚。足を運んでいるのに、音が鳴らない。耳がおかしいのかと錯覚し、何度も立ち止まって確認した。だがどうやっても、右の足音だけが不自然に薄かった。
それはまるで、“もう片方の自分”が、いなくなってしまったような──
その日以来、出歩くのが怖くなった。
音が片足だけなのは、不気味すぎた。
人の目には、もちろん両足ある。だが、足音だけは片足分しか鳴らない。まるで、地面が片側だけを受け止めていないかのように。
夜。窓を開けて、外の気配を確かめる。
カツ……カツ……カツ……
遠くから、誰かが歩いてくる音が聞こえる。
だが──その足音、どこかで聞いたことがある。
いや、聞き覚えがある。何度も。何日も。
──それは、自分の足音だった。
左足だけの音。重さ、間隔、靴底の擦れる音。
“自分が歩いていた時の音”が、なぜか他人のように、近づいてくる。
そして止まる。
部屋の前で。
まるで、「音だけ」が、帰ってきたように──
自分は部屋の中にいるのに。音は、ドアの外にいる。
「……だれ?」
問いかけは、虚空に溶けた。返事はない。
だが、また別の日──
夜の街を歩いていると、もっとおかしなことが起こった。
後ろを歩いているはずの人が、まったく音を立てていないのだ。
それどころか、自分の歩く足音も、まるで“他人のもの”のように感じ始めた。
たとえば──
歩いているとする。足音が鳴る。
だがその音が、ワンテンポだけ、ズレて聞こえる。
さっきまでの自分の動きに、音が「遅れて」ついてくるのだ。
まるで、自分の“気配”が遅れてついてきているように。
いや、ちがう。
音が、勝手にひとりでに“歩いている”。
──自分から離れていっている。
たとえば歩道橋の上。
自分が立ち止まっても、足音だけがそのまま歩き続ける。
コン、コン、コン──
足音が遠ざかっていく。振り向く。誰もいない。
音だけが、“歩いていく”。
存在の証明──それが足音だった。
それが、ひとつ、またひとつと剥がれ落ちていくような感覚。
自分の一部が、歩いて去っていく。
自分の気配、自分の実在、自分という存在の“裏打ち”が、日々、音となって消えていく。
そして気づく。
──最近、夢の中でも足音が聞こえない。
昔は、夢の中でも走っていた。何かから逃げる夢、追いかける夢。そのときは、いつも自分の足音がしていた。
だがいまは、無音。
走っているはずなのに、音がない。
まるで夢の中の自分も、“自分じゃなくなった”かのように。
そして、ある日。
目を覚ましたとき、何も聞こえなかった。
起き上がっても、布団の音がしない。
床を歩いても、床鳴りがしない。
冷蔵庫を開けても、扉の軋む音がしない。
すべてが──音を、失っていた。
そう、“自分の音”だけが。
耳鳴りもしない。静かすぎて、逆に脳が締め付けられるような恐怖。
スマホのアラームも鳴っていた。けれど、音は感じなかった。
“自分にとっての音”が、この世から、消えていた。
──ああ。
いまさら、気づいた。
自分はもう、いないのかもしれない。
音が消えていったのではない。
音が「拒絶」していたのだ、自分という存在を。
足音も、物音も、気配も──自分が“居る”ことを、証明してくれていた。
それを失うとは。
それは「死」ではなく、「不在」だ。
──存在しないのに、生きているということ。
たとえば、いまも隣の部屋の住人は生きている。
だが、足音はもう戻らない。
あれは、最初に“消された”存在だったのだ。
そして、次は──自分。
音も、影も、匂いも、言葉も。
ひとつずつ、自分から剥がれていく。
気配が消え、名前が忘れられ、歩いた道に足跡さえ残らない。
最期に残るのは──
「自分がいたかもしれない気配」だけ。
それは、誰にも証明されない。
ただ夜の廊下で、“遠ざかる足音”として、静かに響くだけだ。
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