『目が笑っていない』

その日を境に、娘の笑顔がどこか奇妙に感じられるようになった。


「あはは、お母さん、おかしい!」


リビングで絵本を読みながら、娘の茜が無邪気に笑う。

声は明るく、口元も楽しげに弧を描いている。


でも、なぜか──

茜の目だけが、まったく笑っていないのだ。


それは人形のように静かな目だった。

じっと私を見つめている。

何も映していないような、暗い瞳。


「茜……?」


私が名前を呼ぶと、娘は再び口元だけを笑顔にして答えた。


「なあに、お母さん?」


──でも、目はまったく動かない。

微笑んでいるのに、目が冷たい。


不安が胸をよぎったが、疲れのせいかもしれないと自分を落ち着かせた。


───


その晩、夫の祐一が帰宅した。


「ただいま」


「あ、お帰りなさい」


私が玄関へ向かうと、すぐ後ろから娘の声が響いた。


「おかえり、お父さん」


祐一が茜の頭を撫でながら言う。


「茜、今日は元気だったか?」


「うん、元気だったよ!」


娘の声は弾んでいた。

だが、その目はやはり、まったく笑っていない。


夫は気づいていない様子だった。

それとも、私だけが感じている違和感なのだろうか。


「あなた、茜、何か変だと思わない?」


夕食の後、私は小声で夫に尋ねた。


夫は軽く眉を寄せて答えた。


「変って、何が?」


「目よ。茜の目が……なんだか笑ってないの」


「目? 気のせいだろう。あいつはいつもどおりだよ」


夫は不思議そうに私を見るばかりだった。

私はそれ以上言うのをやめた。


───


翌日、スーパーの帰り道、近所の公園で茜と手をつないで歩いていた。

突然、近所の主婦・美佐子さんに声をかけられた。


「あら、茜ちゃん。こんにちは」


茜はにこやかに笑顔を作った。


「こんにちは!」


美佐子さんは頬を緩めると、私の耳元で小声で言った。


「ねえ、茜ちゃん、何か最近変わった? 目がちょっと、冷たいっていうか……」


背筋に寒気が走った。

私以外の誰かも、同じことを感じている。


私は無理やり笑顔を作った。


「いえ、特には……」


美佐子さんは疑わしげな目で私たちを見送った。


家に帰ると、私は急に恐ろしくなり、スマホのカメラを起動して茜を撮った。


「茜、写真撮るわよ。笑って」


茜はすぐに満面の笑みを作った。

だが、撮影した写真を見ると──そこには別の表情の茜が映っていた。


口元は笑っていたが、目があまりにも冷たく、鋭く私を睨みつけているようだった。


「何これ……」


心臓が激しく鼓動した。

指先が震え、スマホをテーブルに放り投げた。


茜が無邪気に近づいてくる。


「お母さん、どうしたの?」


その口元は変わらず笑っている。

だが、私の目にはその表情が、恐怖そのものに見え始めていた。


───


その晩、真夜中に目を覚ました。

薄暗い廊下に、ぼんやりとした声が響いている。


寝ぼけた私は耳を澄ませた。

それは茜の部屋からだった。


廊下を静かに歩き、茜の部屋の前に立つ。

扉に耳をつけると、中から娘の囁きが聞こえた。


「……サラ、サラ、サラ……」


サラ? 誰の名前だろう。

いや──その言葉は次第に変化していった。


「……サアラ……サアラ……サアラ……」


それは奇妙な発音だった。

まるで別の国の言葉のようで、かすれたような声で繰り返し呟いている。


私は震える手で扉を開けた。

部屋の中で茜はベッドに座り、壁を見つめていた。


「茜?」


娘はゆっくりと振り返った。

口元はいつもの笑顔だったが、瞳は真っ暗だった。


「お母さん、どうしたの?」


そのとき、私は完全に理解した。

──これは、もう私の知っている娘ではない。


───


その日から、私は茜を避けるようになった。

娘が近づいてくるたびに、背筋が冷たくなる。


夫にも相談したが、彼は笑って取り合わなかった。


「疲れてるんだろう? 茜は何も変わってないよ」


誰も信じてくれない。

でも、私にはわかる。娘がもう、“違う誰か”に変わってしまったことを。


───


ある晩、茜が浴室に入っているとき、私は脱衣所の前を通りかかった。

ふと、浴室の鏡が目に入った。


鏡に映った茜の姿を見て、全身が凍りついた。


そこに映った茜の目が──

口元以上に鮮明な笑みを浮かべていたのだ。


鏡の中の茜は、明らかに楽しげに目を細め、こちらを見つめていた。

なのに、実際の茜は無表情のまま鏡を見つめている。


茜は突然、こちらに気づき扉を開けた。


「お母さん、見てた?」


私の口が震え、言葉にならなかった。

その瞬間、鏡の中の茜が静かに口を動かした。


『お母さん、もう気づいてるんでしょう?』


───


その日を最後に、茜の様子はますますおかしくなった。

夜になると、またあの意味不明な言葉を繰り返す。


「サアラ……サアラ……サアラ……」


耳を塞いでも聞こえてくるその囁きが、私を追い詰めていった。


ある晩、とうとう耐えられなくなり、夫に訴えた。


「ねえ、茜はもう茜じゃないのよ。あの子はすり替わったの!」


夫は私を見て悲しそうな顔をした。


「……疲れたんだよ。君も少し休んだほうがいい」


違う。私は正気だ。

あの子がもう茜じゃないことを、私は知っている。


そのとき、部屋の外で茜の声がした。


「お母さん、何の話してるの?」


扉が開く。茜がにこやかに笑っていた。

そして──目が完全に、私を見下すように笑っていた。


「ねえ、お母さんは、もう私のこといらないの?」


その瞬間、夫の目も変わった。


「君は、もう茜のお母さんじゃないみたいだね」


夫の目も、茜と同じだった。

口元は穏やかに笑いながら、目だけが冷たく私を見ている。


私は悲鳴を上げ、玄関を飛び出した。


───


あれから数日が経った。


私は実家に帰り、何もかもを忘れようと努めている。

だが、時々スマホに家族からメッセージが届く。


『お母さん、早く帰ってきて。サアラ、サアラ……』


茜の声が聞こえるような気がして、夜は眠れない。


私はもう家に戻れない

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