夜道で“背中を撫でられる”と、帰れなくなる理由

午前二時。


終電を逃し、私は歩いて帰っていた。


バイト先の店長がやたらと話好きで、閉店後も長話に付き合わされたのだ。コンビニもとっくにシャッターを下ろし、人通りもなく、スマホのバッテリーは残り2%。頼れるものなど、どこにもなかった。


人気のない夜道。


街灯の光が、不自然なほど黄色い。まるで、そこだけ切り取られた世界みたいに。


空気が妙に湿っている。梅雨の終わり、気温の割に風が重い。


背中に、ぬるりと何かが触れた。


最初は気のせいだと思った。虫でもついたのか、汗が垂れただけか。


けれど、その“触れ方”が妙だった。


服の上から──人の指のようなものが、ゆっくり、ゆっくりと。


「ゾッ……」


言葉にならない吐息が漏れた。


振り返る。


誰もいない。


道路の白線がゆがみ、遠くの信号が点滅している。だが、人影はなかった。


気のせいだ。


そう自分に言い聞かせて、また歩き出す。


数歩。


また、“それ”が背中に触れた。


今度は、もっとはっきりと。


人差し指、中指、薬指──三本分の指が、首のうしろから肩甲骨のあたりまでを、なぞっていく。


ピリリと、背筋に電流が走る。


何かが“いる”。


そう確信したとき、ようやく私は早足になった。


でも、走ろうとはしなかった。


なぜか──走ってはいけない気がしたのだ。


全速力で振り切ったら、もっと“近く”まで来てしまう。


そんな気がした。


とにかく、家まで帰ろう。


それだけを考えて、足を前に出す。


住宅街に入ってから、妙なことに気づいた。


すべての家の窓が、閉まっている。


いや──カーテンが、内側から“ぎゅっと”押さえられている。


誰かが、中から、外を見ないようにしているみたいに。


さらに奇妙なのは、家々の郵便受けに貼られた紙。


何軒かに共通する文言があった。


「この道では、絶対に“背中を見せるな”」


「撫でられても、振り返るな」


「夜道では、“目を合わせる”な」


どういうことだ。


私はこの町に越してきて半年。そんな話は聞いたことがない。


貼り紙の内容は、まるで“知っている者”に向けた警告のようだった。


また、背中に“ぬるり”と感触が走る。


今度は、肩を押されるように、強く。


私はついに──走った。


道を曲がり、家の方角に向かってひた走る。


後ろから、“音”がした。


足音ではない。羽音でもない。


「すぅ……、すぅ……」


誰かが、息を吸う音。


それが、すぐ背後にあった。


走れ、走れ、走れ。


視界の端に、何かが見える。


街灯の下に、人の影が立っていた。


──いや、違う。


それは、人の形をしていた“何か”だ。


やけに手が長い。首が、折れている。髪が、逆立っている。


“それ”が、こちらをじっと見ていた。


そして。


笑った。


次の瞬間──


背中に“手”がのしかかった。


重い。冷たい。ぬめっている。


私は道路に転んだ。


膝をすりむき、掌が擦れる。


立ち上がろうとしたとき、目の前に“足”があった。


裸足。爪が異様に長く、土と血がこびりついている。


私は、ゆっくりと顔を上げた。


“それ”が、私を見下ろしていた。


「かえらないの?」


耳元で、声がした。


背後から。


けれど、目の前にも、“それ”がいる。


複数いる。


一体、二体──


いや、五、六体はいる。


みんな、私を囲むように立っていた。


そして。


背中を、撫でた。


「もう、かえらないんでしょ?」


そう囁かれた瞬間。


私は、そこから先の記憶が途切れている。


気がつくと、自宅の玄関前にいた。


朝の光がまぶしく、鳥の声が聞こえていた。


手には、傷があった。膝も、血が滲んでいる。


あれは、夢だったのか。


そう思いたかった。


けれど。


ポストの中に、一枚の紙が入っていた。


「一度、背中を撫でられた者は、道を“返される”。

 もう、元の場所へは戻れない」


その文字の下に、私の名前が書かれていた。


私は、自分の足元を見た。


靴が、知らないものになっていた。


──昨日まで履いていたものでは、なかった。


どこか、見覚えのあるような、黒い、革の、擦れた靴。


そして、つま先に、名前が刻まれていた。


「相川 瑠璃」


それは──三年前に、この町で行方不明になった女の子の名前だった。

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