夜の校舎に棲む“うたうもの”──放課後にピアノを弾いてはいけない理由

「三階の音楽室には、出るらしいよ」


それが、転校初日の私が聞いた“歓迎の言葉”だった。


新しい制服にまだ馴染めず、知らないクラスメイトの視線を感じていた教室。その中で、妙に馴れ馴れしく話しかけてきた男子──上野翔が、ニヤつきながら耳打ちしてきたのだ。


「マジで。夕方のチャイムのあとに、ピアノを弾くと、出てくる。“うたうもの”って、呼ばれてるんだ」


「何それ、怖がらせようとしてる?」


「信じるかどうかは自由。でも、“うたうもの”ってさ、自分が弾いたメロディを覚えてて、次の日、ひとりでにピアノが鳴るんだって」


ぞわり、と鳥肌が立った。


その時の私は、まだそれを冗談半分で聞いていた。でも……音楽室に入った瞬間、言い知れぬ不安が私を襲った。


校舎の三階、北棟の突き当たり。


そこが音楽室だった。


窓の外には山が迫り、午後になると日差しが遮られ、いつも薄暗い。


ドアを開けると、黒く大きなグランドピアノが中央に据えられていた。静寂が支配する空間の中、どこか“ひと気”があるような気がした。誰もいないのに、視線を感じる。


──けれど、私はそこでピアノを弾いた。


私は、音楽が好きだった。


この学校に来る前、前の学校では音楽部に所属していた。転校で部活をやめてからというもの、どこか心に穴が開いたような気持ちでいた。


放課後、誰もいなくなった教室。


私は鍵を借り、ひとり、ピアノの前に座った。


──ト長調の旋律。


指が鍵盤に触れた瞬間、懐かしい感触に胸が熱くなった。


ゆっくりと、右手で旋律をなぞり、左手で和音を添える。


そのときだった。


背後から、ハミングが聞こえた。


「……ふぅーん、ふふーん……」


女の子の声。


私は振り返った。


誰もいなかった。


窓も閉まっている。音楽室には私ひとり。


でも確かに、耳元で聴こえた。


──私が弾いたメロディを、誰かが口ずさんでいた。


その日は、それだけだった。


けれど、次の日。


音楽室の前を通りかかったとき、扉の向こうから、ピアノの音が聴こえた。


誰もいないはずなのに──。


旋律は、昨日の私のものだった。


全く同じ音の運び。癖まで、そっくりだった。


まるで、私自身がもう一度弾いているような。


私は教室に飛び込んだ。


中には誰もいなかった。


ピアノは静かに閉じられ、鍵もかかっていた。


──ありえない。


けれど、それからというもの、私は夜になると、誰かのハミングが聞こえるようになった。


寝る前、布団の中。


廊下を歩くとき。駅の階段で。


耳の奥で、かすかな声が響く。


「ふふーん……ふふふーん……」


最初は優しい声だった。


でも、だんだんと、声が重なっていった。


ひとりではない。


女の子が、ふたり、三人──増えていく。


声が濁っていく。


ある日、私は保健室に呼び出された。


「最近、寝不足じゃない?」


保健の先生が、私の目の下の隈に気づいたのだ。


私は、全部話した。


“うたうもの”の噂。


ピアノを弾いたこと。


それ以来、声が聞こえてきていること。


先生は、黙って聞いていた。


やがて、ぽつりと言った。


「この学校ね、昔、音楽部の事故があったの」


「事故……?」


「十五年前。部活帰りに、五人の女子が、音楽室で倒れてた。原因不明。全員、意識不明のまま、数ヶ月後に亡くなったの。奇妙だったのは──全員の口が、笑ってたこと」


背筋が凍った。


「その後、夜にピアノを弾くと、“彼女たち”がやってくるって噂になった。……でもね、弾いてしまったら、もう遅いのよ。メロディは記憶されて、“うたうもの”になる」


私は聞いた。


「“うたうもの”って……いったい何なんですか?」


保健の先生は、答えなかった。


ただ、静かにこう言った。


「同じ旋律を三夜連続で聞いたら、最後には──自分の声で歌いだすのよ。体が、勝手に」


その晩、私は夢を見た。


黒い音楽室。


ピアノの上に立つ、髪の長い少女。


首がない。手もない。


でも、歌っている。


口もないのに、声が響く。


私の旋律を。


そして、周囲には、首をかしげた少女たちが並んでいた。


五人。全員、制服姿。


みんな、私を見ていた。


【もうすぐ、あなたも“うたうもの”】


目覚めた瞬間、喉の奥から音が漏れた。


──ふふーん……ふふふーん……。


私の声だった。


何度も口を閉じようとしても、止まらない。


メロディが、勝手に再生される。


そして翌朝、私は音楽室にいた。


記憶がなかった。


制服のまま、鍵のかかった音楽室の中。


グランドピアノの前に座っていた。


目の前の譜面台には、私の手書きの楽譜。


“うたうもの 第六番”


私は、旋律を止めることができなくなった。


私の中に、“だれか”がいる。


“うたうもの”は、私になった。


だからお願い。


放課後に、ピアノを弾かないで。


それは、あなたを“楽譜”に変えるから。


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