通夜の晩、棺の蓋がゆれる理由
葬儀場ではなく、自宅で通夜をするなんて、今どき珍しいことだと思った。
「うちの村では、昔から“通夜は家で”って決まってるのよ」
母はそう言って、祖父の遺影を丁寧に飾った。祭壇は仏壇のある居間に設けられ、棺はそのすぐ横に安置された。
私は、その棺から少し離れたところで手を合わせていたが、どうしても近づく気になれなかった。
祖父は、私が生まれる前に一度失踪し、十数年後にふらりと帰ってきた。
以来、家族とは必要最小限の会話しかしないまま、家の離れで一人暮らしをしていた。私にとっては、顔のよくわからない、空気のような存在だった。
「でもね、あの人が帰ってきたの、ちょうど“あの日”だったのよ」
母がぽつりと言った。
「あの日?」
「……そう、村で“あの祠”が壊された日」
あの祠──
村の奥にある、杉林の中の古い石の社。人も寄り付かず、地図にも載っていない場所。そこにあった祠が、いつのまにか崩れていた。
「祠の中には、昔“何か”を閉じ込めたって、言い伝えがあるの。もう誰も、詳細は知らないけれど」
そう言って母は、線香の灰を払った。
祖父の死は、事故だったらしい。
離れの階段で転んで頭を打った。それだけだと、地元の警察は言った。
でも、父はこっそり私に言った。
「棺に入れるとき……首の骨が、ありえない方向に折れてたそうだ」
なぜそんな折れ方を?
父は口をつぐんだ。
その夜、親戚が集まり、通夜が始まった。
部屋の明かりを落とし、線香の香が漂う中、僧侶が読経を始める。
そのときだった。
「コン……」
誰かが、棺の蓋を叩いたような音がした。
一瞬、空気が止まった。
でも僧侶は気にする様子もなく経を続ける。
私は震える指で、母の袖をつかんだ。
「いま、音……」
「聞こえた。でも、気にしないで。通夜の夜には、よくあることだから」
「“ある”って……?」
母の声は、少しだけ震えていた。
「生きてた時に……棺を閉じられた“何か”が、まだ出たくないって、思ってるのかもね」
通夜の間、三度。
棺が、かすかに揺れた。
そのたびに、誰かの咳払いが重なった。誰のものかは、誰も見ようとしなかった。
通夜が終わり、親戚たちが仮眠に入った深夜。
私は眠れなかった。
風の音が聞こえる。線香の香りが濃くなった気がした。
気配を感じて、私は居間へと向かった。
暗い。窓が、どこからかの月明かりで照らされていた。
そして──棺の蓋が、わずかに浮いていた。
誰も触れていない。
でも、明らかに浮いていた。
五ミリほど。
私は声を上げそうになった。
その隙間から──指が、出ていた。
白く、乾いた、爪の黒ずんだ指。
それが、蓋を内側から押し上げている。
私は金縛りに遭ったかのように動けなかった。
そして──
指が、引っ込んだ。
ゆっくり、静かに、棺の中へ。
私はそのまま、崩れるように仏間の襖を閉めた。
翌朝、僧侶が言った。
「ゆうべ、何か、出ようとしていたかもしれませんね」
「え……?」
「“あれ”は、亡くなった方の魂とは限らない。ときどき、“何か別のもの”が入っているんですよ、棺には」
私と母は顔を見合わせた。
その日の葬儀は、厳かに行われた。
けれど、最後の出棺の際、納棺師が棺の中を確認して固まった。
「……あれ? ……おかしいな。ない……」
「何が?」
「……首が、……ついていないんです。昨晩、間違いなく首のある状態で納めたのに」
父がそっと棺に近づいて覗いた。
そして、何も言わず、ふらりと後ろに倒れた。
それをきっかけに、参列者がざわめき出す。
「呪いだ」
「出たんだ……“あれ”が」
誰かがそう言った。
「棺の蓋、ちゃんと締めたんですか? “三度、叩きました”?」
母は顔を青ざめさせて答えた。
「……してない……。昨夜、三度、勝手に……棺が揺れて……」
「それじゃ……あれは出てしまったんだ。別のものが」
村の古い習わしがあった。
“通夜の夜、棺の蓋が動いたら、それは中身が入れ替わった証拠”
“亡き者ではない“何か”が出る時──蓋が三度ゆれる”
“それを見た者は、次の器になる”
今、私は思い出す。
あの夜、棺の中から出ていた指は、爪が異様に長かった。
その後。
私は、誰かの声を聞くようになった。
「寒い……暗い……ここは、どこ……?」
夢の中。
誰かが、棺の中で、目を開けている。
それは──“私”だった。
もう一人の、私。
通夜の夜。
棺の蓋が揺れる理由は、ただ一つ。
“本物”が、出てこようとするのだ。
そして──“誰かの姿を借りて”戻ってくる。
だから今、あなたの家で。
誰かの棺の蓋が、少しだけ浮いていたら──
決して覗かないで。
そこに眠っているのは、あなたじゃない“誰か”かもしれない。
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