『洗濯物のにおい』
最初に気づいたのは、白いシャツだった。
日曜の昼下がり。
梅雨の合間の晴れ間に、久々に外干しをしたときのことだ。
夫のワイシャツをたたもうとした瞬間、鼻先をかすめた。
──嗅いだことのない“におい”。
乾いた布の奥から、わずかに滲むように立ちのぼるそれは、
生臭いような、鉄のような、湿ったような……汗と、血を混ぜたような匂いだった。
「……なんだろう」
香水ではない。柔軟剤でもない。
けれど確かに、“誰かの匂い”がした。
それは、夫のではなかった。
翌日、もう一度そのシャツを洗濯機に入れ、熱湯消毒まで施した。
念のため、洗濯槽もクエン酸で丸洗いした。
他の衣類は無臭だった。
だが──
その白いシャツだけが、また同じ匂いを放った。
夫に匂いのことを話すと、「何言ってんだ」と笑った。
「香水なんてつけてないし、俺の加齢臭じゃねえの?」
けれど私は知っている。
夫のにおいではない。
むしろ、“知らない男”の匂いだった。
その週から、夫に微細な変化が現れ始めた。
口調が硬くなった。
笑わなくなった。
話しかけると、数秒遅れて返事が返ってくる。
しかも、その言葉遣いがどこか古くさく、平仮名にすると音の響きがねじれている。
たとえば、
「ただいま」ではなく「た゛だいま」
「ありがとう」ではなく「ありがど゛お」
声の響きそのものが、重く、喉の奥で別の何かが反響しているようだった。
夜になると、ひとりで風呂場にこもる時間が長くなった。
湯気の中から、低いうなり声が聞こえてくる。
「……ィ……ラ……バ……ナ……」
知らない言葉。言語の体系になっていない、音の塊。
私はある夜、意を決して、洗濯済みのシャツをもう一度嗅いだ。
その瞬間、息が止まりそうになった。
**匂いが“変わっていた”**のだ。
生臭さの中に、はっきりと人間の“皮膚”のにおいが混じっていた。
──それも、病院の霊安室のような、冷たい血の匂い。
夫の体にも、変化が現れ始めた。
手のひらが異様に乾燥し、指の節が腫れていた。
夜中に呻きながら寝返りを打ち、夢の中で誰かと会話している。
「……どこまで……つながって……」
「おまえ……いるか……?」
「こ゛こ、じゃない……のに」
声は、夫のものではなかった。
ある朝、夫がシャツを着て出勤した。
いつもと違う、その“においのする”白シャツ。
玄関先で「行ってきます」と言った彼の声が、聞き取れなかった。
音は出ていた。
だが、意味にならなかった。
それは──まるで、“人間の発音ではない”言葉だった。
唇が震え、舌が奇妙に動いていた。
その音の断片が、脳の奥に引っかかったまま消えない。
その日、夫は帰ってこなかった。
会社にも行っていない。
連絡もつかず、携帯も圏外のままだった。
警察にも連絡したが、行方不明者届を出しただけで、手がかりは得られなかった。
私は、夫の部屋を整理することにした。
そこで見つけたのは──シャツが“7枚”だったこと。
1枚しかなかったはずの白いシャツが、いつの間にか7枚に増えていた。
すべて、同じ形、同じ素材、同じタグ。
そして──すべて、“あのにおい”がした。
洗っても、乾かしても、風に晒しても消えない。
押し入れの中で、シャツたちは静かに呼吸をしていた。
ある夜、目が覚めた。
誰かが家の中を歩いている音。
玄関が開いて、閉まる。
私は立ち上がった。
リビングのドアが、ゆっくり開いた。
そこに立っていたのは、白シャツを着た“夫”だった。
けれど、顔が違っていた。
似ている。けれど、骨格が違う。笑い方が違う。瞳孔の開き方が違う。
そして口を開いた。
その中には、舌がなかった。
代わりに、喉の奥で、無数の声が囁いていた。
【……ナ゛……ア゛……ハ……】
それは言葉ではなかった。
においだけが、僕の皮膚に染み込んだ。
あの、血の匂い。汗の匂い。
“誰かの匂い”が、僕の中に入り込んできた。
次の朝、私は洗濯機を開けた。
中に、白シャツが1枚、増えていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます